複雑・ファジー小説

Re: タビドリ ( No.44 )
日時: 2016/03/13 17:45
名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: ZExdpBCU)

「ぉおやばッ、目茶苦茶来てやがんの……!」
「お道化ている場合ですか!?」

 湿気て滑る土をガッチリ掴み、腐りかけた倒木を一息に飛び越え、花道のように枝の間を伝う蔓草の下を潜り抜けて。たまに居るべきものが居るのを確認しながら、後ろから追い立てる獣の群れを振り千切るように、彷徨いの森を駆け抜ける。
 土を踏む重い音に混じって耳に届くのは、遠くに響く朗々とした吠え声と、背後からぐんぐん速度を上げてくる無数の足音。狼の縄張りへ勝手に侵入した挙句、その同胞を二匹も傷付けたのだから狙われるのは無理もないが、だからと言って大人しく捕まってやる気なんかさらさらない。
 鞍にしがみ付くラミーをもう一度見て、走る速さを上げる。狼の足の速さには俺だって敵いやしないけれども、持久力なら一撃必殺の捕食者よりも俺の方が数段上だ。今は調子に乗って走っているかもしれないが、同じ速度で一時間は走れまい。
 射貫くような琥珀色の視線を掻い潜り、森の中を右へ左へ。しかし、狼共はどうやら、俺より数段上手の連携を取って追いかけてくるらしい。ともすれば俺が迷いそうなほど道を迂回しまくっているのだが、後方の足音と肝の潰れそうなほどに殺気が籠った唸り声は、最早増える一方だ。

「あーくそっ、埒が明かねぇなオイ!」
「距離は離れていますが、このままでは……」
「! エディ、右ッ!」

 ラミーが悲鳴を上げる。
 その意味を俺が理解し、体を動かすより早く、俺は横からの衝撃に吹っ飛ばされていた。

「い゛ッ——!」

 ただでさえ折れて動かしたくない場所なのに、そんなトコに何か喰らっては流石に堪らない。一瞬意識が暗転し、受け身を取り損ねた俺は、思いっきり木の幹に半身を叩き付けてしまった。その衝撃は俺の頭で受け取れる限界を超えたようで、あらゆる感覚が一瞬全身を横滑りしていく。
 そんな思考と意識の空隙を縫うように、俺へ当身を喰らわせて来た奴が、上から覆い被さった。逃げなければ、と考えた時には最早遅い。毛むくじゃらの巨体に半ば圧し掛かられる形で組み伏せられ、鋭い爪の覗く手が頭を押さえ付けてくる。ぐりり、と強引に土の上へ頭を捻じ込まれて、土と黴の臭いが鼻を突いた。
 火山の底から鳴り響くように、唸り声は重く暗く。革のヘルメット越しにすら痛みを感じるほど俺の頭をガッチリと締め上げて、そいつはとっ捕まえた獲物をジロジロと眺めまわしている。悦に入っているのか、それとも何か別の目的か。意識が途切れそうな激痛の中で、思考回路だけは妙に明晰だった。
 俺をどうする気だ。何の気なしに尋ねたら、俺を見る視線が一層鋭くなった。

「質問に答えろ。その後でゆっくり喰ってやる」
「ははっ、止めとけよ。不味くて後悔すんぜ?」

 この状況でバカみたいな軽口が飛ばせるなら、余力はあるか。
 だが、狼の力は俺よりも遥かに強いし、その上俺も散々逃げ回ってかなり消耗している。振り解こうにも、身体どころか頭さえ動かなかった。逃げる余力はあってもそれ以上の馬鹿力を出せる状況にはないらしい。ちょっとくらい根性出せよ俺、と自分を叱咤激励してみても、動かないものはどうしようもなかった。
 こいつの質問に答えたら、気が変わるだろうか。そんな可能性無いのと同じだが、今の俺に「答える」以外の選択肢は用意されていない。どう足掻いても、俺が次に選ぶ言葉は一つしかないのだ。

「で? 何だよ、質問って」
「貴様等は一体何だ? 身形からしてペンタフォイルの住人ではあるまい」
「ただの旅鳥と従者だよ。色々あって“猫の王”から呼び出しを受けた」
「“猫の王”? あの耄碌猫が貴様を?」

 嘘を吐くな。冷めた声で突っ撥ねられた。
 嘘じゃない。色々の部分は曖昧になっても、そこはきっぱり否定する。

「あんた等に嘘ついたって意味ねぇだろが。それにこちとら王様からの遣い付きだぜ」
「そこで気絶している柄長(えなが)か? 冗談もいい加減にしろ」

 あまりふざけていると生きたまま膾(なます)だぞ、と、上から降りかかる声は重圧に満ち。だから本当だって、と俺が反駁しかけたのを、奴は頭を握り潰さんばかりに掴んで黙らせに掛かる。俺が何をどう言った所で聞き入れる気はない、と言いたいのか。いくら何でもあんまりだろうそんなの。
 心中で反論している間に、ぬぅ、と首元に近づく嫌ァな気配。
 喰い齧ってトドメを刺すつもりか。

「悪趣味な仕留め方しやがって……」
「一撃で息の根を止めてもらえるだけ有り難いと思え。他の奴等が貴様を捕まえたなら、間違いなく脚から齧りつくだろうさ」
「で? 好き放題喰い散らかして後は森の養分かよ。どうせ喰うならもうちょっと綺麗に——っ」

 無理やり話題を引っ張ろうとして、首を踏まれた。調子に乗って喋り倒していた最中に気道を潰され、あっと言う間に息が足りなくなる。酸欠で身体が勝手に暴れるが、狼の膂力の前では無意味に等しい。
 鋼を切るような耳鳴り。視界が一気に霞んでいく。
 頭上から毒液のように滴る声だけが、ハッキリと耳に届いた。

