複雑・ファジー小説
- Re: タビドリ ( No.32 )
- 日時: 2016/11/04 03:11
- 名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: HccOitOw)
アエローは、俺達の予想を悉く飛び越えた。
狼よりも何十倍も大きな唸りを上げながら、俺達から少し離れた低空に降り立った水鳥は、接地の瞬間にこそ大きな音を立てて揺れたが、それだけだ。後は白鳥が水辺に降りるときと同じように、ごく滑らかに地面を滑っていって、やがて静かに止まった。
水鳥は水辺でこそ優雅だが、地上ではちょっと不格好だ。だが、アエローは地上への着陸さえも綺麗にこなしてしまった。
空を翔け、水を蹴り、地にさえ降り立つ艇ふね。一個大隊と比肩するほどの力を持つ鳥。末恐ろしい化け物としか言いようがない。
俺を含め、誰も彼もが唖然として地に降り立ったアエローを眺める中で、バガンッと大きな音。思わずその方に注目してみれば、胴体に穿たれた穴を塞ぐ透明な蓋が大きく開かれて、アエローの操り手二人が地面に降り立とうとするところだった。
俺を縦に二人並べてやっと手が届くくらいの高さを、二人の老雄はものともせずに飛び降りる。塀を越える猫のようには優雅でないが、危なげもなくしっかりと地に足を付けて、彼等はまっすぐに俺達の方へと身体を向けた。
背高の、ごつい影。見慣れたシルエットに、思わず声を上げる。
「ロレンゾ、ベルダン!」
返る言葉はない。ただ、二人は顔を見合わせるような動きをして、それから肩をちょっと竦めたかと思うと、ぐっと足を曲げ、一気にこっちまで走ってきた。
——あ、そうだ。
忘れちゃいないぞ。
「オラァッ!」
「痛ッてぇえ!?」
何をするつもりだったのかは知らんが、とにかく俺に走って肉薄してきたところに合わせて、蹴りを入れておいた。
年かさの犬隊長にやった時と同じか、それ以上の力で、前にも蹴ったところにカウンターキックをぶちかます。こんなにやってもこの頑丈なジジイの丸太みたいな脚はビクともしないのだが、まあ青アザの一つくらい出来ただろう。
その場にしゃがみこみ、脛を押さえてぷるぷるしているロレンゾ。ジロッと下から睨んでくる金貨の色の目は、ちょっと涙ぐんでいた。
「な、何すんだ小僧っ、俺のスネは薪じゃねぇんだぞ……!」
「あんたのせいで色んな奴が頭抱えたんで、苦悩のおすそ分けってことで」
「それで蹴られるっていくらなんでも理不尽だろがい!」
「ほざくな!」
叫んだのは年かさの隊長。何かを振り切るような一喝は、束の間炎の熱さえ周囲から消し飛ばした。
そして、怒鳴られてようやくロレンゾが状況を真面目に把握する気になったようだ。まだ痛むらしい脛を擦り擦り立ち上がった彼は、先ほどまでのふざけた態度から一変、吠えた張本人さえ思わず鼻白むほどの厳しさを身にまとっていた。
ざくり、と粗い砂利を踏みしめ、一歩。年かさの前に立ったロレンゾは、モノクルの奥の隻眼を細める。
「手前が隊長か」
「嗚呼そうだ! 貴様に大隊を全滅させられた、三流以下の愚か者だ……!」
脚の痛みを堪えているからか、伝説の英雄を目の前にした緊張か、不甲斐ない結果と自分への強い怒りか、その全てか、そのどれとも違うものか。殺気とも怒気とも言い難い、けれど強烈な激情を、彼は声に乗せて吐き出した。
武器庫も食糧庫も、要塞の全ても、犬達が周到に用意してきたであろう戦場は、たった一騎の鳥の前に成す術もなかったのだ。隊長としての悔しさと情けなさは、共感は出来なくても、推察し理解することは出来る。
ロレンゾならば、より深いところで、あるいは全く違う次元で、彼の激情を理解するのだろうか。表情からそれは読み取れなかった。
その代わりに、彼は言葉を犬達に返した。
「勝てなくて当然だわな、俺ァ災厄だぜ」
「ふざけるな! 我々はあらゆる事態を想定して——」
「教科書通りの回答をどうもありがとう」
柔和で、けれど容赦なく。
隊長の主張を黙らせたのは、ロレンゾの少し後ろで佇む、黒い影。
「だが、何一つ通用しない」
じゃらり、と鈍い金属の音。未だ燃え続ける炎にいくつもの耳飾りを光らせ、鼻面に引っ掛けた眼鏡をゆっくりと外しながら、ベルダンはロレンゾを押し退けて犬達の前に立った。
犬の隊長は俺より背高だが、ベルダンはそれ以上。おまけにロレンゾより更に筋骨隆々の大男だ。こんなもん見た日には、子供でなくても肝が潰れちまうだろう。事実、いきり立っていた隊長はしゅんと尻尾を降ろし、顔を伏せて無言で睨みつけてくるベルダンの言葉を待つばかり。
そんな彼を、ベルダンは検分するように見つめていたかと思うと、ふっと空色の目を細めた。くるりと長い尻尾を丸めているのは、どうやら言葉に悩んでいるらしい。
