複雑・ファジー小説
- Re: タビドリ ( No.8 )
- 日時: 2016/10/30 02:40
- 名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: HccOitOw)
「……ごめん、すごくゴメン」
「……手前が悪いんじゃねぇ。気にするな」
俺の体高の半分くらいしかない身長、ごく淡い水色のウェーブがかった長い髪、魚のヒレのような形の耳。上半身を覆うのは黒い布と金銀の胸当て、下半身は精緻な刺繍の施された腰巻二枚のみ。しゃらしゃらと音涼やかなのは、珊瑚と真珠を繋いだ銀鎖。
上半身は大昔地上に栄えたヒトそのもので、下半身は今も尚海に栄える魚の姿をした、雰囲気だけは儚げなじゃじゃ馬人魚。
ラミー。三年前から付き従う旅の従者。
「はい、どうぞ」
「わぁ、綺麗! ありがとーっ」
ロレンゾと俺の呆れた視線も何処吹く風、彼女はローザ夫人にマロウティーなど作ってもらいながら、ほくほく顔だった。
けれど、横っ面を引っ叩かれた俺はすごく微妙な気分だし、ロレンゾに至ってはさっきから苦虫を口一杯放り込んで噛み潰したみたいな顔になっている。チリチリと殺気めいた気配を出しているせいで、空気が軋んで重たい。
「あー、ラミー。とりあえず、此処に来た理由を言おうか」
「そんな顔しないでよエディ。ごたごたしてたの全部片付いたから早めに来ようって。お父様もお母様も良いって言ったもん」
「まァ、手前が居らんより居た方が何かと融通利くわな。……んで、だ。さっき見たら風呂場がメチャメチャになってて水が塩辛いんだが、どーゆー訳か説明してくれねぇか」
「あ、あれ? あそこ玄関口にしてきたの!——ひゃぁっ!?」
元気よく右手まで上げて返答したラミーに、ロレンゾは予備動作も前触れもなく右ストレートを放った。本当に当てる気はなかったか、あるいは激情に任せて適当に放ったからか、はたまたラミーの反射神経が神業だったのか、拳は鋭い音を立てて空を切る。
だが、脅威なことには違いない。慌てたように俺の後ろに隠れながら、危ないよ何するの、と怯えながらも大声を上げたラミーに、ロレンゾの声は低く返された。
「無断侵入に飽き足らず器物損壊とか手前何考えてんだコラ。洗濯物と風呂釜どうしてくれんだ? ぁあ?」
どこのヤクザだこれ。
そしてラミーは不思議そうだ。気付けよ。
「だーってぇ、あそこが一番此処に近い水場だし——」
「黙らんかい! 人のプライベートな空間メタクソにしといてスカしてんじゃねぇやっ!」
そんなこと言ったら海も湖もプライベートな空間なんだけど、と、物凄い剣幕を呆れるほど華麗に受け流しながら口を尖らせるラミーだが、論点と違えるなと叫んでロレンゾは古いチーク材の机をぶっ叩く。
どどどっ、と不安定に積み上げられた本が雪崩れてしまっても、部屋の主はお構いなしだ。金色の眼を更に鋭く光らせて、まだ首を傾げるラミーを睨んだ。
「手前等人魚の常識なんぞは知らんが、少なくともこの地この街の家ってのは縁故の聖域だ。風呂場だろうが井戸だろうが、タライ一杯の水だろうが、家に有る以上は縁故のない奴が好き勝手に使っていいもんじゃねぇんだぞ。分かってんのか!」
「ぅうー……」
「——なぁ、ラミー」
まだ納得いかないらしい。頬を膨らませ、魚の尻尾ではたはたと空を掻くラミーに、ほんの少しだけロレンゾは声の厳しさを緩める。
「手前だって寝る時は扉閉めて誰も入れねぇようにするだろ。同じこった、扉を閉めて外と隔てたってこたァ、勝手にズカズカ上がり込まれたら困る場所なんでぇ。それは俺ん家の風呂場だって一緒だ。自分が入られて困る場所には入るな。少なくとも、俺ん家の風呂場を玄関に使うな。いいな?」
