複雑・ファジー小説

Re: Bloom Of Youth's Season ( No.27 )
日時: 2016/07/18 00:49
名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: cdgP4IbX)


 自分の名前を呼ばれたときにハッとした。伏せていた顔を上げると、結っていた三つ編みのおさげが反動で両肩に刺激を与える。変に不規則に顔を上げてしまったのと、自分の名前を呼ばれたことで、胸あたりから熱がこみ上げてきた。顔が熱くなるのを感じる。室内を見回すと、大きな作業机を囲むように座った部員が、私をじっと見つめていた。
 状況が理解できずに黙ったままでいると、戸惑いがちに部員は目を合わせて拍手を私に向けた。隣に座る同級生の亜美ちゃんも、八重歯を出しながらニッコリと笑って拍手していた。

「さすがだね、藍ちゃんは」

 拍手の中で聞こえた亜美ちゃんの声は本当に私を祝福してくれていて、そんなことないよ、と小さく笑う。私はさっきの話など聞いていなかった。

「絵の才能あるもん、綺麗だよ、本当。次のコンクールも頑張ってね」

 拍手が鳴りやむ。そこで私は、自分がどうして拍手されているのか何となく検討がついて、ああ、と口に出してしまう。

 昔から絵を描くのが好きだった。昔から、という言葉がうまく表現できているのか分からないけれど、確かに私自身では思い出すことができないくらい前だ。絵で表現することは私の言葉であったし、言葉で表現することは昔からうまくない。美術部には毎年何回かコンクールがあるけれど、私より絵を上手に言葉にしている人はたくさんいる。才能なんかではないのだ。才能というより、蓄積、だと思っている。そう言われた方が嬉しい。きっと立花くんもそうだ。

「才能なんかないよ」

 どうやら報告会が終わったようでそれぞれ席を立ちあがり、リュックを背負って美術室から出ていく部員もおり、イーゼルを持って定位置につくのもいる。亜美ちゃんが立ち上がるのを確認して、私もそれに倣って立ち上がる。

「またまたあ。受賞常連が何言ってるのさ」
「本当だよ。私は亜美ちゃんの絵の方が綺麗に思うけどなぁ?」

 先ほど絵を描くのが好きだと言った私だが、実は、これまで誰からも描き方を教えてもらっていない。高校に入って美術部に入部し、初めて絵を描くのを先輩や同級生に見せたときは随分驚かれた。私はほとんど筆を使わない。

「そうかなぁ、自信ないけど」
「自信持っていいよ、絶対!」
「ふふ、ありがとう」

 イーゼルを二人で並べて立てる。コンクール以外の活動のときは、時々亜美ちゃんとこうやって話しながら絵を描く。
 少しして亜美ちゃんが私に問いかける。

「そうだ、修学旅行でどこに行くか決まった?」
「あ、うん。少しだけ。班の子がね、行きたいところピックアップしてくれてたの」

 やる気なのは美音ちゃんだ。JKはブランドだと言っていたし。確かに一理ある。幸い我が空良宮高校の制服は地元でも一、二を争うほど可愛いと言われる制服だ。ストライプのワイシャツに赤いリボン、ブレザー、チェックのスカート。これを着て歩けるのはもうあと半分なのだと考えると少しだけ寂しい。
 なんだか考えたらしんみりしてきて、帰ったら自分もどこか行きたいところを調べておこうかな、と考えた。



 帰りの電車は比較的混んでいる。仕事から帰る大人たちとの時間がちょうどかぶっているからだ。席が見つからないまま、ため息をひとつ零して手すりにつかまった。
 家の最寄り駅まで四駅。美音ちゃんたちはあと二駅先だって言ってたなあ。そんなことを考えながら定期券を改札口に挿入する。ふと隣の改札を見ると、同じタイミングで高槻くんが改札を通過していた。驚いて目を見開くと、彼は気づいていたようで、私と目が合うときまりが悪そうに顔を伏せた。
 高槻くんとは何も言葉を交わさないまま、駅内を出る。もう家はすぐそこだ。彼は私の斜め前を歩いた。私の帰路でもある道は、彼の帰路でもあった。……高槻くんは、後ろに私の気配を感じているのか、なんだか動きがぎこちない。
 結局彼は何も言わないまま右に曲がって家に入っていく。その家の表札には“高槻”とある。向かいの家には、当たり前のように“市原”とあった。



