複雑・ファジー小説

Re: タビドリ ( No.53 )
日時: 2016/07/04 03:58
名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: ZExdpBCU)

「ん? こりゃぁ、おいさんがローザ夫人にやった作品(もの)じゃないかな。何でお嬢が持ってるんだい」
「ロレンゾさんが持ってて壊して預かったの! こーんなぎゅうぎゅうの鞄の中に入れっぱなしだったんだよ! ぜぇったい中で潰して割れたんだから——ふむぎゅぅ」
「ちょっと落ち着きなさい。しかしまぁ、ローザ夫人、何考えて脳筋軍曹に贈答しちゃったのやら……使わないのに贈るものかな、彼女」

 突然押しかけて来たラミーと俺に、ペトロは嫌な顔一つせず。ラミー曰く「どうしようもない」ほど壊れた杖を押し付けられても、彼は所有者が変わっていることに少し驚いただけで、呆れも怒りもしなかった。
 普通、自分の作品を目茶苦茶に扱われたら怒りそうなものだ——事実、ほとんどの職人はぞんざいに扱われた作品を見て怒り狂った——が、ペトロは特にそうは思っていないらしい。縦にはぜ割れた枇杷の柄をじっくりと眺め、その半ばほどを指で撫でさすりながら、ペトロは飴色の眼を細めた。

「修理は出来るけど、今すぐには厳しいねぇ。短くて明後日か、調整時間次第じゃあ明々後日までは最低でも掛かるよ。おいさん、なるべく突っ返すのは避けたいんだけど——どうする、兄サン? 旅程と相談して決めておくれ」
「嗚呼……良かったら修理してやってくれ。どうせこの腕じゃ遠出出来ないし、ラミーのストールの調整だってまだ終わってないんだろ」

 ほんの少し苦味を含めて笑い返し、右の翼をブラブラさせてみせる。
 言っておくが、翼は折れっぱなしだ。ここ数日で色々ありすぎて放置気味になってはいるが、だからと言って完治したわけじゃ決してない。動かせば普通に痛いし、動かさなくても結構ジリジリと疼痛が出てくるし、自力では元のように翼をしまうことも出来やしない。
 そんな有様を、ペトロは目をぱちぱちと数回瞬きながら眺めて、そっと枇杷の杖を作業台に置いたかと思うと、のっそりと膝に手をついて椅子から立った。どしたの、とラミーが横で首を傾げる間に、彼は作業台と壁の隙間に手を突っ込み、杖を一本引っ張り出す。
 かららん、と軽やかな鐘の音。宿の出入り口についているそれよりも、少々軽く柔らかい音が狭い部屋に響く。その音は、ペトロが手にした杖に取り付けられた銀のベルから響くものらしい。
 辺りの空気を緩やかに揺らすその音色は、しかしペトロの大声であっと言う間に掻き消えてしまった。

「ケイティ、カズ、こっちおいで!」
「……はぁーい」

 遠くから、二つの声。一つはカズので、もう一つはカズよりも更に幼い猫の声、しかも女の子のものだ。友達なのかとラミーが首を傾げると、ペトロは少し違うと首を横に振った。
 ややあって、軽く乾いた足音が二つと、高い鈴の音が一つ、ドアの前まで近づいてくる。次いで、ぽてぽてと間抜けたノック音が二度。入っておいで、と投げかけられたペトロの声を食い気味に、足音の主はドアを押して入ってきた。

「よしよし。そろそろ消灯の時間だろうに、すまんね」
「いーよ、どーせ皆こっそり夜更かししてるよー。ケイトも呼んだのはどして?」
「後学のためって奴だよ」
「なら何でルディさんは呼ばないのー。ぼくがいてルディさん抜きっておかしくない?」
「居ない猫をこの場に呼べるほど父ちゃん器用じゃぁなくってね。だからと言って怪我人を放り出しちゃおけないさ」

 狭い部屋を埋める二つの影は、一人の仔羊と、一人の仔猫。
 仔羊の方、もといカズは大分見慣れたが、ケイティと呼ばれた仔猫の方はまるきり初対面だ。仔猫もダチョウと人魚に見覚えがないと気付いたのだろう、割れた杖を挟んで何やかやと話し込む羊たちを尻目に、俺の前でぴょこんと頭を下げてきた。
 釣られて俺も会釈し、そっと頭を上げたところに、ころころと鈴を転がすような声が投げかけられる。

「えと……わたし、ケイティです」
「よろしく。俺はエドガー、こっちの小っちゃい人魚はラミー。敬語なんか使わずに喋ってくれ、肩身が狭いから」
「んー。それじゃ、そうするね」

