複雑・ファジー小説

Re: Bloom Of Youth's Season ( No.33 )
日時: 2016/12/26 19:03
名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: Uxa2Epx7)




「俺の涙を見た彼女の方が、今にも泣きそうな顔をしていた」




     肆◆






 頬に生ぬるいものが付着した。なんだろう、なんて思う暇がなく、瞬間には鉄臭い錆のように匂う。目の前で起こっていることは、明らかに殺人だった。母さんは人を殺していた。男の人の腹部から血が流れる。滞りなく、ドクドク、時々小さく飛び散りながら、血を吐き出していた。壁にもたれかかる俺の足元にも血が広がる。床とも体温とも違う妙な温かさが俺に嘔吐物を催促させる。今の状況に何にも説明なんていらないはずなのに、俺は何もかも分からなかった。分かりたくなかったのかもしれない、けど、怖くて気持ちが悪くて、顔を背けることすらできなかった。動けなかったのだ。細く息をするのが精一杯だった。母さんの嗚咽ともとれる叫び声が聞こえる。それと同時に、自分のズボンがジンワリと濡れていることに気付いた。漏らしたのか、床を伝っていた血がズボンを濡らしたのか分からない。そんなことどうでもよかった。相手の顔を見なければよかったのに、俺の眼球は意志に従わなかった。人間の最後の顔は醜かった。涎も鼻水も涙も、血も。汚くて、俺は手を口に当てた。手の平からも鉄の匂いがして、強く逆流してきたものを一気に吐き出す。何も入っていない胃が悲鳴を上げて、涎と嗚咽が俺の口から吐き出される。辛くて、どうしようもなくて、目から涙が千切れた。
 何時間、いや何分だったかもしれない。少し経って、急に包丁が床に落ちる音が部屋に響いて、思わず肩を震わせて驚いてしまう。怖くなって顔を上げると、男の人は床に転がったまま動かなくなっていた。俺の目の前にドスンと崩れ落ちてきたのは、まぎれもなく俺の母親だった。彼女は血だらけだった。視界の端に映る彼を殺したのは母さんだと分かっているはずなのに、どうして血だらけなんだろう、大丈夫かな、とすら思った。彼女に見つめられて、どうすればいいか分からずに、俺も彼女を見つめた。それから初めて、これからどうなるんだろう、と思った。母さんとはもう、会えなくなるのかもしれない。父さんはどんな顔をするんだろう。俺が小学生になる頃建てた家だった。三人でずっと楽しく暮らしていくはずだった。どうして俺と母さんはこんなに泣いているんだろう。母さんが血だらけの両手で俺の頬を包んだ。母さんの匂いがしない。

「ごめんね、奏、ごめんね……もう会えないんだ、奏……」

 母さんも同じことを考えていた。だから、独り言のような母さんの言葉に「うん」と頷いた。母さんは声を上げて泣いた。

「一生懸命生きて……、周りに何を言われても、お父さんと幸せに暮らすんだよ。……今見たことは、もう思い出しちゃ駄目よ。……奏、奏……」

 また、うん、と頷いたけど、約束はできそうになかった。この匂い、忘れるわけがなかった。あの人の顔、忘れられない。母さんと話してても脳裏に浮かぶ。気持ちが悪かった。もうあの男の人は死んでいる。母さんが俺を抱きしめる。鼻に擦れる彼女の衣類は鉄臭くて、ああ、この人は母さんじゃないんだ、と思った。母さんも、もう死んでいた。俺も死にたい。……かあさん。無意識に口から漏れ出た言葉とともに、俺の全部を彼女の肩に乗せてしまったような気がした。警察のサイレンが近くに鳴っている。彼女の腕の力が強くなった。ごめんね、と繰り返し言う彼女の背中に腕を回す。部屋の静寂の中、インターホンが響く。一回、二回、三回……。鍵が開いてドアが開く。ばいばい、と耳元で聞こえたような気がした。
 父さんが警察と一緒に来て、血だらけの俺を抱きしめた。「奏が無事で良かった」と言われたけど、俺は別に無事ではなかった。この世の終わりを見たような気がした。昨日までの高槻奏はいない。あの頃と同じようには振舞えない。仲が良かった友達の顔が頭の中でぼんやりと並んでいる。一緒に笑ってきた三年間は、全部他人の記憶だったかもしれない、とすら思えてくる。俺が今までどんな奴だったかとか、どんな奴と関わってきたとか、もう今の俺には関係のないことだった。高槻奏は、母親と一緒に死んでしまった。