「高槻くん」



 彼の名を呼んだ。ドアノブに手を掛けていた高槻くんは振り返る。私と目を合わせて、やはり自信がなさそうに顔を伏せる。

「また、明日ねっ」

 私の言葉を聞いて、驚いたように顔を上げる。少し黙って、高槻くんは、


「うん、…………市原さん、その、……ありがとう」


 何の“ありがとう”なのか、私には何となくわかっていたけれど、「どうしたの、急に」と笑った。そんな私に小さく会釈して、彼は家の中に入った。

——ただいまって、言ったんだろうか。……言えたのだろうか。


 彼の絶望した瞳は、あのときの嗚咽の記憶と重なって私を不安にさせた。

Re: Bloom Of Youth's Season ( No.28 )
日時: 2016/10/22 23:36
名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: Uxa2Epx7)

「ただいま」

 リビングの方へ声を飛ばすと、ややあってから母親の返事が聞こえてきた。玄関だというのに、今日の夕食であろうカレーの匂いがそこを包んでいる。ブレアーのボタンに手をやりながら、今週から制服の移行期間に入っていることを思い出す。……そういえば美音ちゃんも、今日は長袖のワイシャツを腕まくりして登校していた。立花くんは……どうだっけ、あんまり彼の方へ視線を向けられていなかったからわからない。明日は、立花くんの目を見て話ができるかな。
 制服からスウェットに着替えると、家の帰ってきた感じがして、そこでやっと一息つく。リビングに入ると、台所からもう一度母親の声が聞こえた。

「おかえり、藍ちゃん」
「ただいま」

 声の方を向くと台所から母の笑顔が見える。

「今日はカレーだよぉ」
「知ってるよ、玄関から匂ってたから」

 あらぁ、と特徴のある口調で母親は柔らかく微笑む。私の父親と出会う前、彼女は随分長いこと田舎に住んでいたらしい。結婚してからここにいるけれど、訛りは未だに抜けないままだ。彼女も周りもそれを気にしている様子はない。むしろ、その優しい口調と彼女の性格が上手にマッチしているとすら思う。

「藍ちゃん、そのカレー小鍋に分けられる?」

 母の言葉に、忘れかけていた高槻くんの顔が脳裏に浮かぶ。私は呆れたふりをして、「お母さん、また?」とため息をついた。彼女はそんな私を見て声を出して笑う。


「何事も助け合いよ、藍ちゃん」








 夕方も随分暖かくなって、この時間に外に出るのも億劫じゃなくなった。小鍋を抱えて、私は向かいの家へ小走りに向かう。インターホンを鳴らすのも、最初のころと比べてほとんど緊張しなくなった。
 ややあって扉が開く。出てきたのは高槻くんの父親で、彼の大きな目が私の目を見つめる。少しの沈黙の後、彼の視線は私の抱えている鍋にいく。

「……あのこれ、カレーです。作りすぎちゃって、良かったら」
「ああ……藍ちゃん、いつも本当ごめんね、ありがとう。大変でしょ」
「いえ、大変なんて。うちの母、料理大好きなんで。たくさん作れて楽しいみたいです」

 そう言っても、彼は申し訳なさそうに、苦しそうに、少しだけ微笑む。その微笑み方が高槻くんに似ている気がした。散らばりのある髭が彼の過労を示していて、無意識に目がそれを追ってしまう。それに気づいたのか彼は恥ずかしそうにそこを片手で覆うと、誤魔化すように小さく笑った。

「何かお礼、しなくちゃね」
「いいんです、そんなことしなくて」
「いや、でも。毎回ありがたいんだよ、本当に」

 やっと彼が鍋を受け取ってくれて、内心私は胸を撫でおろす。毎回高槻くんのお父さんがあまりにも申し訳なさそうにするから、こちらも申し訳なくなってしまう。

「そうだ、修学旅行、私、高槻くんと一緒の班で行くんですよ。四人班で、あと二人、気さくな男の子と女の子で」
「え、そうなんだ? ……はは、奏のやつ、何にも話さないから何にも知らないや」
「……えー、高槻くん薄情! 今、みんなでスポット決めてるんですよー」
「そっか……楽しいみたいで、……よかった」
「……」
「……」

 ジャア、と裏返りながら私が声を上げると、ウン、とあちらも多少裏返りながら返事をしてくれた。やっぱり私の視線はバレていたのか、彼の片手はずっと自らの髭にあった。今度から気をつけなくてはいけないと今更後悔する。
 我が家に戻ってきた後も夕食は食べられる気がしなかった。自室のベッドに身を委ねる。久々に面と向かって声を聞いたからだろうか。勝手に再生される記憶の中で彼の嗚咽はどんどん大きくなる。泣いていた、高槻奏はたった一人で、泣いていた。誰かに助けを求めることができなかった、その理由を、私は知っていた。多分きっと、誰もが知っていた。独りで嗚咽する彼と、私はあのとき、——目が合った。

