複雑・ファジー小説

Re: タビドリ ( No.43 )
日時: 2016/03/03 12:43
名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: ZExdpBCU)

 苔むした倒木を乗り越え、湿った朽ち葉を払いのけ、顔に覆い被さる枝葉を押し退けながら、時折名を呼ぶ。残響の中に応えを探せど、返ってくるのはただ欝々とした静寂ばかり。何処まで行っても同じ風景ばかり続くその不安は、勘を頼りに進める足を引き留めようとしてくる。
 いつの間にか迷子になったラミーを探して、かなり時間が経っただろう。見上げた空は夕焼けの赤さを通り越し、暗くなりかかっていた。
 「無暗に森を歩き回るな」との遣いからの忠告を守るべきとは分かっている。長く住んでいる者の言うことを聞いた方がいいってのも承知済みだ。だが、それでも俺は、彼女を探す義務がある。従者を遭難させたままにする主人なんかいないし、それが守神のお姫様なら猶更探さなくちゃならない。

「ラミー、ラミー! おい、何処だ!?」
「もう戻って下さい、私とてこれ以上彷徨えば元の道には戻れませぬ!」
「なら一人で戻ってろ!」

 鋭く釘を刺してきた遣いを、悪手と承知で突っぱねた。
 何しろ、そこら中に嫌な気配と生臭い獣臭が漂っている。幸い腹は満たされているようで、俺を取って喰おうなんて感じではないが、それでもテリトリーを荒らされていい気分ではないらしい。そして、その数は多分、ロレンゾが孤軍奮闘してようやく捌ききれるくらいだろう。
 要するに、手の付けられない大集団ってことだ。ラミーがどんだけ魔法に卓越していたとしても、こんなものに狙われて一晩中無事でいられるワケがない。故にこそ、探すしかないのだ。どれだけ危険であろうと。

「何でこんなトコに狼が縄張り張ってるんだ」
「何でも何も、我々の方こそ居候です。狼の方が先住なのですよ」
「ゎお、マジかい」

 居候を許したってことは、交渉に応じて縄張りを譲る程度には寛容と言うことか。けれど、この雰囲気からして明らかに俺達が歓迎されてないことは確かだ。余計早く探し出さないと。
 ちらと森の暗きに目をやれば、らんらんと輝く琥珀色の双眸とバッチリ目が合う。ぎょっとしてすぐに逸らしたが、視線はべったりくっ付いて離れようとしない。歩調を速めても、それに合わせて気配も同じように張り付いてきた。何が何でも俺達を見逃す気はない、と言うことか。
 引き剥がそうとするだけ無駄だろう。一応、いざと言うときにすぐ応戦出来るように心構えだけはしながら、魔燈鉱のランタンを鞄から引っ張り出した。鞄から取り出した魔燈鉱は、普段のランプ係がやるよりはかなり弱いものの、明かりとして使うには申し分ない程度の光を既に放っている。
 光らせているのは、俺じゃない。この場所それ自体——もっと厳密に言えば、彷徨いの森を覆うトウヒの木がそうだ。

「トウヒってマジですげぇ魔力貯めるんだな……流石“杖の木”」
「関心している場合ですか。こんな物騒な所で」

 遣いが目に見えて冷たい。ラミーの助力なしで光るランタンに感心する間も与えず、彼は周囲を鋭く警戒して、さっさと先に行けとばかり無言で催促してくる。得体の知れないところに入り込んで焦るのは分かるが、ちょっとせっかちすぎやしないだろうか。
 とは言え、陽が暮れてきてそろそろ本格的にマズいのも事実。目印代わりとトウヒの枝を一本折りつつ、分厚く積もった落ち葉と小枝を払いのけ、折々に倒れて榾木(ほだぎ)と化している太い木の幹を跨ぎ越しながら、森のより深みへと足を進めた。
 鳥の勘を狂わす森の中、十年積み重ねた旅人の勘だけが、俺の頼りだ。


