複雑・ファジー小説

Re: タビドリ ( No.50 )
日時: 2016/06/07 23:23
名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: ZExdpBCU)

「あんた、あの宿に居た……」
「そ、そ。皆カズって呼んでるよ。今日はとーちゃんのお使いなのー」
「父ちゃん……って、ペトロか? やっぱり」
「うん。とーちゃん忙しいからねー、ぼくが来たの」

 ほやほやと呑気な風に、猫っ毛の仔羊はカズと名乗った。
 見間違えようもない、先日ペトロの宿に泊まった時、ペトロの代わりに宿泊人の見張りをしていた奴だ。あんな能天気で経営は大丈夫なのか、なんて無闇に心配したのだが、父親の手を離れてこんな所まで来られるってことは、容姿と雰囲気とは裏腹にしっかり者なのかもしれない。
 ……しかしまあ、これがあの『技工士』の倅とは。お世辞にもそうは見えない。
 そりゃまあ確かに、あの時ペトロに毛を刈られていた羊とは纏っている空気が違うけれども、言動があんまりにもふにゃふにゃしすぎじゃないだろうか。魔法使いに抱く“厳格”だの“冷徹”だの“知恵者”だのと言ったイメージとは大分かけ離れている。
 思わずがっくり首を落としたところで、カズはふにゃっと首を傾げた。

「えっと、次来るときは部屋がいいーって言ってた鳥さん?」
「そんなことも言ったっけな」
「そかそか。大丈夫、鳥さん用のお部屋取ってあるよ。あ、ロレンゾさんは雑魚寝ね」
「!?」

 傍ではロレンゾが咽る声。
 まさか自分に話を持っていかれるなんて思ってなかったのだろう、おい嘘だろ、と投げ放つ声を上ずらせ、不満を代弁するかのように、彼は尻尾で思いっきり噴水の縁を叩いた。びたーん! と中々痛快な音が吹き抜けの塔一杯に響いて、長く残響の緒を残す。
 しかし、カズは動じない。抱えていた布のロールを床に立て、空いた片手で困ったように頬を掻いた。

「だって、今更部屋開けられないよー。誰かと相部屋にする?」
「ンなことしたら片方は確実に床だろがい! 雑魚寝と何が違うんでェ!?」
「じゃあ、早いもの勝ち」

 土の上よりは何倍も寝心地良いよ、と、あんまり慰めにもならないことをニコニコと投げつけて、カズは老雄を黙らせる。早い者勝ちと言われては最早言い返す術もないか、えい畜生と一声吠えて、ロレンゾはバリバリと面倒臭そうに頭を引っ掻き回した。
 彼には悪いが、俺だってもうクタクタだ。誰が譲ってやるもんか。
 さり気なく送られてくる怨嗟の視線から慌てて顔を背け、何とはなしに、俺はルディカの方に目をやっていた。
 ——果たして彼は、憔悴した顔にそれでも凛とした強さを含め、バジャンダンと対峙している。初めて俺の前に現れたとき、ローブに足を取られて息切れしていた奴とは、まるで別人のようだ。俺では、あんな顔をして彼の前に立つことなど、後十年経っても叶わないだろう。
 老いた犬と若い猫、二つの声が交錯する。

「レグルスに意図を確認した。後日正式に遣いを送ろう」
「分かりました、僕が此方で迎えます。御足労をお掛けしました」
「構わん。仮令今日この時でなくとも、どうせ此処には来ねばならん」

 かん、とまた乾いた音。
 バジャンダンが、自身の手にした杖で石の床を叩いたのだ。その遠く緒を引く軽やかな響きは、噴水を水鏡にして自分の顔を覗き込んでいた、あの半人半鳥の女に頭を上げさせた。

「御呼び?」

 長い雀色の髪、勝気そうな鳶色の眼、鷹の下半身に、鷲の翼。首には青い瑪瑙のペンダント、腰に水晶と玉髄の飾りを提げて、猛禽の足首には精緻な銀細工の足環を光らせている。さっきからラミーの顔が赤いのは、申し訳程度にしか隠れていない胸のせいか。
 彼女は『逆巻き嗤う娘(アエロー)』。渦巻く風の精、また或いは、夏に訪れる一時の災難。竜巻やら台風のような激しい風を司る、れっきとした守神だ。
 ——けれどもきっと、ロレンゾを知っている奴ならば、アエローと聞いて思い浮かべるのは、目の前にいるこの気が強そうな守神ではないだろう。むしろ思い出すのはかの真白い怪物、猛禽の一個旅団を真正面から相手して打ち勝った、あの『遺物』の方だ。
 果たして、守神はそんなことを知っているのか否か。噴水の縁にすとんと腰を落ち着け、人間の腕の代わりとばかりに生えた翼で水を弄びながら、彼女は尊大な様子でバジャンダンへ声を投げる。

「このアタシに何の用かしら、犬の王様?」
「移氈(いせん)の着地法に綻びがある。御前の領分だ」

 犬の王の返答はつっけんどん。だからどうした、と突っ撥ねたくなる無味乾燥とした言葉に、アエローは続きを付け足した。

「見て修正してやれって? ハッ、無理無理! この坊やが使ってる魔法は『透風蝶(シルフ)』のもの、完全に管轄違いよ。それに貴方、アタシが何者か知らないわけないでしょう?」
「…………」

