複雑・ファジー小説

Re: タビドリ ( No.6 )
日時: 2017/03/01 22:23
名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: 0L8qbQbH)

 高い天井、煤けた梁、熱気を孕んだ灰色の溶鉱炉。ガタガタの金床(かなとこ)、真っ黒に錆びついた金槌に、練習台と思しき小物刃物がそこら中にズラリ。
 年季が入っている。そんな言葉がよく似合うであろう、何とも色あせた空間だった。
 表通りで一番人気を誇る鍛冶師の工房に比べると、道具も工房自体も薄汚れている。けれども、此処で名匠が名作を生み出しているのだと言われれば、すんなり信じられるだろう。表通りイチの気鋭の新人、その彼が持っている工房にはない、刃物のように鋭く、凪の海のような深さを帯びた静謐が、此処には確かにあった。
 そんな工房の奥、隣接する彼の家との出入り口にあたる縁側のところに、ベルダンはどっかりと腰を下ろした。工房は土間の延長みたいなものであって、自宅自体は高床らしい。
 木造高床、土足厳禁。こんな様式の建築物は、この近辺では見かけない。
 ベルダン自体、プレシャ大陸の出身ではないと聞いているが……今は置いとこう。

「しかしまあ、俺一人の為にわざわざ仕事中断させて悪いな。炉の火まで落としちまって、大丈夫だったのか?」
「構わん。そう言った類の調整が要る仕事だった」

 さっきまで腰に掛けていた革製の前掛けもその辺に放り出し、溜息。鼻面に乗せていた老眼鏡を外して、空色の目を少し細める。表情こそはほとんど変わらないし、彼自身どんなことがあっても滅多と口に出したりしないが、疲労が溜まっていることは何となく察せられた。
 抱えている事情は詮索せずに、本題へ入る。

「でさ、ベルダン。あんた、何か知ってる風だったけど……?」
「……ロレンゾから概要は聞いているだろうが、俺とロレンゾは元々、同じ軍隊の同じ部隊に居た。貴様等が言う“空飛ぶ金属の船”——俺達が言う所の“飛空艇(ひくうてい)”を泉から引き揚げたのも、軍隊に居た頃だ」

 投げた問いに、明確な答えではなく昔話で切り返された。
 そこから続く話が、きっと答えになるのだろう。知ってる、と簡単な相槌だけ打って、続きを促す。ベルダンは小さく頷いて、けれども次の言葉を声にするまで、たっぷりと時を使った。

「あれを飛ばしたのは、俺の知る限り十回しかない。前者五回は、猛禽共から制空権を強奪する為の攻勢」
「嗚呼、聞いてる。なら、後五回は?」

 たった五回の出撃で空の半分をブン奪ったって言うのも、それはそれで物凄い話ではあるが。その辺の武勇伝は、既に他の街の元軍人やらロレンゾ本人やらから十分過ぎるほど聞いている。
 俺が今此処で、本当に知らなければならないのは、五度あったと言う出撃の内の、最後の一度だ。
 問えば、ベルダンは躊躇いもなく口にした。

「四十年前の戦争……ロレンゾが腕一本失くしたその時だ」

 バシン、と乾いた音。
 何か重苦しいものを振り千切るように、長い尻尾で木の床を叩く。遠慮も何もない打ち下ろしで痛くないのかと思ったが、トカゲの表情は相変わらず何も変わらない。瞳にも漣一つ立ってはいない。
 ただただ、彼は何処か遠い所に焦点を合わせて、独り言のように続けるばかり。

「駆り出されたのは、ネフラ山系の東側。今も立ち耳の犬と猫で小競り合いをしているようだが、昔のあの辺りは正しく戦場でな。犬猫の争いなどと生温いものではない、プレシャ大陸中の獣全員を掻き集めたに等しい総力戦だった」
「だからあんた等も居たのか」
「そう言うことになる」

 即答。相変わらずベルダンの会話には味も素っ気もない。
 何を思っていても、彼は全て心の奥底に押し込んでしまう。本当はよく笑いよく怒る奴なのだとロレンゾは言っているが、少なくとも俺に対して感情的になったことは一度もない。多分、そうするに値しないのだろう。
 俺に出来るのは、呟くような彼の語りを受け止めることだけだ。

「俺達トカゲも、無論戦場に出ずっぱりだ。そして、猛禽以外で制空権を持っていたのは今も昔も俺達だけ。結果、碌な整備も無しに連日飛空艇を飛ばす羽目になった。詳しいことは伏せるが……」
「聞いてるよ、魔法使いから」
「なら良い。——事故が起きたのは戦争が一番激しかった時だ。動力の炉が暴走し、舵も取れず塹壕に墜ちた」

 まるで本の中身を読むような、感情のないしゃがれ声。自分の身に起きたことだろうに、ベルダンは落ち着き払っている。
 俺がロレンゾへそうして話したように、彼もまた、本当は心の中であれこれと思索しているのだろうか。何処か遠くを見つめる横顔からは、何も読み取れなかった。
 けれど、そんな落ち着きは、次の声で揺らいだ。

「命の恩人なんだ、彼は」
「ベルダン?」
「あの時あの瞬間、彼が其処に居なければ、俺もロレンゾも確実に死んでいた。偶然の一致と言われたなら俺には言い返せない。だが、俺にとっては、彼は間違いなく掛け替えのない友人であり、恩人だったんだ……」

 ——そんな彼と交わした約束を、この俺が破れるものか。
 ——約束を果たすのは、いつだって遺された者の役目だ。

 掠れた声で、言い聞かせるように。
 ともすれば溢れそうになる何かを堪えて呟いたベルダンに、恐る恐る問いかける。

「その約束、聞いても良いかい」

 ——西側の山麓駅で、私の古い友人が雑貨屋と鍛冶屋をしているのだがね。あいつらを、この戦場にもう一度連れ戻してくれ。
 ——約束したのだ。この戦を我等の代で終わらせよう、と。私で無理ならば彼等が、彼等で無理ならば私が。そして私では力不足だった。
 ——だが、彼等もこの約束を守れる状況にあるかは分からない。それでも私は、彼等以外の誰に頼めば良いのかも分からんのだ。
 ——荷の重い話を押し付けてしまってすまない。だが、此処にはもう、知己のお前以外に頼める者が居ない。皆死んでしまった。
 ——きっとだ。きっと果たしてくれ。約束だぞ。

 今際の魔導師が掛けた言葉が脳裏を掠める。
 彼の心配は、清々しいほどに杞憂だった。

「互いの危機は、互いに助け合う。……それで十分だ」

 かつての約束を果たすのは、老境の英雄を置いて他にない。
 バシッ、とまた板の間に尻尾を振り下ろし、何かを振り切るように一度強く拳を握って、解くと同時に立ち上がる。

「ロレンゾに伝えろ。確かに果たすと」

 何時ものしゃがれ声でそう言い切り、ベルダンは背を向けた。
 戸の向こうへ消えていくその背を追うことは、出来なかった。