複雑・ファジー小説
- Re: Bloom Of Youth's Season ( No.11 )
- 日時: 2015/11/16 00:43
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: e2lJewtm)
「ずっと、泳いでたんだ。溺れないように、追い越さないように」
弐◆
「優先輩、調子悪いですか?」
プールから上がると、ストップウォッチを片手にしたマネージャーが、心配そうに眉をひそめて俺を見つめていた。今年から水泳部のマネージャーになった、一年の木村華子。肩より少し長いロングの髪の毛が、俺の返事を待つように小さく揺れる。
後頭部に爪を立てて言い訳をしようとするも、それも面倒くさくて首を振った。そのせいで肩に冷たい水滴が飛び散ってきた。
「いや、大丈夫。結構平気」
笑ったつもりが、彼女にはそれが余計に心配を駆り立てたみたいで、背を向ける俺に「本当ですか?」と問いかけた。口調が、俺のことを本当に心配してくれているのだと分かる。
「大丈夫だよ、華子ちゃん。サンキューね」
——嫌な夢を見た日は、一日中気分がブルーだ。その夢が、重くて苦しい過去の話だったなら、尚更。
俺、立花優が所属している空宮高校水泳部は、市民プールでの練習だが、部員のほとんどが練習のある日は参加している。もちろん、俺も。何より、七月の大会は三年生最後の大会であり、俺も他の部員も気合の入り方が違う。——先輩の、小さくなった背中は見たくない。
更衣室で着替えて、市民プールを出る。外はもう暗くなっていて、腕時計を見ると、針はもう七時半を回っていた。
——まあ、いいか。こんな日くらい。
アー、と低く小さく呻くと、ゆっくり一歩、踏み出す。ゆっくり歩いて帰ろう。
立花優の“優”は、“優しい”の“優”、だもんな。
昔、両親に言われた言葉を思い出して、フ、と小さく笑う。その言葉が、何回も俺を苦しめた——今だって。その言葉が足元に絡み付いて、大切なことに臆病でいる。
中学二年の頃、俺はクラスの男子からちょっとした嫌がらせを受けていた。全員にシカトされるとかそんなんじゃなくて、ふとしたときに物がなくなってたり、隠されてたり、そういう小さなことだ。犯人は未だによく分からない。一人かもしれないし、複数かもしれない。言ってしまえば、あのときのクラスの男子全員だったかもしれないけど……。その俺の表情に気づいたのは、美音だった。一年間で、俺の嫌がらせに気づいたのは美音しかいなかった。それに気づいた美音は、知らぬところで犯人を一喝し、止めてくれたらしい。二年の終わりごろには、ほとんど嫌がらせはなくなっていた。俺はそれを、三年になってから知った。
——十何年の付き合いなんだから、気付くの当たり前じゃん。
らしくないため息を吐きながら、俺の顔を見つめる美音。……馬鹿かよ、それが嬉しいんだっつーの。
いい加減、気付けよな。だから俺に馬鹿って言われるんだよ。
「そろそろ、やばいなー……」
ずっと一緒にいるのに俺、あの日から、お前に伝えたいこと一つも伝えてないんだ。
- Re: Bloom Of Youth's Season ( No.12 )
- 日時: 2024/12/03 15:50
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: 4.2P0hz.)
六時五十五分、電車を待つ。少し気になるのは、俺の隣で電車を待つ美音がいつもよりソワソワしている。五十八分、電車が到着したら、階段から一番遠い車両に乗る。ドアの一番近いイスに、二人、座る。
横目で美音を見ると、なんだか緊張した面持ちで細い息を吐く。こうなった場合は、俺が何か聞くまで口は開かないだろう。
「……美音、何かあったの?」
「えぇっ!?」
なんで分かるの? って、顔。
困ったように眉を下げる美音に、フ、と笑みを零す。——十年の付き合いなんだから、気付くの当然じゃん、って、言ったのお前じゃん。顔を赤くして、美音は俺の耳たぶを引っ張って自分の口元に寄せていく。
「いい? 今から言うこと、絶対誰にも言っちゃ駄目だからね」
「はいはい」
それより、耳たぶ痛いっつうの。
「あのさ……、私、高槻くんのこと、好きになっちゃったかも」
「……はぁ?」
何だそれ。
「……おはよう、高槻」
「……おはよう」
え?