「こいつ、なんで本当生きてんの」
「犯罪者の息子のくせに」

 噂というのは子供も大人も大好きで、俺の母さんのことはあることないこと尾ひれがついて近所に広まった。通学路にも教室のドアの向こうにもたくさんの敵を作って、完全に孤立してしまった。大きな会社で勤めていた父さんはそれを辞めたし、俺は完全にいじめの標的になってしまった。あの日から、俺の生活は一変してしまったのだ。

「聞こえねえフリすんなよ。お前、ちょっとこっち来いよ」

 井上が俺の腕を引っ張る。抵抗しても無駄だということは一週間で分かった。——井上、と叫びたかった。あんなにたくさん遊んだのに。一緒の高校行こうって約束したのに。何にもなかったことにしてるお前のことが、俺はどうしても分からない。教室の真ん中に引っ張り出されて、井上たちが乱暴に机をよける。丸い円状にそれらをはけ終わると、井上と俺だけが円の中に取り残される。呆然と立ち尽くす俺を見て井上はほくそ笑む。
 井上の拳が俺の腹で鈍く音を鳴らした。低い歓声と小さな悲鳴が混ざり合う。……こんな風じゃなかった。俺の知っている三年二組の教室はもっと居心地の良い場所だった。……好きだった。
 頬を殴られて、口の中が血だらけになった。拳が鼻に当たって鼻血が出る。顔全体がぼんやりと痛み出す。どこが痛いのか、自分が悲しいのか怒っているのか、何にも分からなくなった。倒れて動けなくなった俺を囲んで楽しそうに笑うクラスメイトが薄目に見えた。俺が積み上げてきたものはこんなものだったのか、案外つまらないなあ。視界がだんだん狭くなっていく。もう何も見たくない。目を瞑ったら楽になれる。

「……はは」

 瞼の裏に映ったのは、人間最後の顔だった。鉄臭いのが鼻を掠めて、「何笑ってんだよ、気持ちわりぃ」井上の言葉で大きく笑いだすクラスメイトの声を聞きながら、俺は小さく笑い続ける。俺の居場所はどこにもなかった。

Re: Bloom Of Youth's Season ( No.34 )
日時: 2017/01/29 13:57
名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: Uxa2Epx7)

 声を荒らげると笑われて、歯を食いしばるとまた笑われる。体にたくさん痣を作って帰ると、父さんはいつも心配そうにした。遠くへ引っ越すにもお金がいる。仕事を変えたばかりの父さんには無理だった。どこにも行けない。ここは思ったより住みづらい町だった。
 母さんとは、あの日以来一度も会ってない。昔から周りの人より弱い人だった。そして何より、父さんのことが大好きだった。父さんの帰りが遅れると泣いて暴れ、父さんが仕事の弱音を吐けば、上司を殺した。病院へ何度も父さんと通っていた。友達のお母さんと比べたらおかしい母親ということは分かっていたけれど、俺は母さんのことが好きだった。
 机をはけて一方的に殴られるクソみたいなゲームはそれから一週間に一、二回くらいのペースで放課後に行われた。最初は悲鳴を上げて中止を促していた女子も、段々と目に慣れてきたのか、知らないふりをして教室の隅で世間話をするようになった。いつも俺と井上にくっついていた奴らが薄く笑いを浮かべているのを見て、グ、と拳を握りしめる。……やり返したら、絶対に悪者にされる。分かっていたから何もできなかった。
 保健室の先生も、担任の先生も、俺の傷や状況の変化に深く言及しようとはしない。ある程度心配の言葉を並べると気まずそうにする。それならいっそ何も言ってくれない方が良かった。


