複雑・ファジー小説
- Re: タビドリ ( No.54 )
- 日時: 2016/07/20 13:04
- 名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: MIY9Uz95)
「…………」
ケイティは長いこと黙りこくっていた。
そして、振り切るように数回首を横に振り、やおら俺の垂れ下がっていた右翼を手に取ったかと思うと、高らかに杖を掲げた。
<<薬師が旅路の伝手をば依に、深みに眠れる霊丸(みたま)を羅針に、『還俗の天医(ラファエル)』より癒しを賜おう>>
からん、からん。軽やかに響くは銀の鐘の音。音は部屋中に響き、木の壁に吸い込まれることなく反響して、辺り一帯に幽玄な音の壁を形作る。無論眼には見えないが、確かに存在するものだ。
呪文はルディカが使っていたものとそっくりだが、何処か曖昧模糊とした雰囲気は、兄の放つそれとはまるで違う。この身に何が起こるか、正直なところちょっと不安に思いながら、俺は杖を握りしめるケイティに目をやった。
<<響け楽園(そら)の歌、親しめる者に天の御業を。鳴らせ奇跡の鐘、道行く者が悩まぬように>>
遠く近く、高く低く。軽やかに、けれど厳かに。響き渡るは鐘の音と声。
そしてそれらが遠ざかっていくと共に、光の文字へ置換されていく。周囲を埋める不可視の壁は、いつしか、青白い光で描かれた無数の文字列に取って代わられていた。
それもまた、不変ではなく。
<<与えよ意のままに、朋友の旅の支えを。癒せ麗しく、聖なる御手にて成すべきを成せ>>
文字は互いに重なり、混じり、溶け合っては、一本の細い光の糸に変わり。そして糸は何本もより合わされ、太い束になって、真剣な顔でどこか遠くを睨むケイティの周りに収束していく。
からん、と一際高らかに鐘の音が響き、まとわりつく糸が音もなく光を増した。
——刹那、俺はこの目に見た。
ケイティの代わり、と言わんばかりに俺の翼を取り、目を細めて笑う、六翼の天使を。
「!」
眼前に佇むこれこそは、呪文に読まれたラファエルなのだろう——と、些末なことをつらつら思う暇もなく。天使は俺に聞こえない声で何某か呟いたかと思うと、俺が目をかっ開いて突っ立っている前で、ばらばらと無数の光子になってしまった。
蛍のように散華していく青白い光の粒を、俺はただただ睨むばかり。瞬きも出来ずに硬直する傍を、無数の細かな光がすり抜け、そして、一斉に輝きを失った。
音もなく、あっと言う間に消え果てた天使の後には、さっきと変わらずに俺の手を取る、小さな白猫が一人。表情は相変わらず曇ったままだが、俺を見上げる黄緑色の目にはもう、妙に戸惑い揺れるものはない。
俺の翼から手を離し、ぎゅっと杖を握りしめて、ケイティは一言。
「わたし、やっぱりお父さん嫌い」
「マジで!?」
思わず声を上げざるを得なかった。
普通ここは話の流れ的に「お父さん大好き!」になるもんじゃないのか。いやまあ、そう簡単に人の性格が変わるわけじゃないのはよく知ってるけど、こんなにきっぱり言い捨てられると、頑張って言葉をくじり出した俺のほうが困ってしまう。
まあそう言わずにさあ、と情けなく亡き老魔導師のことを擁護する俺に、ケイティはどこか寂しそうな笑みを返してきた。
「お父さん優しかった。何にも喋ってくれなかったけど、色んなこと教えてくれた。——でも」
声が、震える。
ぐずぐずと鼻を啜りながら、ケイティはか細く床に言葉を落とした。
「でも、やっぱり最後くらい、わたしとだってお話ししてほしかったなぁ……」