「あいつ、何で俺から離れやがったんだ……!」
「——だから森の奥を見るなとあれほど申したと言うのに」

 更に時間が経ち、遂に見上げても空は見えなくなってしまった。
 陽が暮れてしまうと、森は一層深く暗く俺の前に立ちはだかってくる。魔燈鉱の明かりは蝋燭などより何倍も明るいのだが、それでも足元とその少し先を照らし出すのでやっとの有様。そのくせして、依然付きまとう琥珀色の目だけは此処からでもよく見えた。
 ラミーは未だ見つからない。そして、何度か枝を折って付けた目印にすら行き当たらない。どうやら、俺も遭難に片足を突っ込んでいる状態のようだ。一方の遣いはと言えば、随分前から俺を説得するのを諦めて、今はランタンを提げる俺の翼の上に鎮座している。
 菫色の眼は深い疲労と呆れの色を浮かべていた。

「魔力を帯びた土地は、魔法使いの目には魅惑的に映るものなのですよ。何がどうとは言えませぬが、一度見つめてしまえば自力で抜け出すのはとても難しい。特にあの方は好奇心が強いですし——」
「入り込んだら抜け出せないだろうって? させるかそんなこと」
「……随分と人魚さんに情を傾けておられますね」
「いかがわしい言い方すんな。あいつに何かあったら俺が殺されちまう」

 友達と言うには距離が近いのは確かだが、何処まで行っても親友止まりでしかないと言うことは強調しておこう。ダチョウが人魚に恋慕って、そんな異種恋愛の気なぞ俺には断じてない。……断じてないのだ。
 無感情に言い放った遣いの言葉をぶった切り、今の今まで足元ばかり追っていた視線を上げる。魔燈鉱の光が届かぬ森の奥、まるで何かの裂け目のように、闇がぱっくりと俺の前に口を開けていた。その洞々たる黒さを見つめた途端、変な寒気が全身を走り抜ける。
 瞬間。

 ——こっちに、ラミーがいる。
 勘が働いた。ほとんど自動的に足を暗きへと繰り出す。

「エドガー?」
「シッ!」

 音を立てず、息を潜めて、けれど出来得る限り早く。
 ランタンを持つ手を左から右に換え、足元に携えたナイフを鞘(シース)から引き抜いて、何でも飲み込んでしまいそうな深淵を分け入っていく。一歩踏み出すごとに付け狙う狼の体臭が強まり、同時に殺気めいたものをこめた視線が全身に絡まりついた。
 人魚姫としての立場と魔法を取り上げてしまったら、ラミーに残るのは“か弱い女の子”の身一つ。捕食者たる狼にとって、こんなに狙いやすい獲物もそうは居ないだろう。人魚が美味しいのかは知らないが、少なくとも俺の勘は、強烈な生臭さの中心に獲物として彼女がいると告げていた。


 そして、それは的中する。

「何してんだ、てめぇ等ァッ!」

 一際立派なトウヒの幹に背をぴったり押し付け、声も出せず固まっている小さな人魚が一人。その視線の先には、今にも飛び掛からんばかりに姿勢を低くし、唸り声を上げる痩せこけた狼が三匹。絶体絶命、そんな言葉が脳裏を過ぎったその瞬間には、俺は手近な狼を横から蹴り付けていた。
 走ってきた勢いそのままにブチかました蹴りは、毛皮の下に浮いていたアバラに命中。骨のヘシ折れる形容しがたい音と感触に思わず顔が歪む。だからと言ってキャーキャー悲鳴を上げる暇もない。近くの奴等を巻き込みながら吹っ飛んでいく狼を尻目に、俺は左から飛び掛かってきた奴の顎下に潜り込みながら、逆手に握りしめたナイフを下から上に振るった。
 切っ先が捉えたのは首。ロレンゾが新調したナイフのことはまだ検めていなかったのだが、どうやらとんでもない威力のものを俺に寄越したようだ。刃は分厚い毛皮と筋肉の層を易々と突き破り、切っ先は骨にまで食い込んだ。ガチリと硬いもの同士が噛み合う感触がやたらと生々しい。

「ェ、エディ……?」
「馬鹿ッ、動くんじゃねぇ!」

 聞こえてきたか細い声には乱雑に返答し、ナイフを引っこ抜いて獣臭い身体を地面に放り投げる。ちらと俺がさっき蹴飛ばした奴の方を見てみると、まだ子供らしい狼がぐったりした巨体の下敷きになって呻いていた。親子だったのだろうか。
 声からしてかなり重そうだが、捕食者を助けられるほど俺は聖人でもなければ君子でもない。血まみれのままナイフを鞘に押し込み、放り捨てていたランタンをひったくるように拾い上げ、ラミーの頭の上に避難していた遣いへ「逃げるぞ」と一声吠える。
 返答は聞かない。そのまま一散にラミーの傍へ駆け寄り、一瞬前までナイフを握り締めていた手で彼女の腕を掴んだ。刹那。