「やっべ、血ィついた、きも」

 周りの乾いた笑いとともに井上も楽しそうに笑う。
 泣いたら負けだと思う。何をしても笑われるなら、せめて涙だけはこいつらに見せてはいけないと心の奥で決めていた。
 ああすっきりした、と井上が満足そうに手を叩くと、野次馬たちがゆのろのろとカバンを持って立ち去る準備をする。もう彼らは俺に興味がない。彼らにあるのは“どうすれば井上に気に入られるか”ということだけだ。
 目を瞑る。「じゃあな、奏」と井上の声が遠くで聞こえて、それから教室のドアが勢いよく閉められた。全身の力が一気に抜けて、荒く酸素を貪りながら目を開ける。霞んだ天井が見えた。
 鼻を拭うと、俺の白い腕に鼻血が付く。

 その刹那にはもう俺はあの場所にいた。フラッシュバックだ、と思う暇もなく、衣服に血が飛び散る。空気が重い。うまく息が吸えない。血は赤い。母さんが泣いている。体が動かない。


「おい」

 低い声が俺を教室へ戻す。意識の戻ってきた俺の視界の中には、井上のしかめっ面があった。あいつは俺と目が合うと更に眉を寄せて怒ったような顔をする。横になっている俺を覗き込む井上。何してるんだろう。彼の顔を見ていると、井上の方も表情を変えずに押し黙っている。

「……なに」
「何って、何。忘れ物取りに来ただけなんだけど」

 久しぶりに会話した井上の声は酷く低く、冷たかった。
 井上はふいと顔を背けると自分の席へ歩いていく。しばらくして、忘れ物とやらを見つけたのかガタン、と小さく音がして、足音が聞こえる。足音はドアの方へ向かってどんどん遠ざかっていく。
——なんで俺、ちょっと期待してたんだろう。近づいてこないあいつの足音で、どうして俺はこんなに悲しくなっているんだろう。また天井が霞んで見える。瞬きをすれば零れてしまいそうだった。



「あの、さあ」



 ドアの方にいるはずの井上が、また声を上げた。目をそちらに向けられないでいる。俺の視界は揺れた天井のままだ。

「一緒の高校行くって約束したの、まだ覚えてたりすんの」

 唐突な質問に、我慢していた涙が頬を伝って地面を濡らす。どうか井上がこっちを見ていませんように、と願いながらそれを拭う。
 何なんだ、突然。お前はいつも突然すぎるんだって。喉まで出かかった言葉が、嗚咽によって飲み込まれる。井上の息遣いが聞こえる。多分彼は今俺を見ている。慌てて腕で目元を隠すようにすると、先ほど拭った赤いものが俺のそこにこびりついていた。……体が急に冷えていくのを感じる。そうか。これは確認じゃない。許しを請うているのだと分かった。


「……もう覚えてない」

 今更、虫のいい話だった。

「……あっそ」

 分かった、と最後小さく聞こえて、ドアが閉まる質素な音を聞いた。
 大きく嗚咽が漏れる。余力で上半身を起こすと、誰にも言えなかった感情が一つ二つ、雫になって俺の頬を濡らす。その感情が唇まで伝う。しょっぱい。そうか俺、今、泣いてるんだ。拭っても拭っても涙は止まらなかった。
 これまでの自分は捨てたなんて言っていたけど、俺は、母さんが殺人をしたあの日から、ずっと、ずっと、溺れていた。そんな素振りを誰にも見せられずにいただけで、ずっと。ずっと苦しかった。彼だけは味方をしてくれるんじゃないかと思っていた。あのとき井上は俺を捨てたのだと思っていた。だけど、俺は井上を捨ててしまった。彼が俺を捨てるより前に。
 喉が高い音を出してヒクつく。もう限界だった。



 ドアがさっきよりも慎重に開く。——井上、かもしれない。

「いのう、」

 彼の名前を言いかけて、止まった。……違う。市原藍。隣の家で、隣のクラス。まだ止まらない雫を慌てて腕で隠す。

「え、……あ、えっと」

 困ったように目をそらして、足を小さくジタバタさせる。彼女の困惑は痛いほど分かる。
 あの、とか、えっと、とか、まだ小さく繰り返す藍に小さく笑う。

「……もういい。分かってるよ」

 立ち上がって、じゃあ、と彼女に声をかけて教室を出ていく。少し行ったところで、奏、と彼女の声が聞こえたみたいだったが振り向かなかった。
 俺の涙を見た彼女の方が、今にも泣きそうな顔をしていたのは何故だろう。