 眠そうな反応は素のものか、或いは本当に眠いのか。のろのろと漫(そぞ)ろな尻尾の振りからして、多分後者なのだろう。まだ日暮れからそんなに時間が経ってないとは言え、今にも寝そうな女の子をいきなり呼びつけるとは、ペトロも中々ヒドい奴だ。
 ……待て。
 突然駆り出されて、文句も言わず応じられるような間柄なのか? どう言うこっちゃ。

「ケイティって、ペトロの何なんだ? まさか小間使い——ぇぐっ」

 思わず問いを口にした途端、ぐい、と嘴を杖で突き上げられた。
 咄嗟に杖を掴もうとした手を割れた枇杷の杖で遮り、ベル付きの杖で嘴をぐいぐい上に押しやってくる。止めろよ、とようよう声を上げても聞く耳持たず、むしろどんどん押し付ける力を強めながら、彼は困ったような低い声を俺にぶつけた。

「羊聞きの悪いこと言うんじゃないよ。この子は弟子」
「で、弟子? ケイティが?」
「そだよー」

 眠たげな返答と共に、嘴に押し当てられた杖をどけたのは、他でもないケイティだ。
 おや、とやや甲高い声を上げるペトロの手からベル付きの杖をすり取り、自分の身の丈くらいありそうなそれを抱きかかえるように持ちながら、彼女は橄欖石(ペリドット)のような色の眼を細めて笑った。

「名前聞いて思い出したよ。エドさん、ルゥ兄と一緒に居た人でしょ?」
「ルゥ兄って」
「ルディカのお兄ちゃん。ほら、運動オンチで炎使いの……」
「待ておいこら。運動音痴は悪口だろ」

 此処で突っ込みを入れる俺を非常識だとは誰も思うまい。
 当のルディカだって、炎使いってことより先に運動音痴な猫だなんて、まさか妹から紹介されるとは思ってないだろう。だって本当だもん、とまるで悪びれる様子のないケイティに、俺は一体なんて顔したらいいのやら。ちらとラミーを見てみると、身をよじって笑いを堪えていた。
 まあいい。声を上げて場の空気を変える。

「ルディカの妹ってことは、何だ。あんたも魔法使いなのかい」
「もちろん! わたし、『癒し手』なんだよ!」

 誇らしげに胸を張るケイティ。対する俺は、「初めて見た」の一言だけがするりと口の端から零れ落ちた。
 ぶっちゃけ、治癒魔法を使える魔法使い自体はそんなに珍しいものじゃない。十年旅してきて、治癒魔法を使う魔導師には少なくとも五人知っているし、使えると豪語する奴はもっと居た。そう言う奴を助けたこともあれば、助けられたことだって何度もある。
 けれども、俺が出会ってきた魔法使いは皆、「自分は治癒魔法が使えるだけで、決して『癒し手』ではない」と口を揃えるのだ。一体何が違うんだと思うが、とにかく彼等は魔法使いの分類でいえば別の所にいるらしい。
 だが、彼女は臆面もなく自身を『癒し手』と誇ってみせた。

「そんな風に堂々と自己紹介出来るってのは、いつか凄い魔法使いになる奴だけなんだってな」
「ほんとっ?」
「嗚呼。お前の父ちゃんがずっとそう言ってた」
「……そっか、お父さん」

 あからさまに、ケイティの顔が曇った。
 どうしたの、と横合いから挟まれたラミーの言葉に、ケイティの表情はますます暗い。

「わたし、あんまりお父さん好きじゃない」

 ——だって、わたしが知ってるお父さんは、何にも喋らなかった。黙っておうちに帰ってきて、黙ってまた出て行って、ずっとずっと帰らなかった。帰れなくなった。
 ——お母さんもお兄ちゃんも、お父さんのことは立派だって言うけど。それならなんで、どうしてわたしと一回も喋ってくれなかったの。

「わたし、一言でよかったのに。何か言ってくれたら、わたしお父さん大好きになってた」

 低く、重く。カズより幼い子供の出せるものとは思えないほどに、声は鈍色に沈んでいた。
 顔を知りながら、ただ一度として会話のなかった父親。ケイティにとって、喋らない男……いや、理解できるような愛情を与えられなかった不器用な親なんて、赤の他人以上の存在にはなれなかったのだろう。記憶にすらない生みの親が、俺にとっての“親”でないように。
 けれども、彼は。

「そんなこと言わずに、思いっきり自慢してやれ。お前の父ちゃんはカッコいい奴だ」
「何にも知らないのに?」
「本当にそうか? よく思い出してみろよ。そんなに冷たい奴だったのか?」

 彼は、娘の手を取ったはずだ。
 あの気難しい魔法使いにも、子に寄り添って見守る時間くらいあったはずだ。
 ——かつての俺が、そうされて親の情を知ったように。