複雑・ファジー小説
- Re: 茜の丘 ( No.3 )
- 日時: 2015/03/15 18:05
- 名前: 西太郎 (ID: 8topAA5d)
【第一話】
「あっ……」
気づいた時には既に遅かった。狼のような見た目のアヤカシ、その大群を目の前にして俺は一歩も動けなかった。アヤカシは飢えた目で俺をじっと見つめている。それはそうだ、村に結界が貼られてからこのアヤカシたちは口に出来たのは哀れな旅人のみ。しかもこの辺境の村に訪れるような旅人など、そうそういないのだった。激情に任せ、結界を飛び出してしまったのは完全に己の失態だと心の奥で気づいていながら、まだあの村人たちのせいのしようとしている自分がいる。
『妖力もねーのに、茜人なんて馬鹿げてる! お前は人間ですらないだろ、この根無し!』
根無し、幼い頃からそう呼ばれて育ってきた。俺には沈丁という名があるにも関わらず、皆が皆そう呼ぶのだから最早もう一つの名と言っても過言ではないなと聞き流していたが、先程それは明確に蔑称という意味を表して自分を示した。俺は人間だ、と一つ叫べば嘘つき、と十返ってくる。味方がいないとはなんと虚しいことだろう。
いや、そういえば昔一人だけいたのだ。アヤカシの瞳を見つめるうちに頭の中に走馬灯が蘇る。
あれは村人に見せしめとして結界の外に追い出されたときだ。
アヤカシが自分に明らかな敵意を持っていることに気づいて、俺は今と同じようにただただ怯えていた。
幼いながら死を覚悟したそのとき、目の前に白い閃光が走った。しばらく目の焦点が合わず何度も目を擦り、やっと眼前の光景を見ることができた。
先程までは狼の形を成していたアヤカシの全てが黒い霧となって霧散していく。その前に一振りの刀を携えて立っているのは、髪の長い、女とも男ともとれるような分厚い羽織を着た人間だった。
訳も分からずに呆然としているといつの間にか気を失っていたのか、気づけば自宅の貧相な納屋の干し草の上で横になっていた。後から村人がこそこそと話していたことを継ぎあわせると、俺を助けたのは茜人という、アヤカシ浄化を生業とする正義側の人間であることがわかった。
それからなのだ、俺が茜人に憧れはじめたのは。
それまで訳も分からず、意味もなく生きてきた俺に目標ができたのはなんと幸せなことであっただろうか。茜人の話を盗み聞きしてはその行いを真似た。人に優しく接し、悪者を退治する。結局悪者は自分に擦り付けられるのが関の山であったが、物心もついていない幼子が笑うのを見るとそれだけで自分の心は踊るようだった。
ささやかな俺の人生はここで幕を閉じる。未練はないようで、ある。最近言葉を覚え始めたあの幼子にさよならと言いたいし、根無しにご飯を作ってここまで育ててくれた親に、あのとき自分に目標をくれた茜人に、ありがとうと言いたい。
ぼうぼうに生えた雑草にアヤカシの涎が落ちてぺしゃりという音を立てたと同時に、彼らが襲いかかってきた。
そっと瞼を閉じて訪れるであろう肉を引き裂く痛みに耐えようとした。一匹がごり、と音を立ててその牙を肩に食い込ませる。あまりの痛みに体中に汗がどっと湧いて、声すら出なかった。思わず目を開いたとき、目の前に見えたのは二足の草鞋だった。
「……っえ」
その瞬間膝の上にアヤカシの首が落ちてきて、一瞬思考が暗くなる。溶けるようにして黒い霧となったそれを、草鞋の人がめいっぱいに吸い込んだ。
「うーん、凄く淀んでいるなあ……ねえ君、大丈夫? 肩すごいよ」
「え、あ、はい……」
ぱちぱちと目を瞬かせた。既視感のある光景に追いつけずにいると、眼前にそっと角ばった手が差し出される。
「私は槐。茜人を生業としている者だ。よかったらその傷、私が手当してあげよう」
恐る恐る顔を上げる。
茜色の髪を持つ美しい顔の人間が優しい笑みで俺を見ていた。