Re: Bloom Of Youth's Season ( No.29 )
日時: 2016/11/30 01:47
名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: Uxa2Epx7)

 藍ちゃん、と一階から母の声が聞こえる。ごめん、と声に出してみたけど彼女には聞こえない。今日はカレー、もう見たくない。彼と同じものを口にするだけで吐き気がしそうだ。彼のことは嫌いじゃない。この気持ちは、きっと懺悔だと思った。あのとき、高槻くんを守れなかった。目が合ったとき、困ったように私が目をそらすと、高槻くんは少しだけ笑った。分かってるよ、と、涙をボロボロ流しながら、少し恥ずかしそうに、気まずそうに、笑った。ああ、そういえば、高槻くんのお父さんのさっきの顔は、そのときの彼の顔に似ていたんだ。だからあんなに後悔したのだ。ごめん、ともう一度言葉にする。その言葉は私の声に乗って、机とベッドしかないつまらない部屋の中をうろついて消えた。高槻くんのお父さんには聞こえない。きっと、私の家のカレーを高槻くんに紹介して、美味しい、と口にしているに違いないのだ。
 たちばなくん、と、つい、声に出していた。自分でも驚いて、その衝撃で瞑っていた瞳を開けてしまう。視界には、相変わらず何年もそこにある味気のない勉強机が映っている。立花くんは、どんな家に住んでどんな部屋で寝ているんだろう。小さい頃の彼は、どんな友達とどんな人生を送ってきたんだろう。彼の頭の中で、私はどんな存在なんだろう。

 立花くんと出会ったのは、高校一年生の夏だった。コンクールの締め切りが迫っていた私は、“水”をテーマに描こうとしていた絵を完成させるために、近くの市民プールに通っていた。最初は乗り気じゃなかった。うちの高校の生徒が練習に使っているとクラスの女の子たちが言っていたからだ。案の定、行ったときにはマネージャーらしき女の子がタイマー片手に私をチラと確認したのが見えた。怖くて彼女からすぐ目をそらすと、一番手前のコースで綺麗なフォームの男の子がいた。綺麗だ、と思った。泳ぎのことは全く分からなかったけれど、彼のことを描きたいと思った。人を描きたいと自ら思ったのはこれが初めてで、自分でも驚いたのをよく覚えている。泳ぎ切ったらしくプールから上がった彼と、私は目が合った。私の絵具だらけの指を見て、彼は、フ、と口元を緩ませた。

「プール描くんだ? センスいいね」

 そう、彼は言った。声も綺麗なんだ、と間抜けたことを思いながら、私は彼の瞳から目を離せないでいた。知らない男の子に話しかけられることは初めてで、何にも言えなかった。キョトンとした彼が、「空宮の一年だよね?」と笑った。知らぬ間に私と話をするために彼はこっちへ歩いてきて、距離が近くなっていた。思っていたよりも背が高くて、全体的に肌色だったのを、近くで見てからようやく気付いて顔が赤くなる。名も知らない彼のどこを見たらいいか分からなくて、そこでやっと私は顔を俯かせた。泳いで疲れたのだろう、息遣いが少し荒かった。——ハイ、と答えた、と思う。
「だよね、やっぱり。うちの階で見たことあるからさ」
 頑張って、と最後に言われた。彼はプールの方へ戻っていって、それから少しして、私は小さく、ハイ、と答えた。
 名前も知らない男の子のことを、知りたいなんて思ったことはこれが初めてだった。どうしていいか分からないまま、彼が学年で人気者だったことを知って、彼には——大好きな幼馴染がいると知った。

 たちばなくん、ともう一度声に出した。……何やってるんだろ、私。馬鹿みたい。冷めた考えとは逆に、彼の顔を思い出すたびに胸が熱くなって、顔にも熱を持った。ドクン、ドクン、と脈が速くなる。お腹の中が熱くなって、つま先まで熱くなって。固く目を瞑った。彼が笑う。


 熱を帯びた体が心地よくて、今日も眠れそうにない。

Re: Bloom Of Youth's Season ( No.30 )
日時: 2016/11/22 23:50
名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: Uxa2Epx7)