次の言葉がベルダンの口から紡がれるまで、沈黙は長く続いた。
「時を経て劣化したとは言えど、アエローは『遺物』だ。人間の技術と思想を以って作られたものが、俺達智獣の予想の範疇に収まるものとは思えん」
「何を……貴様等はそれの操り手ではないのか」
「使えることと理解することは別物だ。俺やロレンゾはアエローを操れはするが、何の為に存在するものなのか理解することは出来ない。武力を以って他を制するためならば、十万の猛禽を墜とす能力など必要ではない」
過剰な力など身を滅ぼすだけだと、吐き捨てるベルダンの声は静かだった。
ロレンゾは何も言わずに、明後日の方をただ眺めていた。
「四十年アエローの修理と整備をし、設計の隅々まで知り尽くして尚全てを理解し尽くせなかったものを、今日この瞬間に初めて見た貴様等が予想し得るなどと思う方が愚かだ。『遺物』とはそれほど甘い思想で作られたものではない」
「だが……いや、それでこその“災厄”か」
ふぅ、と溜息を一つ。敵うはずがないな、と呟いて、やおら彼は顔を上げた。先程までの鋭さを光らせた若草色の目を、老雄二人は黙って見つめる。
放たれた声は、これまでのどの声とも違う、力強いものを湛えていた。
「それでも我々は、『遺物』に発展と進化の可能性があることを信じて疑わない。貴様等が理解し得なかったものを理解したときに、我々はより高い次元へ足を踏み出せるのだと信じてやまない。……そして、それを妨げる者が現れた時、我々はこれに全力を挙げて抗おう」
朗々と切られた啖呵はある意味、敵対宣言とも言えるだろう。
彼の言い分は、今の状況に照らして考えれば、猫族どころか『遺物』に手を出す全ての者との取り合いを止めないと言っているにも等しい。つい先ほど、その『遺物』であるアエローに叩きのめされた者が放つ台詞だとは思えなかった。
ロレンゾとベルダンは、どう出るのか。
内心ハラハラしながら見守っていると、彼等は唐突に、呆れたような表情をして肩を落とした。
「くだらん」
声を揃えて突っ返したのは、その一言。
その目には、怒りと呆れ。
「その程度の理由で、手前はもっと大事なものまで危険に晒したってのかい」
「その程度、だと!? 『遺物』の可能性を追及すらしな——」
「ほざけ小僧。脅威を脅威と把握も出来ず、他の有様を認識もせず、目の前の状況に振り回される馬鹿が一丁前に災厄を語るんじゃねぇ。『遺物』がそんな幸せな頭で御せるもんだと思ったら手前等、もう一度滅びることになるぞ」
ごぉ、と低い轟音。巻き起こった風に左袖が揺れる。
その時、初めて隻腕と言う事に気づいたのだろうか。ハッとしたように隊長は息を呑み、その瞬間出来た空隙に、ロレンゾは言葉を割り込ませた。
「手前等の望むだろう通り、智獣の進化を促した『遺物』も世の中には数多かろうや。だがな、そういうのは全部あらゆる世界と業界が総動員して知識と経験を共有したからこそだ。何百回『遺物』を掘り起こして研究したところで、手前等だけでそれを占有する限り、進化なんぞありはしない。あるのは破滅だけだ」
「ならば貴方達はどうなる。アエローのような力、それこそ個人が持っていいものではあるまい!」
「おうよ、俺達が持つにゃァ実に手に余る代物だ。——そう、この俺ですら持て余す。この力を手前等や猫が持って戦争なんぞおっぱじめたら、俺達はもう一度星の怒りを買うことになるだろうや。手前にその意味が分かるかい」
目に浮かぶ色は、怒りと呆れのまま変わらず。
射殺すような眼光に、犬の饒舌が止まった。
「アエローは俺だけが飼って、俺の代で潰えると断言できるからこそ許される“突然変異”だ。こんな化け物量産して他の奴等が飼い始めてみやがれ、戦争が何時まで経っても終わらねぇじゃねぇのよ。それとも何でェ、手前は戦争の種を生まないと存在意義を見出せない戦闘狂かい?」
「そうだ、と言ったら?」
「即刻手前の首をヘシ折る」
ロレンゾの声に迷いは無かった。
ざっ、と大きな足音を立てて彼は隊長との間を詰める。その身から放たれる威圧感と殺気の冷たさは、相対している隊長のみならず、俺達の身さえも凍り付かせるほど。止せ、と声を張り上げることも出来ず、ただ見ていることしか出来ない俺を一顧だにせず、老雄は唖然とする若輩の前に立ちはだかり——
企みが成功した子供のように、笑ってみせた。
「へっ、手前にそんな度胸あるわけないだろ。名前は何だい?」
「……ニーベル。最前線の大隊長をしていた」
「そうか。俺はロレンゾ、そっちのデカいのはベルダン。知ってるだろう、四十年前の“撃墜王”だ」
よろしく、と差し出された傷だらけの手を、ニーベルは力強く握り返す。
直後、糸が切れたようにその場へ崩れ落ちた。