結局その後、俺の反応を見た美音がその話をやめてしまい、深く聞くことができなかった。それが良かったのかどうかは、まだ良く分からない。気付いたら学校に着いて、教室に入っていた。俺の席の隣に既に着席していた高槻に挨拶する。ふと後ろの美音を見ると、小走りに自分の席に向かって行く。その横顔が、少しだけ赤く染まっていたように見えた。高槻の顔を見ると、なかなか席につかない俺を不思議に思ったのか、眉を寄せて俺を見ていた。急いでイスに座る。
……え? 何で? いつ? 男の気配一つなかった美音が急に……。こんな話、初めてだよな? 大体、美音と高槻が話す機会なんて……。
「あっ」
あのときか! 美音がジュースをリュックから落としたとき……。鮮明には覚えていないけれど、確かあのとき、高槻と美音は話をしていた。机に肘を置き、両手で頭を抱えるようにして後悔する。うわー、何で俺あのとき美音より早く行こうと思ったんだろう! 絶対俺の行動がきっかけじゃん……。
チラ、と横から高槻を見ると、ちょうど彼も俺の方を見ていて、目が合った。
「……や、なんか、立花、……さん、落ち込んでるみたいだったから……」
何も聞いてないのに、慌てて俺を見ていた理由を言葉にする高槻。それよりも、“立花さん”って……。
「高槻、俺のこと優でいいよ。立花さんって、めんどくない?」
「え、」
「じゃあ俺も高槻のこと奏って呼ぼうかな。それでいい?」
彼は急なことでびっくりしたのか黒目を泳がせながら頬を赤くした。反応が入学したての小学生みたいで、悪いと思いながらも笑ってしまう。
「お互い面倒くさくなくて良いじゃん! これから奏ね」
「う、うん……ありがとう」
……別に、お礼を言われるようなことは何もしてないんだけど。思わず苦笑する。と、同時に、気付くことがあった。
「奏、身長高くない? いくつ?」
座っていても同じ目線だし、この前立って話していたときも、さほど見下ろしていた感じはなかったような……。
「えっと……、百七十五かな」
「まじ? 俺あと三センチで越される!」
「いや、もう伸びないよ」
そう言いながら、奏は目を伏せて微笑んだ。
「何部?」
「……部活、入ってないんだ」
「うっそ? じゃ、水泳部とかどう? 俺がいる」
「はは、でも俺、あんま泳げないから」
えー、そうなの? なんて言いながら笑う。奏も小さく笑っていた。そうしながら、彼が案外普通なやつだと知る。
……って、そこじゃないんだよ問題!
斜め後ろの美音をチラと見ると、奏も不思議がってそこを見る。俺と奏の視線の先には、目を点にした美音の顔が。
「え……えっ? どうしたの二人とも?」
顔を赤くしながら、いつもより半音高い声で喋る彼女を見て、俺は激しく絶望した。
- Re: Bloom Of Youth's Season ( No.13 )
- 日時: 2015/12/29 02:20
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: e2lJewtm)
「ずっと前から、かっ、かっこいいなあって思ってて……それで……」
目の前で顔を赤らめる隣のクラスの女の子は徐々に言葉を失って、俺の顔を見れないでいる。俯いて、もじもじと両膝を寄せて、制服の裾をギュウと掴んだのが見えた。教室のカーテンの隙間から差し込んだ夕日が、彼女の伏せ目がちのまつげを照らして、キラキラ光ったように見える。それを見つめ続けて、次の言葉が彼女から出てくるのを待った。……こういうとき、どんな顔で、どんな言葉を言ったらいいか分からない。
俺の視界の中で少しずつ、彼女の顔が黒く滲んでいく。クレヨンの黒色で雑に塗りつぶしたみたいな、ムラのある汚い黒。冷え冷えとした感情が、沸騰したようにフツフツと沸いてきて気持ち悪い。ああ、これで何度目だろう。胸糞悪い。
「良かったら、付き合ってくださいっ」
「……ごめん、今、誰かと付き合うとか、考えられないんだ。……ごめんね」
ああ、もう何も見えない。
「そっ……そうだよね、ごめん! 何言ってるんだろ、あたし」
「……えっと、」
困ったように声を出せば、ごめんね、と繰り返して彼女は教室を早足で出て行く。廊下に響く足音がなくなったところで、ようやく俺も教室を出るために歩き出す。ブレザーのポケットに手を突っ込んで、重いため息をついた。
「ぎゃっ」
教室のドアをくぐった所で、小さな悲鳴が聞こえた。か細くて通った声。どこかで聞いたことがあるような気がした。右斜め下を見ると、ドアのところに隠れたようにして立っている。二つの三つ編みに眼鏡、ノートで顔を隠すようにして青い顔をしている——市原藍。美音の友達だ。
「市原、何やってんの?」
思わず笑いが混じった。悪意があってここにいるわけでもなさそうだし……。
「ごご、ごめんなさいっ! 部活で必要な道具を置いてきちゃって、それで……見るつもりは、全然」
「別にいいよ、そのくらい。ただし、広めるのはナシね」
市原は安堵したのか表情を緩ませて、うん、と小さく頷いた。
「……美音ちゃんも大変だね」
「え?」
「立花くん、すごく人気あるって聞いたから」
ん?