「藍、おはよ!」
 空西駅のホームで、美音ちゃんの声が私の名を呼ぶ。振り返るといつもと変わらない美音ちゃんの笑顔があって、その斜め後ろにもいつも通り、焦点の合わない眠そうな目でぼおっと歩く立花くんの姿があった。……同じクラスになって、出席番号で美音ちゃんと仲良くなって、こうして、立花くんのオフのような一コマが見られるのは嬉しい。美音ちゃんを見るふりをして立花くんを視界の中に入れると、彼も彼女と同様、長袖のワイシャツを着て、それを肘上までたくしあげていた。うちの高校の夏季制服は、冬季に着ていた長袖のワイシャツか、半袖のワイシャツか自分で選んで着用することが認められている。大体みんなは腕まくりをして調節のできる長袖を選んでくることが多い。今日から私も夏服仕様だ。

「おはよう、美音ちゃん、立花くん」
「おー、おはよ」

 立花くんが私の言葉で微笑む。……立花くん、やっぱり整った顔してるなあ。パッチリした二重に、綺麗な鼻、男の子っぽい体つき。男の子に縁のなかった私が一目ぼれした男の子。過去に私と交流があったことなんて忘れているだろう。きっとこの恋は叶わないけれど、一年前の私はこんな風になることすら予想していなかったはずだ。私、立花くんと一緒に修学旅行へ行くんだ。同じバスに乗って、同じスポットを廻ったり、写真撮ったり、名前呼んだり呼んでもらったりして……。脳裏に私と立花くんが並んでツーショットを撮る画が浮かんで、恥ずかしくて、急いでそれを青く塗りつぶす。そんなこと、できないよね。うん、分かってる。
 教室は修学旅行気分だ。担任の先生が入ってくるまで、みんなでどこを回るか話し合っている。高槻くんはいつも通り私たちより先に来ていて、立花くんが「おう」と手を上げて挨拶をする。

「奏、おはよ」
「うん、おはよう」

 私たちのグループは、主に進行役が立花くんで、提案するのが美音ちゃん。意見を出すのが(と言ってもほぼ賛同)私と高槻くんだ。このグループに決まったとき、なんだかそういう気がしていた。多分これが一番やりやすいのだ。

「昨日言ってたやつ、どう? なんだっけ美音」
「かりゆしビーチー!」

 美音ちゃんの言葉に、いいんじゃないかな、と声を上げると、目の前の高槻くんも、それに頷く。それから、チラと様子を伺うように立花くんの顔を見た。

「でしょでしょ! じゃあ、かりゆしビーチ採用! 藍、たくさん写真撮ろうね」

 美音ちゃんが嬉しそうに拍手の真似をする。笑って私もそれに倣った。立花くんも呆れたように笑って、「うるせーよ」と美音ちゃんにチョップを入れる。アテ、と痛そうなフリをする美音ちゃんに笑いかけて、提出用のプリントに決まった予定を組み込み始めた。班の班長は立花くんだからだ。ぴったりだと思う。今のところ決まっているスポットは、全部美音ちゃんが提案して私たちが賛成したものだ。
 少しの間立花くんたちと一緒にいて、気づいたことがある。私が思ったより立花くんは自分の意見を言わない人だ。いつも美音ちゃんの言うことに呆れながら、それでも賛同する。他の人にもそうだ。だから、人とここまでやってこれるんだ。相手の欲しい言葉しか言わない。立花くんは頭がいいから、多分狙ってやっているんだと思う。——たちばなくん、と、つい、口に出していた。規制よりも愛しさの方が勝ってしまった。彼と交流を持つようになってから、私はおかしい。シャーペンを握る右手から力が抜けて、「ん?」といつもの笑顔を私に向けてくれる立花くん。……何か言わなきゃ、何か。

「しゃ、……写真、撮ろう、海で」

 アー! やっちゃった、何言ってるの私! 立花くんは一瞬キョトンとして、目を真ん丸にした。美音ちゃんも不思議そうに私を見る。少しして、立花くんは豪快に笑った。

「いいよ、全然! 撮ろ撮ろ、二人でどんなポーズする?」
「あ、えっと……、ちがくて、そのっ」
 言い訳をしようとすると、美音ちゃんが言葉をかぶせる。
「やっぱりシーサーでしょ! 私が撮るね!」
「さんきゅー。……じゃあ、反対に美音と奏もシーサーでツーショットな」
「ええぇえっ!?」

 困るよそんな、という美音ちゃんの目は、立花くんには笑いの的にしかならないみたいだ。……もう、美音ちゃんのことは大丈夫なのかなあ……。
 立花くんと私は、住む世界が全然違うんだなあ。すぐ斜め向かいにいる彼はなんだ違う世界に見えて、楽しそうに話をしている美音ちゃんがなんだか恨めしく感じてしまった。