「貴様に言われるほどオレ達は下品な生き物じゃないんでな……」

 そこから先は、分からない。何か言われたような気もしたが、鉄の棒同士を叩き合わせたような音が間断なく頭の中で掻き鳴らされて、何も聞こえなかった。視界も鈍い色の霞に埋め尽くされて、まともな景色は何一つとして目に入ってこない。
 目の前が暗い。
 意識が急速に現実から遠ざかっていく。

 俺は、このまま——


<<起ーきろ起きろ、森の主が御呼びだぞー>>


 あらゆる感覚を超えて、響くは何処か懐かしい少女の声。
 暗きに沈みかけていた意識は、その一声で一気に表層まで引っ張り上げられた。

<<てんつくてんつく、ひょーろひょろー。寝坊助さんまでみーんな起きろー>>

 遠く近く、気だるげな声は彼方此方を飛び回りながら、歌うように降り注ぐ。
 同時に、首と頭を締め付けていた力が緩んだ。一体全体何がどうなったのかはサッパリ分からないが、とにかくチャンスだ。肺が軋むほど目一杯に息を吸い込み、両足と左翼に思い切り力を込めて、弾き飛ばすように立ち上がった。途端、ぐらりと眩暈がしてもう一回倒れそうになったが、それは堪える。
 まだ全然空気が足りてないのにいきなり身体を起こしたからか、目の前がまだチカチカしてよく見えない。耳鳴りも凄まじいし、何よりすぐに動けないほどふらふらする。けれど、俺は確かに、生きているのだ。状況の確認が覚束ないほどの息苦しさが、痛切にそう訴えかけた。
 本気で食い殺されるのを覚悟した恐怖やら緊張やら、急に全身を動かした反動やらで早鐘を打つ心臓を宥め宥め、傍に触れた木の幹に体重を少し預けて、深呼吸を数回。甲高い耳鳴りが収まり、目の前を覆う鈍色の霞が薄れた所で、木に寄り掛かったまま周囲を見回す。
 俺の少し後ろの方には、当身を喰らった衝撃で吹っ飛んだらしい、頭を抱えたラミーが、落ち葉と枯れ枝の上に丸まっている。傍では遣いが翼をぐったり広げたまま動かない。狼が気絶していると言っていたのは本当のことだったか。
 どちらも、元気はないがそう酷い怪我を負っているわけでもなさそうだ。取り急ぎ安否を確認して、視線を外した——

「!」
「わぉ」

 ——先で、緑色の目とばっちりかち合った。
 その眼の主は、一体どこから伸びてきたのか、何重にも捩じり合わされ、一本の太い茎のようになった蔓草の上。まるで当然と言わんばかりにその上に立つ、朴の木の葉より尚小さな女の子のものだ。
 カゲロウのような薄く透ける翅を背に広げた、いつも気だるそうな顔の少女を、俺はいつの日にか見たことがある。

 そうだ。
 あの日、あの時、行き過ぎた好奇心の為に消えた、あの妖精。

「ペタル?」

 問うた声は僅かに掠れ。
 緑髪の妖精は少しの間小首を傾げて目を瞬いていたかと思うと、苦い顔をして首を横に振った。

「残念だけど、守神違いかな……ボクはずっと前からこの森の主だよ」
「ぁ——ぃや、ごめん。俺こそ。助けてくれたのはあんたかい」
「んー……そだね」

 表情の苦々しさはほんの一瞬。後はどうにもこうにも眠たげに、彼女は俺の投げ掛けた問いへ答える。そして、俺の反応を待たずに蔓草の上からひょいと飛び降りて、俺の頭の上にぽすんと足を下ろした。おいこら、と声を上げてもお構いなしだ。
 話は後で、と頭上から振る声に、今の状況を思い出す。あの一瞬でこの妖精が何をしたのやら、俺を組み伏せていた狼もその同胞の姿も全く見えないが、だからと言って俺を狙う気配が消えたわけではないのだ。今は此処から離れることが最優先だろう。
 木から身体を離す。妖精と言葉を交わして多少は休憩になったか、酷く疲れてはいるがふらついたりはしていない。足取りにも覚束ないところはなし、逃げるだけならこれで十分だ。
 後は、その辺に投げ出された奴等の事だが……

「ラミー、動けるか?」
「ぅううっ、無理だよぅふにゃふにゃだよぅ」
「嗚呼もう、仕方ねぇ奴だな……ほれ、掴まれ——ってぉお?」
「ヤダよもう。エディまた投げ飛ばすつもりなんでしょ? いいもん、自分で乗るもん」

 まあ、心配ないか。
 すっかりイジけてしまったラミーは自分で背の鞍に、くたくたに伸び切ってしまった遣いは拾い上げて人魚に預け、最前まで目指していた方角をまっすぐに見つめて。頭の上で足をぱたぱたさせる妖精の気配を感じながら、まずはゆっくりと歩を進めた。
 二歩、三歩、四歩。次第に足を速めつつ、愚直には進まない。勘の狂わない範囲で少しずつ迂回しながら、歩行を疾走に変えていく。

「これでまた横から当身とか喰らいたくねーな……」
「んー、あんまり心配しなくても良いと思うよ? 追い払っちゃうから」
「嗚呼っ、私の仕事取られたーっ!?」

 茶番のような会話を挟みはさみ、足の向く先はただ一点に。
 明々と光る魔燈鉱の光を頼りに、黒々とした闇をひた走る。