 はい残念でしたー、と、嘲笑うようにカラカラ大笑するアエローを眇(すが)め、バジャンダンは無言。眉間に一層深い縦ジワを刻みつつ、杖を右手から左手に持ち替えたかと思うと、杖の先でゆっくりと彼女を指した。
 にんまりと細められた鳶色の目と、冷たく無感情なアザミ色の目が、交錯する。
 そうして睨み合うこと、
 一秒、
 二秒、
 三秒——

「そりゃっ!」
「ぅひゃんっ!?」

 張り詰めた嫌な緊張の糸を、悪戯っぽいソプラノと、甲高い声とがぷつりと断ち切る。バジャンダンはアエローの奇態に鼻白んだか、ぎょっとしたように杖の先を地面に下し、罰が悪そうに杖を仕舞い込んだ。
 一方の声の主達の方を見れば、そこには噴水の縁に頬杖をついて笑う人魚姫と、脇腹を押さえてプンスカ怒るアエローの姿。状況から察するに、ラミーがアエローの脇を突っついて飛び上がらせたようだ。
 一体何やってるのやら。呆れ半分微笑ましさ半分で声を掛けようとして、アエローの金切声に遮られる。

「ちょっと何するのよ!? 何アンタ!? ちょっと!」
「あはっ、あははは、ごめ、ごめんなさぁい! うひひひ、ひひひひ……」
「笑わないでちゃんと答えなさい!」
「うふっ、んふふふっ、ごめんね! ごめんなさい! あはっ、あははははっ」 

 素っ頓狂な悲鳴がよっぽどツボに入ったのか、アエローがマジになって怒声を張り上げても、笑声は収まらない。涙をちょちょ切れさせ、噴水の水を尻尾でばしゃばしゃ撥ね散らかしながら、時折女の子らしくない声も混ぜて、人魚姫は笑い転げる。
 辺りに漂うは変な空気。仕方なく、俺は口を開いた。

「ラミー、めっちゃ疲れてるだろ」
「いひひひっ、そんなことないよぅエディ〜。んふ、んふふふふー」

 ……やっぱりおかしい。
 普段のラミーも十分すぎるほど笑い虫で悪戯好きだが、だからと言って赤の他人にしょうもないことを嗾けて、その上笑い転げるような性格はしていない。これまで見てきた限り、その辺の分別はちゃんと付けてるはずだ。
 ラミー自身が平気と言ってはいても、やっぱり大分疲れてる——いやむしろ、疲労困憊が極まって理性のタガが何本か外れてしまっているらしい。
 これはもう、さっさと此処を出て休むに限るだろう。
 決意して、カズに目をやる。
 彼もまた、任せてとばかり指を立てた。


「ロレンゾさーんルディさーん、こっちこっちー」
「ぁ、え? 僕もですか? 僕には普通に帰る家が」
「いーからいーから。とーちゃんが会いたいってー」
「は、はぁ」

 困惑するルディカの腕を引っ張り、ひーひーとまだ笑い転げているラミーは俺の背に載せ、しかめっ面のアエローは噴水の縁から離れた所に追い出して。てきぱきと俺達を一か所に集め、カズは丸めていた布ロールを解いてばさりと広げる。
 赤や黄、橙で紅葉を、青や緑、黒で蝶の柄を刺繍した、かなりでかい厚布だ。織りや糸の感じは俺が貰ったブランケットとそっくりだが、“紡ぎ家”のタグはどこにも付いていない。売り物にならなかったのか、さもなくばペトロの手慰みで作った布だろうか。はたまた、どれとも違うのか。
 カズが振りたくる度にちらちらと閃く模様、その鮮烈さをぼーっと眺めていると、仔羊は両手に布を引きずったまま、やおら噴水の縁に乗り上がった。

「目ぇ閉じてねー」

 何をするのかと、勘ぐる暇もなく声が掛かる。恐る恐る瞼を閉じると、ぱさりと軽い衣ずれの音がして、頭の上に何かふんわりしたものが覆い被さった。
 さっきの布を被せたのだろう。僅かな圧迫感にほんの少し身を竦ませていると、カズの声が耳に飛んできた。

「さーん」

 呑気なカウントダウン。
 ひやりとした空気が頬を微かに掠めていく。

「にーぃ」

 続けて、高いところを飛ぶような浮遊感。
 一瞬、苔のような匂いが鼻を突いた。

「いーち」

 苔の匂いが、古い木材とほんの少しの獣臭に変わる。
 きしりと、何かが足元で軋んだ。

「おっけー、目ぇ開けてー」

 カズの合図と共にそっと目を開け、瞬間広がる暗闇に目を瞬いて、暗きに慣れたところで周囲をぐるり。
 慣れないような、懐かしいような、不思議な感覚の付きまとう景色を目にして、長嘆息する。
 古びた木の床、毛足の長い絨毯、白い漆喰の壁。
 風に揺れるレースのカーテン、明かりの消えたランタンに、季節外れの風鈴。
 今まで居たはずの奴の姿はなく、やや手狭な部屋の真ん中には、俺とラミーだけがぽつねんと佇んでいる。

 ——やっと、休める。
 そう理解したのは、ホウホウとフクロウが欠伸をし始めた頃だった。