 帰りのSHRが終わると、二人は肩を並べて廊下を歩く。人気のある立花くんになんだかんだ文句を言っている美音ちゃんも、きちんと顔が広い。他のクラスに友達がたくさんいるのだ。だから立花くんと歩いていても不安がない。教室を出る前に、「藍、ばいばい」と手を振る美音ちゃんの隣の立花くんはもう完全にオフモードで、私のモヤモヤを沸き上がらせる。ごめんなさい、と心の中で謝る。美音ちゃんには何も聞こえないのに。美音ちゃんは、何も悪くないのに。こんな気持ちになったのは初めてだった。ひどいなあ、私。最低だ。席を立つ。部活はあるけれど、少しくらいサボっても大丈夫だろうと思った。元々自由参加みたいなものだし。ため息をつくと幸せが逃げると聞くけれど、ため息をしたら、もうその時点で私の幸せは逃げていた。
 二人に追いつくのが少し嫌だったのか、無意識に足取りは重い。自分が怒っているのか悲しんでいるのか分からなかった。空西駅はもうすぐだ。一度も彼らと会わなかったけれど、もう電車に乗っただろうか。
 部活をしなかったおかげで、電車は比較的空いていた。座席に座ることができるなんて久しぶりだ。——目を瞑ると、二人が笑っている。そういえば今日、立花くん夏服似合ってたなぁ。言えば良かった……。



「——市原さん」

 肩を揺らされ、自分が寝ていたことに気付く。いけない、と顔を上げると、そこにはあのころと比べると随分と大人びた高槻くんの顔があった。

「もうすぐ着きます。……違う駅行く予定、だった?」
 そう言って、彼は不安そうに私を見つめる。敬語なのかため口なのか分からない彼に少し笑いながら、首を横に振る。

「ううん。ありがとう、高槻くん」
 高槻くんはホッと顔の筋肉を緩めた。しばらくすると電車が止まって、私たちの最寄りの駅の名がアナウンスされた。もう一度「ありがとう」と言うと、私たちは電車を降りる。なんとなくで同時に改札を抜けると、なんとなく、隣を歩く。高槻くんから離れるかな、と予想してたけど、なぜか彼は私の隣を歩いた。

「……高槻くん、楽しみだね、修学旅行」
「うん。……その、市原さん、ありがとう」

 この前も聞いたセリフだ。この前も今もなんとなく意図は分かるけれど、「どうしたの?」と聞いた。

「……カレーとか」
「ああ、うん。気にしないでいいよ、お母さんが勝手に作ってるだけだから」
「でも……」
 まだ何か言いたそうな高槻くんを、「大丈夫だから」と制御する。


「……そんで、俺のいろんなこと、誰にも言わないでいてくれて」


 最後の方は、声が小さくなってあんまり聞こえなかった。でも、言いたいことは分かる。

「大丈夫、私と高槻くんしかいないから。何にも言わないよ。だから大丈夫」

 私がそれを言ってしばらくして、高槻くんが小さく、ウン、と答えた。あの事件のことを彼と直接話しているなんて、自分でも驚いている。だけど、いつかは話さなきゃいけない内容だった。

「……市原さんも何か悩んでたら、俺、話くらい聞くから」
「え?」
「それくらいするよ。何にもできないけど……。今日だって、」

 思わず言葉が出なくなってしまった。高槻くんが気づいているなんて思わなかったからだ。隣の高槻くんを見上げると、彼はやっぱり自信がなさそうに私から目を背けていた。

「……優のこと、好き、なんですよね」

 肝心なところで、彼は敬語になる。変な文章を並べて、それからまた高槻くんは何もしゃべらなくなった。お互いの家に近づいてきた。向かいの家同士なのに、私たちはこんなにしゃべったことがなかった。

「うん。……内緒ね」
「……うん」

 じゃあね、と言うと、ウン、と高槻くんが答えた。なんだか私たち変な関係だな、と思ったけれど、言わないでおいた。彼と離れて、立花くんと私がツーショットを撮る画を思い浮かべる。少し離れたところから、それを楽しそうに撮影する美音ちゃんの笑顔が見えた。悪意の少しもないそれに、私はまたため息を落とした。

Re: Bloom Of Youth's Season ( No.31 )
日時: 2024/12/03 16:42
名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: 4.2P0hz.)