「……はぁい」
「良しよし、分かりゃァ良い」
ラミーの方はまだまだ完全に納得しきったワケではなさそうだが、とりあえず肯定の返事を貰ってロレンゾは満足したようだ。先程天板を叩いたせいで崩れた本を面倒くさそうに拾い上げながら、話は本題へと入っていく。
即ち、戦争の終わらせ方について。
「俺ァ隣国へは海経由で行くが、エド。手前はどうする? 手前も人魚ッコも翠龍線を超えるような口ぶりだったが」
「嗚呼……あ? 海? 翠龍線を越えた方が早いだろ、あんた」
「最速だが、最善じゃねぇな。此処から直近の空路つったら『鳥落としの渓』を通るが、ありゃダメだ。四十年前なら余裕だろうし俺一人だったならそれでも何とかしたろうが、七十五歳のジジイ乗っけてあんな魔所飛ぶ訳にゃいかん。俺も奴も死んじまわァな」
ばさばさと本を適当に積み上げ、天板の空いた所に腰掛けて、行き場のない手は顎に蓄えた白髯を弄り。往時の英雄はまたしても思案を巡らせる。爛々と子供のように光り輝く目は、まるで戦場に向かうのが楽しくて仕方ないとでも言いたげだ。
奥方としてはどんな心境なのだろうか。ちら、とローザ夫人の方を見てみると、彼女はそこに居なかった。暖簾の向こう、何時もは主人が座ってそろばんを弾いている所で、ただ黙々とその仕事を代行している。
思索は汲み取れなかった。
「んー……この時期は東廻りの高速船が出るし、それに乗ってもいいけどな。翠龍線を超えるより早いんじゃないか?」
「生憎だが、ダイヤが変わった。今この辺りから船出すのはエシラの『天秤座商船(リブラベッサー)』くらいだ」
そう告げられて、思わず顔が引きつった。
リブラベッサーは、デカい商人集団を率いている老商——その名もエシラが持っている蒸気船だ。その詳細はともかくとして、名前だけなら、海の近いこの辺りで知らない奴は居ないと言って過言ではない。
何が有名と言えば、多分その異常な航行速度だろう。一体何を使ってどう動かしているのかはさっぱり分からないが、とにかく物凄い速さで海を突っ切っていくのだ。その上大時化だろうが津波だろうが関係なく、いつでも同じ速さを保って進み、オマケに事故らしい事故は今までにゼロ。
その速さとただの一秒も予定を狂わせない確実性こそは、リブラベッサーの船長たるエシラと言う男のステータスであり、ある種の財産でもある。
確かにアレなら、外から見ているだけでもめちゃくちゃ早いのは明白だ。多分、ロレンゾより先に翠龍線を超えてしまうだろう。
……だが。
「ヤだよあんなの。話に聞いただけでも寒気がする。俺まだ死にたくないぞ」
「へっ! 戦場にまで足踏み入れた奴が何言ってやがる」
「精神的にだよ」
早いの度合いが、常軌を逸しているのだ。
俺自身がそれを体感したわけではないのだが、知り合いの話を聞く限り、大時化に巻き込まれた難破船以上に揺れて揉みくちゃにされるらしい。まさかそんな、とは俺も思うが、「頼むから自分と同じ轍を踏むな」と縋りつかれて懇願されたら、誰だってうそ寒いものくらいは覚えるだろう。
翠龍線を超える手段は他にいくらでもある。早さのためにわざわざ砲弾みたいな船に乗って、水恐怖症の腰砕けになるのは御免だ。
「ま、旧ネフラ隧道(ずいどう)経由の『龍の頸』越え、かなぁ……最初に予定してたルートだし」
「ほー、禿泣きの隧道か。ま、良いと思うぞ!」
いやに呵々大笑するのは、乗ればよかったのに、とでも言うことなのだろうか。
……断じて御免だ。