複雑・ファジー小説

Re: タビドリ ( No.30 )
日時: 2016/01/05 03:35
名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: 4xHshXk8)

 夕闇の迫る戦場は、とても静かだった。
 ただ荒涼とした平野のど真ん中、身を隠す手立て一つ持たず立ち尽くしていると言うのに、銃声の一つも聞こえなければ、砲弾の一つも飛んでこない。その代り、焼けた火薬と錆びた鉄の臭い、血の生臭さだけが、生温い向かい風に乗って俺達の元まで届く。
 敵陣営の側から漂ってくるのは、猫の側より更に苛烈な戦闘と死の臭気。此処が異様なほど静かなのも、多分、向こうで起こっている騒動のせいだろう。敵である猫に構う暇も失くすほどの何か……俺には、何となくその正体を想像できる気がする。
 ルディカも、そんな気配には気づいているようだ。パタパタと耳を動かしながら、彼は杖を両手に持って、陽の上る方角をじっと見つめている。
 猫の聴力は時にコウモリを凌駕する。もしかしたら、今もそうして俺には分からないものを聞いているのかもしれない。僅かに赤く染まった——どうやら、何かが炎上しているらしい——東の空へ耳を傾けて、彼はぼそりと呟いた。

「“疾風”……」
「かもな」

 咆え声が、聞こえたのだろうか。耳を澄ませても、荒れた平野はぞっとするほどの静寂に包まれていた。
 けれど、耳の良い猫の言うことだ。あの赤い空の向こうで暴れているのがあの白い飛空艇だと言うのは、もう十中八九間違いあるまい。そしてそうなら、アエローの暴れっぷりはもう凄まじいものだろう。たった一機で戦場からすっかり兵を引き上げさせ、これほどの静謐を此処にもたらす程度には。
 杖の先に点る赤い火が、足元に落ちた影を小さく揺らす。何とはなしにそれを眺めていると、やおら猫耳の影がゆらりと動いた。

「僕の出番、ないかもしれませんね」

 呆れと、寂寥と、それから少々の脱力感。長い鉤尻尾をぷらぷらと気だるそうに揺らしながら、ルディカはそれでも平野を突っ切っていく。
 きっと何か残してはくれているだろう、と。そんな慰めの声を、無理して伸ばした背に掛けようとして、俺はそっと喉の奥まで飲み込んだ。あのバカ二人が彼のことを考えているはずがないだろうし、よしんば何か残っていたところで、おこぼれを貰うなんて屈辱にしかなるまい。
 じゃりじゃりと乾いた砂を蹴立てる音だけが、俺の耳に大きかった。


「これは——!」
「ぜ、全部アエローの仕業かよ……!?」

 ぞっとするほどの静寂の中を歩き、寒気がするほど綺麗な星空の下を渡って、時に聞こえない音に怯える魔法使いを叱咤などして。
 熊蜂の羽音のような、鯨の怒号のような、そんな低く重たい音と振動が俺にも分かる所まで来たときには、空は夕焼けのように紅く染まっていた。
 無理もない。全部燃え上がっているのだ。そちこちに設置されたテントや特火点も、猫族の陣営にはない頑強な要塞も、土と鉄で幾重も壁を作って護る武器庫も、何もかも。軒並み蜂の巣になり、炎上し、崩れ落ちて、辺りはさながら東方の地獄絵図。既に避難するなり何なりしてしまったのか、兵隊の姿を見ないことだけが救い、なのだろうか。
 ——無論だが、俺達はまだ何もしていない。
 だからと言って、猫族の誰かがこっそりやったと言う訳でもないだろう。いくら猫族が暗闇で真価を発揮する生き物だとは言え、あんなだだっ広い平野を、同族の眼さえ掻い潜って移動するなんて芸当が出来るとは思えない。
 ならば、これは全部。
 アエローが、単騎で。

「嘘だろ、おい……」

 信じられるわけがない。
 いくらアエローが凄まじいからと言って、猛禽の一個旅団をたった一機で相手取った“疾風”だからと言って、こんなことを俄かに信じられると言う方がどうかしている。今こうして目の前で見ている俺も、俺よりこの戦場と戦争を深く知っているルディカさえも、信じられないのだ。
 有り得ない、こんなこと。
 起こり得ない、はずなのに。

「エドガーさん、あれが……?」
「——嗚呼」

 アエローは、空を舞う。
 灼熱の海を蹴立て、傷一つなく、いっそ優雅に。