 目に見えないヒエラルキーは、確かにそこにある。誰も疑問に思わないだけ、誰も、問わないだけだ。スクールカーストのもたらす安全性と残酷さは二軍以降から不平等に降り注ぐ。何にも知らないのは、一軍と、どこへ行っても安全な距離を保っていられる人だけだ。上の人たちの機嫌を損ねないように、私たちは毎日目を光らせる。ゆっくりしている暇はない。学校は戦場なのだ。名誉があるからと言って階段を上れる人はいない。すべては外見や性格で決まる。公式尺度を採るか、非公式尺度を採るかの世界。学校生活の中では非公式尺度で上を目指していた方が賢明なのだろう。……そんなこと、みんな分かってる。ずっと三軍だった私たちにだって。

 教室内に包まれていた修学旅行気分の雰囲気は、数日で消え去ってしまった。夏休み中に行われる修学旅行よりも、重大で大変で、今後の自分たちを左右する夏休み前にある大きいイベントをみんな忘れていた。……いや、目を背けたかっただけなのかもしれない。


「テストってさあ……。信じらんない、この時期にするもの?」

 英語のワーク、と、それの解答冊子が、隣でうなだれる美音ちゃんの下敷きになっているのが見えた。ぎこちなく苦笑すると、彼女は「藍ー」と甘えた声を出して私の腕にしがみついた。斜め上から見えるのは、ぷっくりした唇を、長いまつ毛に、キラキラした瞳。女の私から見ても、美音ちゃんは可愛かった。ルックスでいけば彼女は絶対に一軍の仲間入りができると思う。実際に、一軍の男女とも臆せず話すし、彼らも美音ちゃんのことが好きだと思う。美音ちゃんからは、ヒエラルキーの意識を感じない。私と友達になって話をすることも、彼女にとっては普通のことで、優越は感じない。変な子だ。でもみんな、そんな彼女が好きだ。
 県の中でもそんなにレベルの高くない空宮高校。怠惰の塊だと思っていたけれど、最近そうでもないと分かってきた。進学校と名乗っているだけあり、ああだこうだ文句を言う生徒も、はたから見れば真面目な生徒だった。テスト期間になればちゃんと課題をして勉強をするし、朝の小テストだって落ちればペナルティをちゃんと受ける。それだけでも、今の高校生にしては素晴らしいことなのだそうだ。別々になった中学校の部活友達の高校はもう少し自由があると聞いてびっくりした。……空宮高校生徒の象徴とでも言うように、机に突っ伏して文句を口から漏らしまくる美音ちゃん。斜め前の立花くんはそんな美音ちゃんに呆れたような顔をして「甘えるな!」と頭を軽く叩く。

「っな!? 何すんだ馬鹿!」
 起き上がると早々に後頭部を押さえて、立花くんを睨む美音ちゃん。立花くんも引かない。
「おーまーえ、一年の四回目定試の失態を忘れていないだろうな? お前の筆跡似せて、俺が美音の生物の課題やったの! あのときのラーメン一杯、俺はまだ奢られてない!」
 ギク、と美音ちゃんの顔がこわばる。……やってもらうという手も存在するのか……。
「知らない! 知らない知らない! だって優あのとき、“俺も勉強になるよー”とか言って優しくしてくれたもん!」
「それは美音がガチ泣きしてたからだよ! 優しくするしか方法ないだろ!?」

 二年生になって一回目の定期試験。彼らの成績をあまり知らない。立花くんに課題をさせてたってことは、美音ちゃんは立花くんより成績良くないのかな?
 怒号が飛び交うのをしばらく楽しく見ていると、意外にも他のクラスメイトも楽しそうに野次を飛ばしながらそれを観覧し始めた。最終的に美音ちゃんは立花くんに負けて、彼女が謝るところまで進展すると、周りはみんな大爆笑でことが終わる。私の知らない彼らの時間。少しだけ心臓が痛む。

「次からは本当一人でやれよな。今回世界史とかまじ範囲広いし」

 ウ、と微妙なうめき声をあげて、美音ちゃんはまたうなだれる。

「いーよ、じゃあさあ、最初から一緒にやろうよ。そうすれば私も優と同じ速度で課題終わるじゃん」
「はいぃ?」
 彼の呆れた顔がマックス状態になる。面倒くさい、の裏に、少しだけプラスの感情が見え隠れする。いい案を思いついたとばかりに美音ちゃんは私の顔を見た。真正面から見る彼女の綻んだ顔は、無垢で何にもなくて、透き通っていた。

「藍、聞いて! 優、すっごい頭いいの」
「え、そうなの?」
「本当だよ! いっつも一桁ばっかり取って」
「わーーー! 美音、やめろよ!」

 え、一桁? ……え?

