複雑・ファジー小説

Re: Subterranean Logos【オリキャラ募集中】 ( No.11 )
日時: 2015/05/07 22:41
名前: のいじ (ID: 9igayva7)

 はと目が覚めた時、医務室には誰も居らず、点滴は腕から外されていた。Nファクターを投与し終えた時、特有の酩酊感を僅かに感じながら陸はベッドから身を下ろした。ベッドサイドの鏡の中の自分は、酷く呆けたような表情をしている。頭を左右に振るい、頬を軽く叩くと、いつもの自分が戻ってきた。ホテルカリフォルニアから、ようやくチェックアウト出来たようだ。とてもではないが、こんな顔で表を歩くような事は出来ない。


 自分の部屋に戻り、寝直そうと思い、歩みを進めたと同時に、ふと脳裏に浮かぶネーベルの言葉。Nファクター副作用について、そしてクレメンタインが詳しいという言葉についてだ。時計を見遣れば時間は既に2時を回ってしまっている。夜分遅く、非礼を承知で彼女に聞いてみようか、などと考えながらドアノブを捻る。
医務室から出ると食堂とラウンジを併設したスペースになっているが、時間が時間なのか人気はなく、明かりは最小限だけに抑えられ、やや薄暗い。そんな中で食堂から、微かに水の音が聞こえる。五科のコック達が蛇口を締め損ねたのだろうか。特に身構える事もなく、首を傾げながらゆっくりとした足取りで厨房へと向かう。一歩ずつ進むごとに水の流れる音は強くなり、同時に人の気配らしき物もしてくる。

「気配も、足音も消して私に何の用だね」
 不意に背後からする聞き覚えのある声。明らかに気配があった場所とは異なる場所から声を掛けられたため、陸は驚いた様子で一瞬だけ硬直し、振り向いて、胸を撫で下ろす。陸の視線の先には、ジョッキとショットグラスを持ったクレメンタイン。彼女は相変わらずの仏頂面で陸を見据えていた。心しなしか、やや顔が紅潮している。酒でも呷ったのだろうと容易に憶測がついた。

「いえ、蛇口開けっ放しなのかなと」
「洗い物の最中に、何かが近寄ってくるのでな。思わず後ろに回った次第だよ。——持ちたまえ」
 半ば押し付けられるような形でジョッキとショットグラスを持たされた陸だったが、特に不快に思う事はなかった。聞きたいことがある人物が、酒に酔い、自分に物持ちを命じたのだ。話す機会を得たと考えても、良いだろう。

「だいぶ飲んだみたいですね」
「あぁ、スタウトを沢山、テキーラを少々。ボイラー・メーカーを沢山だ」
 口調はしっかりとしているが、何杯と言わない辺り、かなり酔っているのだろう。クレメンタインを現場主義の昼行燈と揶揄するお偉方も多いが、決してそういう訳ではない。仕事は完璧にな、現場の神様だ。記憶力とて、普通の人間よりは優れている。

「アルコール、残りますよ? 」
「あぁ、かもな。——寄越せ」
「あ、はい。——あぁっ!! 」
 ジョッキを手渡したつもりなのだが、クレメンタインが取っ手を掴み損ね、シンクに叩き付けられるように落ち、ジョッキが割れてしまった。ショットグラスは無事なようだが、クレメンタインは自分の手を見据えたまま、固まってしまい、何の反応も取らない。
「五科長…? 」
「切れた」
 陸の眼前に押し付けるようにして、手を広げると確かに掌にガラスの破片が刺さっており、血が滲んでいた。
「今救急箱持ってきます! 」
「——問題ない」
 右掌の傷に舌を這わせ、血を舐め取りながらクレメンタインは言う。何処か背徳的に見えるその光景に、目を奪われていた陸だったが、クレメンタインは横目で陸を見遣るなり、小さく鼻で笑った。

「この程度で貴重な医療品を使えるか、馬鹿者。唾でも付けておけば治るってものさ」
「元三科らしからぬ台詞ですよね」
「三科は自分の怪我は後回し、他の負傷者を救護しろって叩き込まれてきた物でな。中々抜けきらんよ」
 やや上機嫌に見えるのは気のせいなのだろうか。クレメンタインの言葉のノリが妙に軽い。少しばかりの違和感を感じながらも、陸は言葉を紡ぐ。

「そういえばネーベルから、五科長がNファクターの副作用に詳しいって聞いたんですが、本当ですか? 」
「詳しいというより、覚えざるを得なかった。……実例も見たしな」
「実例、ですか」
「あぁ、実例だ」
 それ以上はクレメンタインも語ろうとせず、どうにも陸の性格上聞き入ってはならない領分の様に感じてしまい、適当な相槌を打つ事しか出来なかった。というよりもクレメンタインはNファクターの副作用について、教えてくれないだろう。
「実例」という言葉を吐いた時の彼女の表情は、まるで苦虫を噛み潰したかのような表情で、思い出したくない物を思い出したかのようだったのだ。

「そうですか…」
「あぁ、そうだ。陸も此処で働いているうちに、何れその実例を見る事になるだろうさ。辛いが、仕方ない事なんだ」
 それだけ呟くように言ったクレメンタインの眼差しは、憂いを帯びていた。ふと伸ばされた右手は陸の頭を撫でつけるように、動いていた。
まるで案ずるなとでも言わんばかりに、宥めるように優しげに。しかし、それは陸に向けられた物ではなく、まるでクレメンタイン自身が、自分を落ち着かせるためにやったかのように、陸には思えて仕方がなかった。その理由は何故かは分らない。そこには口に出せない何かが、確かに存在しているような気がしていた。