複雑・ファジー小説

Re: タビドリ ( No.63 )
日時: 2017/02/23 10:13
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs (ID: 0L8qbQbH)

 『終わりなく旅する者(ユグドラシル)』。
 あらゆる生命の物理的な進化を司り、同時に人間——知能の面で言えば、恐らくは進化の極限を見た種族——の庇護者でもある、生命(いのち)の守神。何を隠そう、俺がそれとの邂逅を目標にしている最高神の一柱だ。
 その名の通り、それは星の彼方此方を当て所なく放浪し、行く先々で“調整”なるものを行っているのだとは聞いたことがある。それが正しいなら、ユグドラシルが人の多いプレシャ大陸を何度か訪れていたとしても、とりたてておかしな話じゃないだろう。
 それに、ペトロが嘘を吐くとも思いがたい。理由もなければ、メリットは尚更にない。最高神に出会ったことを見栄の材料にするほど幼稚でもなさそうだ。
 ——なんて、あれこれ考えて黙り込む俺を前に、ペトロはぱたりと耳を横に倒した。

「ユグドラシルに会うこと自体はそんなに難しくないよ。どんなに遅くても、二十年に一度は同じ大陸に降りるように旅をするそうだから」
「二十年に一度か。それだったら、今年は当たり年じゃねぇの? 丁度四十年目だ」
「いやぁ、そりゃ厳しかろ。おいさん戦時中に少なくとも五回は見てるし、十五年前にも一度見てるからねぇ。戦争が止まってひと死にが少なくなったなら、もうしばらくは来るまいて」

 それでもユグドラシルがすぐに死ぬわけでもなし、急ぐ必要は何処にもないだろうと、羊はからから笑い。彼の答えを聞き、俺は頭の中で崩そうとしていた旅程を、今一度元の通りに組み直した。
 一方のペトロはと言えば、自分の言葉を自分で受けて何か思い出したらしい。そうだ思い出した、と手を打ち、トコトコ蹄の音を響かせて自分の部屋まで引っ込んでいったかと思うと、白いストールを抱えて戻ってきた。見覚えのある橙色の格子柄。ラミーのものだ。
 ロレンゾの寝相でぼろ切れ同然になっていたと言っていたが、もう修理が終わったのだろうか。布の修理なんて見たことがないから良く分からないが、いくらなんでも早すぎる気がする。
 しかし、当のペトロは涼しい顔だ。

「杖の修理がちょいと長引きそうでね、先に修理終わらせといたよ」
「あぁ、ありがとさん。杖の方は何かあったのかい」
「うん。技術的なことは特にないんだけど、膠(にかわ)の良いのが中々見つからなくってね。商人に聞いたら、次に膠が来るのに後三日掛かるって話ときた。——待てるかい?」

 飴色の眼がこちらに向けられて、俺は思わず目を明後日の方に向けた。
 その体勢のまま少し考えて、選んだ言葉を投げ返す。

「丁度いいや。修理してる間に『隠れ園』まで行って戻ってくるよ」
「隠れ園?」
「三年前に龍の峠で偶然見つけた。昔ちょっとした縁があったトコなんだけど、何だかんだ言って見つけたっきりになっててさ」

 実際のところ、隠れ園の主はもう居ないわけだが……それは伏せておいた。彼に言ったところで、消えた守神が戻ってくるわけじゃない。
 一方のペトロは、俺の抱えた事情は勿論知らない。いつもと同じように、人懐っこく笑うだけだ。

「ん、そうかい。それならストールの修理を急ぐ必要はなかったかもしれないね」
「ラミーも連れてくから丁度良いよ。ありがとな」
「嗚呼、お待ち。おいさんだって技工士だ、ちょっとだけ布の使い方について説明してあげるよ」

 これから役に立つかもしれないから。そうにんまり目を細めて笑いながら、ちょいちょいと手招きするペトロ。一体どんだけ長い説明を聞かせるつもりなのだろうか。内心覚悟しながら、俺は呼び寄せられるまま彼の傍に近寄る。
 そうして、少し後ろくらいまで俺が近寄ったのを横目で確認したかと思うと、彼は勢いよくストールをはためかせた。ばさっ、と羊毛のくせに歯切れのいい音を一つ立てた布を両手に広げて、彼はやおら話し出す。

「貰った時はあんまり気付かなかったと思うけど、この布は元々悪夢除けの魔法が籠った布でね。悪夢を見そうな時に掛けて寝ると、嫌な夢を見ないほど深く眠れる代物なのさ」
「昨日俺が掛けてた布団みたいなものか?」
「似たようなものかな。でも、今は違う魔法を籠めてる」

 再び、ばさりと音。
 よくよく目を凝らせば、確かに以前と布の雰囲気が違う。しかしながら、何処がどう違うのかは説明できない。
 思わず目を細めて糸目を追っていた俺に、ペトロはお構いなしに続けた。

「もし見つけられないほどお嬢とはぐれた時、お嬢の名前をお呼び。兄サンの傍までこいつが連れ戻してくれるから」
「……はぇ?」

 何かとんでもないことを聞いた気がして、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。そして、どうやら珍妙さが変なツボに入ったらしい、技工士はぐつぐつと喉の奥で笑いを噛み殺している。恥ずかしいからあんまり笑わないで欲しいんだが、言えば言うほどドツボにはまりそうな感じだ。
 軽くかぶりを振り、真面目に聞き返せば、彼はちょちょ切れた涙を指で拭いながら首を縦に振った。

「兄サン、移氈(いせん)ってのを聞いたことはあるかい」
「移氈? 名前だけはちょっと前に聞いたな」

 バジャンダンが何やらそんなことを言っていたが、結局のところ移氈とやらの詳細が何かは良く分かっちゃいない。そんな旨のことを適当に告げると、ペトロはストールを畳みながら、視線だけをこちらに向けてくる。
 キミはもう移氈を使われたことがある、と。続く羊の声はにんまりとして低い。

「カズが持ってたろう、紅葉柄の布」
「……あの布が、ここまで俺を?」
「そう言うこと。尤も、お嬢のに籠めてるのはもう少し複雑な魔法だけどね」

 やけにさらっと言ってくれたものだが、彷徨いの森からここまですっ飛んでくるだけでも十分得体の知れない事態なのだ。それが、名前を呼ぶ声に反応して、しかもその傍にわざわざ戻ってくるなんて。理解の範疇を超えている。魔法使いでも気が遠くなるんじゃなかろうか、これ。
 全く、何と答えたらいいやら。頭を抱える俺に、ペトロはけらけらと高らかに笑ってみせた。

「兄サンの払いたがってた修繕代、払ってもらおうかな」
「いくらだ?」
「金貨十枚。結構良い糸を沢山使ったからね」

 ペトロ自身は大分吹っ掛けたつもりなのだろう。
 だが、安いものだ。


 To be continued...