「え、待って? それと美音がどう関係してるの?」
「え? だって、立花くんと美音ちゃんって付き合ってるんじゃ……」
市原の不思議そうな顔を見て、思わず噴き出す。
「えぇ? 俺と美音は付き合ってないよ?」
第一、生まれて約十七年間温めておいた気持ち、今日切り裂かれましたよ、俺。
市原は目を見開いて少しの間口を噤み、それから慌てたように俺に謝る。
「勘違いしてごめんっ、失礼なこと言っちゃった……!」
「あはは、いいよいいよ。気にしないで」
美音、“奏のことが好き”ってことは市原にまだ言ってないのかな?
笑いながら、ぼーっとそんなことを思う。チクン、と心臓を小さな針で刺されたような小さな痛みを感じて、自分の言葉に自分で傷ついてしまったと気付く。
——我に返ると、市原がじいっと俺の顔を見つめていた。まるで、俺の心の中を読み取ったかのように大きな瞳で俺のことを見つめるので、言葉を吐き出すのをためらってしまう。
「……何? どうかした?」
俺が声をかけると、市原は我に返って、また慌てていた。
「ごめん、考え事っ。じゃあまたね、立花くん」
「おう」
俺の返事を聞くと、そそくさと教室に入る市原。その背中を見送って、俺も歩き出す。再び無意識にブレザーのポケットに手を突っ込んで、重いため息を吐いた。
「あれ、優。まだ帰ってなかったの?」
下駄箱には、靴を履きかえようとする美音がいた。何で、このタイミング……。
「お前こそ、帰ってなかったの?」
「今日日直だから」
ああそう……、と、分かっているような分かっていないような生返事をして、俺も下駄箱から靴を取り出す。今は元気よく喋るような気分ではなく、美音の前でため息を吐く。
「優、どうした?」
靴に履き替えて歩き出すと同時に、美音は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。何となく言い訳する気にもなれず、らしくなく彼女から顔を背ける。「元気ないぞぉ!」と元気な声と共に、バンと強く背中を叩かれてヒリヒリする。
「……いや別に、何もないよ」
「そう? ……あ、優、朝のことなんだけどさ、」
ドクン、と心臓が高鳴る。朝のことって——奏のこと。何だろう、聞きたくないな。
「あれ、まだ藍ちゃんにも言ってないんだからね。優だけだから。なんだかんだ言って一番信頼してるよ、君のことッ」
ありがとね、と冗談っぽく美音はまた俺の背中を叩いた。——やめてほしい。そんなに俺のこと、信頼しないでほしい。幼馴染、なんて肩書き、俺にはもういらない。
「ま、そういうわけだし、何かあったら相談しなよ、いつでもさ」
美音の言葉は、俺の心にナイフみたいに刺さった。
- Re: Bloom Of Youth's Season ( No.14 )
- 日時: 2015/12/27 22:36
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: e2lJewtm)
自分の感情を隠すのは得意だった。人と自分との間に壁を作り出すのはいつも俺の方で、自分の名前の呪縛が解けないまま、笑って自分の本当の言葉を誤魔化していた。……俺が、本当は優しくなんかない人間だって知ったら、みんなはどんな顔をするだろう。人が怖くて、そんな群れの中で生きている自分も怖くて、いつの間にか本当の自分に鍵をかけた。優しくないと、笑っていないと、もう俺じゃないんだ。だから、ずっと泳いでたんだ。溺れないように、誰か追い越さないように。きっと俺は、傍観者なんだ。
「——う、優!」
美音の声で目が覚めて、それから少しするとうちのクラスのざわめきが耳に残った。ゆっくりと目を開けると、目の前には眉を寄せて心配そうにした美音がいた。フ、と弁当の匂いが鼻を掠めて、今が昼休みだということを実感させる。
「もう昼休みだよ。あんたずっと寝てたよ」
「あー……」
そういえば昨日はあんまり寝てなかったな、と思い返す。美音になんて言葉を返そうか考えていると、美音は口をもごもごさせて、それから俺の隣の奏をチラと見てから顔を赤くして慌てて後ろの席に戻っていった。……何なんだよ、もう。
