複雑・ファジー小説

Re: 茜の丘【第六話更新】 ( No.9 )
日時: 2015/03/31 01:30
名前: 西太郎 (ID: 8topAA5d)

【第七話】

「まず、沈丁君は多分気づいてると思うけど、あの火粉術は君が使ったんじゃない」
「だ、よな……」

もしかしたら本当に術を使えるようになったのではないか、と淡く期待していた沈丁は、当たり前だと分かっていながらも少しだけ肩を落とした。

「術には本当に色んなものがあるんだよ。あのとき火粉術を使ったのは私だけれど、実はもう一つ術を併用していたんだ」
「……もう一つ?」
不干渉術ふかんしょうじゅつだよ」

そういうと槐は右の袖から出した人差し指をくい、と吊り上げた。その瞬間、指の先にあった石畳の隙間の雑草がぶちりとそこから一本だけ切り離されて宙に浮いた。

「うっ、浮いてる!? 草が!」
「そう、自分の手を使わなくても物が勝手に浮いて、そこに留まってくれるんだ。術によっては勝手に浮いてくれるものもあるけど、火粉術は大抵何か対象がないと留まってくれなくて。だからこれで君の指の上で火粉を用意して、あとは君が見たように弾けたのさ。何か質問はあるかい?」
「いや……ない」
「ふふ、そっか。ほんとは私この術苦手で、小さなものしか浮かせられないんだ。あのお婆ちゃんが指定してくれたのが火粉でよかった」

先程まで不自然にふよふよと浮いていた一本の草が、急にその力をなくして石の上に落ちる。
それにしても、槐はちゃんとあの茶屋の老人を「お婆ちゃん」と呼んだ。老人の前では始終「お姉さん」と言っていたから、もしかしてこの男にはシワとシミだらけの肉を削ぎ落とされたようなガリガリの顔が、うら若き村娘に見えているのではないかと沈丁は勝手に心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。内面も良さげなこの男は外面も立派だった。

「そういえば包帯、返してもらってもいいかな?」
「え、ああ……」

先ほどの茶屋で、団子を食べたあと眉間の擦り傷はあの治癒術で完璧に治してもらっていたが、それは普段頻繁に動かさない場所だからいいもので、最初に治された肩には皮膚が引きつるような違和感があった。
今言われて気が付くと、感じていた違和感が綺麗さっぱりなくなっていた。丁寧に包帯を巻きとっていくが、元々あった小さな切り傷さえなくなって怪我をする前よりも綺麗になった肩が出てきた。
しかし一つ、一箇所土に汚れて破けた場所を見つけて沈丁は眉を下げた。ころんだときに同時に地面に擦り付けてしまったのだろう、そこまで派手ではないが一目見ただけで破れたとわかる程度には穴が空いていた。

「あの、これ破けちゃって」
「あー大丈夫だよ。ありがとう」

むしろありがとうと言うべきは沈丁の方なのだが、槐は律儀にお礼を言って受け取った包帯を袖の中にしまった。彼の着物の袖はゆったりしていた分厚そうなので、いくつか物を放り込んだところで破けたりはしないのだろうなと思った。
そこで、沈丁は「ありがとうと言うべきなのは沈丁の方なのだが」という部分に着目した。そういえば沈丁は、最初アヤカシに助けてもらったときも、肩を治して包帯を巻いてもらったときも、自分を馬鹿にした老人を見返してくれたことも、もう一度怪我を治してもらったことも、術のからくりを教えてくれたことも、何にもただ一度として「ありがとう」と口にしていなかった。短時間にどれだけの恩を受けたんだ、と自分で自分に呆れながら、その短時間でまるで何もしていない沈丁に何度も優しい言葉をかけてくれた槐を思い出す。
感謝の気持ちを伝えるのはとても大切なこと、とまだ優しかった頃の両親が言っていた。いつの間にか彼らの目は他の村人と同じような蔑む目に変わってしまったけれども、今日の日まで「感謝の気持ち」を忘れていたけれども、沈丁は久しぶりに優しく自分に接してくれた槐にそれを伝えたかった。
そう思うといてもたってもいられず、沈丁は勢いよく立ち上がった。勢いがよすぎて、不安定な木造の階段はギッ!と危なげな音を立てたが。

「あの、槐さん!」
「ん? 何かな」
「えっと……アヤカシから助けてくれたり、怪我を治してくれたり、婆さんを見返してくれたり、団子と茶奢ってくれたり、怪我治してくれたり、術のこと教えてくれたり……その、」
「うん」
「あ、ありがとう、……ございましたっ!」

有り余った勢いを、頭を下げることに使った。足の隙間から向こうの林が見えるほど腰を折った、深い深い礼だった。
沈丁がおそるおそる顔をあげると、彼は一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、それからふわりと微笑んだ。

「お礼を言ってくれるなんて思わなかったなあ……ふふ、こちらこそありがとう、沈丁君。とっても良い子だ」

そう言って槐は沈丁の頭をそっと撫でた。こちらもまさか撫でられるとは思わず、不意を突かれて沈丁は固まってしまった。
暫くしてやっと自分が優しい手つきで撫でられていることに気づき、目頭が熱くなる。こんなことをされたのはいつぶりだろう。そして、うえ、と嗚咽が零れた。

「うっ……ふ、うえ……っひ、ぐ」
「え、え、沈丁君……!? な、泣かないで……!」

槐が沈丁を宥めようと必死になって頭を撫で、背中をさするが全て逆効果でしかなかった。どうやっても優しい手つきに沈丁は更にその涙腺を決壊させてぼろぼろと涙を落とす。次第に槐も諦めたのか慌てる様子を見せなくなり、代わりに沈丁を胸元によせて抱きしめ、彼が泣き止むまで頭を撫で続けた。