「ひ、一桁って……、二百七十五人中、一桁ってこと?」

 運が良かったら二桁……なんて、絶対言えない! 立花くんって、そんなに頭良かったの!?
 立花くんは恥ずかしそうに眉を寄せながら後頭部を掻く。

「あー……たまにね? たまに、運が良かったときとか! そ、そうだ、市原も一緒にどう? 得意教科とか、教えてよ、俺も今回分からないところ多いんだ」
「え」

 今の話聞いて、私が立花くんに教えられるところなんてないよ……! 明らかに話題転換に使われたお誘いだが、こんなチャンスは二度とない。……でも……。
 黙り込む私に、美音ちゃんが心配そうに顔をのぞかせる。

「藍? 無理だったら無理って言ってね! 一人で勉強するほうが精が出るって人もいるしさー」

 立花くんが「じゃあ俺無理」と美音ちゃんに無情に言い放つ。美音ちゃんが何か言い返して、またいつもの茶番が始まる。
——こういうとき、私の知らない彼らの時間が悔しくて胸を痛めるくせにどうして誘いに乗るか乗らないかで迷っているんだろう。進まなきゃ、彼らの時間を覗いてみなきゃ分からない。どう変わるかは、自分自身で決めるんだ。グ、と拳に力を込めて、立花くんに向かって口を開く。

「……いって、みようかな、勉強会」
「まじ? っし、決まり! 次の土日県図書な」

 県図書、というのは県立図書館のことだろうか。うん、と頷くと、美音ちゃんが「やったあ、あそこのカフェ美味しいんだよね」と明らかに浮ついた言葉とともに微笑む。立花くんはそれに毎度睨みを入れながら「先に課題な」と冷たく言い放った。

Re: Bloom Of Youth's Season ( No.32 )
日時: 2016/12/24 23:19
名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: Uxa2Epx7)




 友達と出かけるなんて小学生以来だ、なんて言うのは恥ずかしい。昔から人付き合いが苦手なことも背中を押して、私は何でも一人でできるような女になってしまった。バンドのライブだって、東京廻りだって、学校生活だって。最初は恥だった意識も段々育て上げられて、固い意地になる。流行りのものはどこか嫌うような素振りを見せるようになって、好きなものを「好き」と口に出すことすら人前できはできないようになる。サブカル系と言えばどこか安心しているらしい。自分の世界なんてないのに。本当は何も嫌いたくないのに。
 私の名前を呼ぶ美音ちゃんの声が聞こえる。いつもより弾んだその声の方へ目をやると、笑顔の美音ちゃんが私の方へ走ってきていた。その斜め後ろに、立花くんが笑みを浮かべたままこちらへ歩いてくる。

「藍、おはよ! 待った?」
「おはよう。ううん、さっき来たとこだよ」

 良かった、と美音ちゃんはまた笑う。シンプルなプリントTシャツが揺れるたびに、それに隠れたショートパンツが見え隠れする。……夏っぽいな、可愛い。立花くんは私と目が合うと、いつもみたいに「おはよう」と目元を笑わせる。ボーダーカットソーの上の紺色シャツが爽やかで彼によく似合っている。ベージュのクロップドパンツが最後の色調節といったところだろうか、立花くんはセンスが良いなあと素直に思った。
 暑いね、と、夏休み前の雲一つない青空を仰ぐ美音ちゃんは少しも悪がなくて綺麗だった。……こんな感じで立花くんとも二人で遊ぶのかな。立花くんへの過失を少しも感じることなく遊びに誘う美音ちゃんを、彼自身をどう思っているんだろう。今まで自分の気持ち、誰にも言ったことないのかな。

「そうだ、ね、藍、笑って笑って!」

 美音ちゃんの言葉が、私の思考回路の通行を止めた。いつの間にか美音ちゃんの携帯が私と美音ちゃんの斜め上に登場している。画面の中には私と美音ちゃんが顔を寄せ合って写っていた。あ、と思って、すぐ笑顔を作る。曇りのない美音ちゃんの笑顔を画面越しに見て、私もこんな風になれたらなあ、とふと思う。パシャ、と音がして、おろした携帯の画面を見てみると、慣れない笑顔の私がそこにはいた。








「あー。……疲れた」
「まだ一時間ちょっとしか経ってないよ、美音」

 立花くんが持っていた図書館のカードで借りた自習室の一室で、盛大なため息とともに机に突っ伏す美音ちゃんを呆れたように見下ろす立花くん。英語が苦手だという美音ちゃんの下敷きになっている英語ワークには、見える限りペケの嵐が巻き起こっている。

