複雑・ファジー小説

Re: 小さな本棚 ( No.6 )
日時: 2016/08/24 13:41
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: 6mW1p4Tl)


 title:紅い頭巾


 ノックの音が小屋の中にこだました。どうぞ、お入りなさい。精一杯作った声で、扉の向こうの少女に俺は告げた。古びた、かび臭い木の都が耳障りな声で呻きながら開いた。その隙間から顔を出したのは、深紅の頭巾をかぶった、あか抜けない少女だ。
 彼女に名前はあったのだろうか、今はもう分からない。特徴的なその、真っ赤な頭巾こそが彼女の名前のようになっている。村の人々も、彼女の家族も、みんな彼女を赤ずきんと読んでいた。
 恐ろしい体験をしたのだろう、その眼光は少し濁っている。無理もない、森の中でこの俺の姿を見てしまったのだから。

「こんにちは。大丈夫? 今日は声が変みたいだけれど。風邪?」
「そうなんだよ、この前の雨に濡れてひどい風邪になってしまってねぇ」

 あの婆さんの特徴的な話し方を思いだし、真似をする。大袈裟に二回の咳をしてみせて、布団で完全に顔を隠した。赤ずきんも、無理をさせる訳にはいかないとばかりに無理にこちらに近寄ってこようとはせず、バスケットを傍にある机の上に置いた。

「何かあったのかい? 少し元気が無いみたいだけれど」

 白々しい話だが、俺は赤ずきんに尋ねてみた。その質問に幾ばくかの時間少女は押し黙ってしまった。疑われてしまったかと、少し俺自身も警戒する。流石に、声だけで分かったというのも疑わしいような気がしないでもない。
 俺の腹の中で、婆さんが暴れたような気がした。孫には手を出すなと言いたげである。しかし赤ずきんは、別段怪訝そうな様子も見せず、何でもないと言わんばかりにとうとうと語り出した。

「お婆さんやお母さんを心配させたくないから黙ってようと思ったんだけど……。今日ね、森で狼を見たんだ」
「おお、怖い怖い。今度猟師さんに教えないとねぇ」

 勿論、それは他の誰でもなく俺のことだ。森の中でこの娘を見つけた俺は、この娘を喰おうと決めたのだ。しかし、崖が俺たちを隔てていたためにそのときすぐに遅いかかることはできなかった。しかし俺は知っていた、森の奥の小屋に住む婆さんに、時おり孫が訪れてくることを。この少女のことに違いないと見きりをつけた俺は風よりも速くこの小屋へと駆けたのだ。中にいた婆さんなんぞ一息でぺろり、それで終わりだ。
 そして婆さんの小屋で、婆さんのベッドで、俺は赤ずきんの訪問を今か今かと待ち構えた。そして風が木を三度ほど揺らしたその時である、ノックの音が響いたのは。案の定、無垢な少女に狼の姿は刺激が強かったらしい。
 赤ずきんはバスケットからワインの瓶を取り出した。血のように赤いお酒が瓶の中に満たされている。戸棚からグラスを取り出して、ワインをなみなみとついだ。

「おばあさん、『酒は百薬の長』っていうんだって。隣のおじさんがそう言ってた」

 快復のために飲めばいい、そういうことなのだろう。しかし、まだ顔を出す訳にはいかない。赤ずきんが向こうを向いたら飲み干してやろうと、気を伺う。俺も酒は大好物だからだ。
 赤ずきんが台所にナイフを取りに行った。その隙に俺はベッドから飛び起き、ワインを一口で飲み干した。そしてまたグラスを机に置くと、風のようにベッドに戻る。

「こらこら、ナイフなんて持って。危ないよ」
「平気よ。皮を向いて切り分けるのに必要なのよ」

 バスケットから取り出したりんごを掲げて、赤ずきんは俺の注意に明るく応えた。家でよく手伝いをしているから平気だと、笑っている。
 かけ布団の隙間から見ると、彼女はナイフだけでなく鉈まで持ってきていた。これには少し俺もぞっとしてしまった。

「鉈なんて何に使うんだい」
「そりゃあ、割るのに使うに決まってるじゃない」

 少女は窓の外に目をやった。目を逸らしたのではなく、おそらくその視線は窓の外の薪に向いていた。

「それにしてもおばあさん、今日のおばあさん、手が大きくないかしら」
「それはね、お前を抱き締めて話さないためだよ」
「それに、ちらりと見えたけど爪も何だかいつもよりずっと固くて、鋭いみたい」
「最近爪を切れなくてねぇ、伸びちまったのさ」
「あと、ずっと布団を被ってるのも変よね。いつもなら、どんな時でも私の顔を見ようと飛び起きるのに」
「それは……」

 正体を隠すために、こもってしまったことが仇になったようだ。動揺し、口をつぐんでしまう。

「あなたって……」

 赤ずきんの手が布団にかかる。めくられないようにと布団を中から掴んだが、無駄だった。俺の鋭い爪だと、かけ布団を引き裂いてしまうからだ。びりびりと布が破れ、俺の体はとうとう晒されてしまった。

「おばあさんじゃないよね」

 俺を見るその目は、冷たく濁っていた。
 もう、力ずくで構わない。所詮は非力な少女だ。俺は飛び上がり、その爪と牙が赤ずきんを引き裂く。その、はずだった。
 体が動かない。どうしてだ。ふと、頭がぐるぐるし始めた。途端に気付く、これはワインが原因なのだと。きっと、何か薬が入っていたに違いない。

「森で見てから、準備してたんだ」

 赤ずきんはりんごとナイフを置き、代わりに鉈を手に取った。
 その時、俺の脳裏にはもう少女を襲うような考えなどなく、いつしか逃げることを考えていた。この爪を、牙を、赤ずきんに突き立てて引き裂くことなどすっかり忘れ、ただ四肢を動かして走り去りたいと、心から感じた。
 あの濁った瞳に見つめられ、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。幼い女児に恐怖を覚えることを、恥とも思わなかった。
 赤ずきんの濁った瞳は、恐怖から来たものではなかった。この瞳は、何度も見慣れているものだ。
 獲物を見据えた猟師の、水面に映るこの俺の、狩る者の目だ。殺しを罪とも思わず血を水のように感じる、道を踏み外した目だ。

「このナイフ、ほんとは狼さんの皮を剥ぐためのものなんだ」

 赤ずきんが鉈を振り上げる。ベッドの上に縫い付けられてしまった俺の姿はさながら蜘蛛の巣に捕らえられた憐れな虫けらのようだった。
 いい気になって、策士気取りになった俺は、無力な女児を捕らえたような気になっていた。けれど違ったんだ、その眼光に捉えられていたのは俺の方だった。

「この鉈もね、あなたの頭蓋を割るものなんだよ」

 俺の意識が無くなる直前のことだった。初めて、赤ずきんの透き通った瞳を見たのは。


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