額に手を当てて眠気を覚まそうとしながら彼を見る。そういえば美音から、どんなところが好きとか、いつ好きになったとか、あの後あんまり聞いてない。あれ、夢だったりしないかなぁ。女々しい自分に重いため息をつく。
奏は購買の焼きそばパンを口に入れてもぐもぐさせながら俺の視線に気付く。俺と目が合うと、気まずそうに視線を泳がせる。
「……俺、朝から寝てたよね?」
彼は苦笑して頷く。「だよな」とこちらも苦笑を返す。
「……寝不足?」
焼きそばパンを飲み込んだ奏が俺に問いかける。
「ん? あー、まぁ、そんな感じかな」
弁当箱を開ける。ブロッコリーが入っていることに思わず顔をしかめた。入れるなって、母さんに毎日言ってるのに。
奏は、俺が顔をしかめて言葉を濁したことに何かを誤解したのか、焦ったように「朝、辛いよね」と俺に笑いかけた。彼の無垢な笑顔に困った笑顔を返しながら、彼に、今の俺の気持ちが伝わりませんように、と願った。
「ありゃ、雨だ」
授業が終わって帰ろうと窓の外を見ると、既に外にはサアサアと音を立てて雨が降っていた。今日の予報では一日中曇りだったのに。駅まで歩いて十五分、この雨に降られたら結構濡れるかも。
「美音、折りたたみ持ってきてない?」
「あるよ」
美音が自分のリュックから折りたたみ傘を取り出す。忘れたから一緒に使いたいという旨を伝えると、一回は面倒くさそうに顔をしかめるが、最後にはきちんと「仕方ないなー」と言ってくれた。
奏に挨拶しようと振り返ると、彼は忽然と姿を消していて、おそらくもう帰ったのだと思われる。ふと見ると、美音に言われて手を振る市原と目が合った。眼鏡の奥の瞳は、俺の心を読み取っているみたいで少し怖くて、俺の方から目をそらしてしまった。
「行くよ、美音」
「はいはい」
告白のときの市原の顔といい、さっきの感じといい、あのときから市原は変だ。俺、彼女に何かしただろうか。自覚ないけど……。
玄関には、傘を持っていない生徒たちが集まってきていて、ざわめきが耳に障る。
「あ、高槻くんっ」
美音の声で、伏せていた顔を上げる。やっぱり声、半音上がってる。
どうやら奏も傘を忘れた大群の一人みたいで、困ったように立ち尽くして雨空を仰いでいた。
「どうしたの? 傘、ないの?」
完全に上擦った声の美音。横顔、赤い。
「……うん。けど駅までだから、少し濡れるくらいで済むかも」
その言葉に、美音は目を輝かせた。
「駅までって、空西駅?」
「うん」
「私たちと一緒! 良かったら、一緒にそこまで行こうよ。私、折りたたみ持ってるしさ!」
奏は美音の言葉を聞くと、慌てたように俺を見て、「いや……」と言葉を濁し始める。
「何か用事があるの?」
「用事っていうか……その、」
パ、と奏は顔を俯かせてしまう。髪の隙間から見える耳は、赤く染まっていた。
「……あ、そだ、俺さ、職員室に用があるんだった。先に二人で駅まで行ってて。傘も、三人じゃどうせ入らないし」
無意識に口が動いていて、言った後に後悔した。俺今、どんな顔をしてるだろう。
奏は「え?」と困惑したように俺を見て、美音は俺の言葉に顔を赤くする。十六年間も一緒にいて、急に知らない顔するんだな。頑張れ、と顔で伝えてやると、美音は嬉しそうに俺に笑ってみせた。
一つの傘の中に入る二人の背中を見ながら、何やってんだ、と呟く。……自分に向けて。
「……何行かせてんだよ、馬鹿」
突然、左腕を掴まれる。驚いて振り返ると、心配そうに揺れたお下げの髪。
「市原……」
- Re: Bloom Of Youth's Season ( No.15 )
- 日時: 2015/12/31 12:58
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: e2lJewtm)
「市原、……どうしたの? 部活は?」
未だ俺の左腕を掴んで顔を俯かせる市原は肩で息をする。どうしてそんなに急いできたのだろう。
「し、心配……だったから、立花くん」
俺?