「英語なんて文法暗記すりゃいけるって。テストまでに教えてやるから、めげんなよ」

 それでも小さくうめく美音ちゃんに苦笑していると、左隣の立花くんと目が合った。

「市原は? 苦手と得意とかある?」


 う、……うわーー!
 急に立花くんから話しかけられて私の心臓が居場所を主張する。よく見たら彼の髪は学校のときと違って従順に重力に従っている。ワックス加工してないんだ、と今更になって気づく。完全オフの立花くんの顔をまともに見られないで、机を見つめながら急いで返答する。

「えっと……、化学苦手で……、国語系は好きかも」

 成績のいい立花くんの前でこんなこと言えないけど、と付け足すと、彼は恥ずかしそうに笑って私の頭を小突く。

「何言ってんの。ああいう順位いつもとってるわけじゃないよ。まぐれまぐれ」
「でも、私なんて桁すら違うから、恥ずかしいよ」
「大丈夫だよ。じゃあ、今回は桁減らせるように頑張ろうぜ」

 せっかく来たんだし、と立花くんは続ける。どこかの有名人なんじゃないかと思うくらい彼は端麗なまま優しく笑った。恍惚とする私に気付かないまま、立花くんは化学のワークをリュックから取り出して開く。「美音放っといて化学やろ。どこか分かんないとこあったら聞いて」と作業に取り掛かる彼。うん、とも、そうだね、とも返事ができなかったことに心の中でため息をつく。変わらなきゃ、と思うのに、変えられない。
 静かになって少し経つと、私の体の左側がじんわりと熱くなっていく。先ほどまで感じていなかった私と立花くんの微妙な距離を、無意識に感じてしまったのだ。立花くんと出会って、話ができて、私の名前を覚えてもらったり呼んでもらったりして。二年生になってから夢みたいな生活をしている。いつも遠くから見ているだけだった彼を、こんなに近くに感じることができる。ギュウ、と心臓が縮こまった。

「……モル計算難しい」
「あ、モル? 俺結構好きだよ、教えよっか」

 私のワークを覗き込んだ立花くんの肘が私の肘に当たる。「あ、ごめん」とさほど気にしてなさそうに私に謝ってから彼は説明を始めた。いつも背の高い立花くんの頭のてっぺんが今日は見える。立花くんの仕草一つひとつに胸の中がいっぱいになって私の顔を火照らせる。

「モルを求めるときは割って、モルで求めるときは掛けるって覚えるといいんだよね。それ知っとくとここらへん全部できるよ。例えば——」

 立花くんの手が私のワークに数字を書き込んでいく。思っていたよりも字が男の子っぽい。彼から匂う爽やかなシャンプーの香りがひどく落ち着く。

「今回はモル計算メインだって言ってたから、これできれば四十くらいは余裕余裕!」
「そうなの? ありがとう、頑張る」
「そうそう。化学の水島って意外とワークの問題そのまま出すし案外いけるよ」

 顔をくしゃっとさせて立花くんは笑う。私も笑う。彼と同じ空間にいられることが、こんなにも嬉しい。見るだけで良かったあのころの私はもういない。彼に出会って私はどんどん堕ちてゆく。

「あ、そうだ、修学旅行の話するんだけど。最後に一か所回れてさ、俺がいくつか候補出したから、市原と奏に最後決めてもらいたくて。美音ばっかりの意見だったし、これ俺の候補だから俺もどこでもいいからさ」

 リュックに入っていた資料をクリアファイルごと渡される。中の用紙には四か所ほどの候補の情報がコピーされていた。

「うん、分かった。スムーズに決められて良かったよね、うちの班」
「だよなー。喧嘩してる班も結構あるらしいし! ていうか、金曜に奏にこの資料渡すの忘れちゃったんだよなあ……。奏の連絡先とか知ってる?」

 この予定の用紙は月曜提出だ。もう一組用意したんだけど、と苦笑して立花くんがもう一つクリアファイルをリュックから取り出す。……高槻くんの連絡先は知らないけれど、コンタクトをとる方法なら、ある。

「じゃあ、私が渡しておくよ」
「え、なんで? もしかして連絡先知ってる?」
「ううん。……あの、」

 高槻くんの顔が浮かぶ。関係を言葉にするだけなら、きっと彼を傷つけることはない。


「私と高槻くん、同じ中学だったから。家、隣なんだよね」

 そうなの!? と意外そうに目を見開く立花くんを見て、やっぱり私は彼と出会って本当に堕落してしまったのだと気づいた。頭の中で心配そうに私を見つめる高槻くんの姿を、必死で黒く塗りつぶした。