「離してっ!」

 掴んだ手が、振り放される。
 今しがた俺が掴んだ所を庇うように抑え、背を丸めて縮こまりながら、ラミーは俺に目一杯の怯えと恐怖を向けていた。
 確かに、ほんの少し前まで狼を蹴倒したり突き殺したりしていた奴に手を掴まれたら、誰だって怖いだろう。けれど、ラミーは今までにも同じような状況は何度か経験して、その時は俺にこんな目を向けたりしなかったのだ。……従者になって三年にもなる彼女が、今更恐怖感を覚えたのか? そんな馬鹿な。
 良いからここを離れよう、と手を差し出しても、ラミーは自分の身体をぎゅっと抱きすくめたまま動こうとしない。途方に暮れ、差し出した体勢のまま棒立ちになってしまった俺に、遣いが助け舟を出す。

「エドガー、翼が血塗れです。手を取れと言われても怖いでしょう」
「え? あ、あー」

 ハッとして見れば、確かに、血糊のせいで翼どころか彼方此方が真っ赤になっている。必死になりすぎて全然気付かなかった。これじゃあ怖がられても仕方ないだろう。一応あまり血が出ない箇所を狙ったつもりだが、咄嗟のことで狙いが外れてしまったのか。
 ——なんて、今考えていてもしょうがない。
 ずっと俺を狙っていた連中が、さっきの刃傷沙汰で食物連鎖もくそもないくらいに殺気立っている。これで俺がバラバラに解体されたり踊り食いにされたり、なんてことになってラミーにトラウマでも作った日には、俺は地獄にも行けやしないだろう。

「ラミー、弁明は後でさせてくれ。早く逃げんと俺がヤバい」
「ェ、エディ〜……」

 どこぞの殺人鬼みたいな有様で言ったところで説得力は皆無だが、俺だってこれ以上狼の相手なんぞしてはいられないのだ。
 半泣きで見上げてくるラミーに、疼痛を堪えて右の翼を差し出した。ここでようやく多少は状況が掴めたか、恐る恐る差し出してきた手をがっしり掴んで、自分の手元にぐいと引き寄せ、その勢いのまま後ろに放り投げる。うわひゃあ、と甲高い声を上げつつも、彼女は上手く受け身を取ったようだ。
 何するの、とプンスカしているラミーの方を振り返る。茶色い革の鞍の上、座礁したイルカみたいな恰好で、人魚がへばりついていた。俺の意図したことは何となく汲めているようだが、何だか恨めしそうに頬杖をついている。いきなり放り投げたから仕方ないんだろうが……

「文句は後で聞くから、ちゃんと掴まれ、あんま余裕ないんだから」
「ぅうっ、エディのばかっ! いきなり投げないでよー!」
「いいから掴まれっつーの! 後で謝るから今は逃げさせろ!」

 やけになって叫んだら、返答は沈黙。拗ねたのかと横目で見れば、彼女は相変わらずへばりつくように鞍へ身体を付けたまま、両手でぎゅっと鞍を握りしめている。これなら俺が振り落とす心配もないだろう。
 ならば、俺は全力でやれることをやるだけだ。

「遣い、全力で付いてこい。俺ガチで逃げるから」
「エドガー、貴方この森の中を走る気ですか? 余計に迷いますよ」
「大丈夫、自信はある」

 勘がそう告げる。ラミーを探した時と同種の、けれど正反対の勘だ。
 この迷いの森の中、勘だけでラミーを探し当てた実績があるからだろう、遣いは何も言わず俺に尻を向けた。信頼している、と言うことだろうか。もうそう言うことにしてしまおう。
 俺を狙う気配が濃くなってきやがった。さっさと離れないと、本当に手に負えなくなってしまう。

「——こっちだ、遣い!」

 振り千切るように一声張り上げ、連なる木々の向こうを一睨み。
 姿勢を低め、湿気た土をぐっと踏みしめて、思い切り蹴り付ける!