頭の中で状況の整理をしている間に、息切れを落ち着かせた市原は、最後に小さな吐息を落として俯いたまま黙り込んでしまった。彼女の頭上の横から見える耳は、赤くなっているように見えた。
「どういうこと?」
「……美音ちゃんが好きなの、ずっと我慢してるのかなって」
ドクン、と心臓が鳴った。それを彼女に悟られるのが嫌で、俺の腕を掴んでいる彼女の両手を勢いよく振り払ってしまった。ハ、と我に返ったときには市原は困ったように地面を睨み付けて、制服の裾を両方の手でギュウと強く握っていた。
「今日、美音ちゃんから、高槻くんのことが好きだって聞いて。立花くんきっとそれ知って、一人で悩んでるだろうなって……」
「……なんでそんなこと市原に分かんの?」
若干嘲笑が混じる。嘲るように笑ったのは、自分のこと。——図星を指された、自分のことだ。
それを聞くと市原は顔を上げて俺の顔を真っ直ぐ見た。顔を勢いよく上げた衝動で、お下げに結った髪の毛が綺麗に揺れる。
「わ、私はずっと気になってたよ。立花くんのこと……見てたよ」
え?
「ん? どういうこと?」
さっきから俺、疑問系でしか市原に話しかけてない。突然すぎて、状況の把握をするまでに頭が追いつかない。
「……立花くんは馬鹿だよ。頭が良すぎるから馬鹿なんだよ」
「市原、その前に俺の質問に……」
苦笑いする俺の胸元に、ピンク色の折り畳み傘が押し付けられる。それをした市原は「さよならっ」と、か細く高い声で叫ぶと、俺に背を向けて校舎の中へ走り出す。俺が声をかける暇もなく、曲がり角を曲がって奥へ消えて行く彼女。胸元の傘が落ちないように手を添えて、ぼうっと立ち尽くしながら俺は真っ白な頭の中で色々考える。あれ? 俺今……
——告白、された?
手の力が緩む。胸元に押し付けられた傘が、重力に倣って地面に落ちた。
いや、今のは違うだろう……。落としてしまった傘に慌てて手を伸ばしながら考える。こんなこと思ってるなんて俺、とんだ自意識過剰野郎だよ。ていうか市原、なんで俺が美音のこと好きって知ってんだよ!? これまで仲良い友達にもバレたことないのに……。
帰って考えようとしたところで気付く。このまま俺が市原の傘を使って帰れば、彼女はきっと困ってしまうだろう。傘を持っていたということはおそらく徒歩通学だろうし……。仕方なし、貸してくれようとした市原には悪いが、彼女の下駄箱に返しておくことにする。出席番号は二番のはず。上から二番目の下駄箱を開け、開いたスペースに傘を差し込む。
そうだ、早く駅に行かなくちゃ。早く帰って、練習しなきゃ。大会が近いのだ。早くこの場から、離れなきゃ。
“立花くんは、馬鹿だよ。頭が良すぎるから馬鹿なんだよ”
思い切り走ったら、この言葉も忘れられるかな。
- Re: Bloom Of Youth's Season ( No.16 )
- 日時: 2024/12/07 01:58
- 名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: 4.2P0hz.)
「いやだから、立花って最近調子乗ってね?」
——体が一瞬強張る。それでいて体の力が抜けて、ドアノブに伸ばしかけた手はだらんと腰の位置まで下がってしまった。髪の毛から冷たい水滴が肩に落ちて、俺の体をひんやりと冷やしていく。シンと静まり返ったシャワー室には、薄い壁一つで繋がっている更衣室の会話はいとも簡単に聞こえてしまう。聞いちゃいけないと思うのに、体が動かない。
「いいよな、ああいうやつは。元から性格があんなんだし、何してても誰かが近くにいて笑ってくれるし。水泳だって、才能あんだよ。俺なんかより」
体にへばりつく水滴が、俺の体温をどんどん奪っていく。俯くと、床は真っ黒に染まっていて、自分が本当に足をついて立っているのか分からなくなった。床がぐわんぐわん揺れて、思わず壁に手をついて体を支える。ああ俺、この感覚知ってる。
「あいつ、メドレーのバッタどっちが入るかで俺と勝負した日からなんかよそよそしいんだよな。俺が負けたの、馬鹿にしてんだよ」
「何だよお前、この前まで立花はいいやつって言ってたじゃねえか」
苦笑しながらやんわりと俺を庇うのは、部長の声。
「それとこれとは話が別っしょ。じゃ、お疲れ」
おう、と部長が少し低くなった声で返すと、すぐに扉の開閉音がした。きっと彼が出ていったのだと思う。やるせない思いが頭の中をグルグルする。
「……立花、そろそろ入ってくれば」
部長の低い声が耳に入った。確かに今彼は俺を呼んだ。……部長、俺がここにいるって知ってたのか……。
重いドアノブをひねって更衣室に入る。部長は既に水着から私服に着替え終わっていた。俺の顔をチラと見ると、すぐに視線を元に戻してしまう。俺も特に何も言わず、タオルを頭に被せた。
俺から何か喋らなくちゃいけないんだろうけど、うまく言葉が出てこない。どんな顔をしていいかすら分からないで、息苦しかった。
「あのさあ。あいつ、気分屋なんだよ。実力でお前に勝てなかったから悔しがってるだけなんだと思うんだ。だから、そんなに気にしないでいいよ。立花は自分の力でメドレー勝ち取ったって、少なくとも俺は思ってるから」
タオルの上から頭を強く撫でられて、鼻がツンとする。「ハイ」、そう言ったつもりの声はかすれて部長に伝わったかどうか分からなかった。
「一緒にメドレーできるの楽しみにしてるよ」
お疲れ、と言い残して、部長は更衣室を出て行く。溜まった涙が目から千切れないように、俺はタオルで目を強く擦った。
「お疲れ様です、優先輩」
着替えを終え市民プールを出ると、入り口にはホットココアを差し出す華子ちゃんがいた。彼女は俺にニッコリ笑って見せる。
「お疲れ。いいよ、華子ちゃんが飲みな」
「優先輩に買ったから、飲んでほしいです! それになんだか、今日も調子が悪かったみたいだし……」
渋々受け取りながら、「調子が悪かった」という彼女の言葉にため息を落とす。頭の中に、美音と奏の背中と、走って俺の元を去った市原の背中がぼんやりと思い浮かんだ。いい加減、水泳に私情を挟むのやめたいんだけどな……。
ココアの缶を開けて、半分ほど一気に飲み干す。——帰りに貸してもらった市原の傘は、彼女の下駄箱に返してしまったし。雨に濡れたから、早く帰りたいのだ。
「ごめん、最近調子悪いばっかで」
「いえ……。でもっ、そんな中頑張る優先輩、すごいです」
「あはは、ありがと」
そんなにベタ褒めされて返す言葉がなく、ココアと飲み干してゴミ箱に入れた。
「寒いし、もう帰ろっか。一人で大丈夫?」
「あ、あのおっ」
彼女に背中を向けた矢先、だった。華子ちゃんの方を振り返ると、彼女は困ったように眉を寄せて、斜め下を見つめる。あ、これなんか、駄目な雰囲気だ。
「優先輩って……彼女とか、いるんですか?」
「えー、いないよ」
軽く笑って彼女から視線をそらす。それから、足元の石ころを遠く蹴った。
「じゃあ、好きな人は?」
「んん、どうかな。秘密ー」
背中に小さな衝撃を感じる。前に回された腕を見て、それが華子ちゃんの頭だと分かった。辺りはしんとしていて、空気は春から夏に変わる匂いがしていた。へその下あたりで組まれた手、その指先は夜の寒さで赤くなっている。小刻みに震えているのは、何か、寒さだけじゃない別の感情があるのだろう。
「わ、私じゃ駄目ですか」
「……華子ちゃん」
名前を呼ぶだけの、牽制。華子ちゃんはそれを俺の言葉から読み取って、すぐに離れた。ごめんなさい、と小さな声で言ってから、俯いて目を擦った。悪気はなかったのだと分かる。
俺は自動販売機でココアを一つ買うと、華子ちゃんに差し出した。
「肌寒いね。手、真っ赤だった」
「……そんなつもりじゃ」
「待っててくれたお礼ってことで。……最低だね、俺」
華子ちゃんは首を横にブンブン振ると、ココアを受け取った。小さく頭を下げると、そのまま家の方向へ走っていく。それを見届けてから、俺もそこから背を向ける。
何でみんな、俺のこと好きだって言うんだよ。俺の中身なんて、本当は空っぽなのに。何で俺は普通にできないんだろう。あの頃から、みんなと同じようになるように努めてきたのに。俺が、人に好かれる才能があるなら、どうして一番好きになってほしい人になってもらえないんだろう。みんな、俺の何がいいんだろう。
ああ、自分がどんどん嫌になっていく。