複雑・ファジー小説

Re: Bloom Of Youth's Season ( No.36 )
日時: 2017/01/27 21:47
名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: Uxa2Epx7)




——奏のピアノが一番綺麗だったね。いつかもっと大きなホールでお母さんのために弾いてほしいな……。

 母さんが笑ってる。白い肌に唇がよく映える。家の中でも化粧を欠かさない人だった。母さんはいつ見ても綺麗な俺の母親で、弱くて脆くて、守ってあげたかった。

——うん。分かったよ、母さん。大きいホールでたくさんの人の前で、母さんのためだけに弾いてあげる。たくさん練習して、母さんの一番好きな曲を弾くからね。

 綺麗に笑った母さんの顔。目を合わせて笑ったはずなのに、あのときの母さんの顔が思い出せない。……母さんって、どんな顔してたっけ。見上げて彼女の顔を見たいのに体が動かない。赤い唇しか見えなかった。ありがとう、と唇が動いた。そういえば母さんの一番好きな曲って、





——ごめんね、奏。






「ぅあ……! は、はぁっ……!」

 目を開けると、そこは殺風景な俺の部屋だった。しばらく肩で息をしていると、奏、と俺の名前を呼ぶ低い囁きが聞こえる。目玉だけでそちらを見ると、ベッドの横に父さんが座っていた。心配そうに俺を見つめる彼の目と、焦点の合っていない俺の目が合う。父さんの手に握られたタオルが俺の首に優しく触れた。冷たいそれが俺の汗を吸い取っていく。
 あの日から何度も何度も母さんの夢を見る。白い肌に赤い血がよく映えた母さん。足の先から生ぬるい人の血の感触が伝う。目が覚めると、いつも父さんがいる。心配そうに俺を見て、汗を拭う。大丈夫かと聞かれて、俺が頷く。
 もう大丈夫と伝えると、そうかと彼は俺の頭を撫でる。弱々しく笑った彼の顔が薄暗い部屋の中でも簡単に想像できた。学校よりももっと尺度の広い世界で肩身の狭い思いをしている父さんの方が俺よりずっと疲れているはずだった。今まで母さんに任せきりだった家事も今はほとんど父さんが行っていて、我慢して俺には疲労を見せないようにしているんだろうけど、きっとすぐにボロが出る。ここのところ、俺の睡眠を自分の力で確保しようとするあまり、自分の睡眠時間を削っているのに彼は気づいていない。

「父さん、俺もう寝るよ?」
「うん。おやすみ」
「……そうじゃなくて、もう大丈夫だから。ありがと、もう父さんも寝たら」

 相変わらず不安そうに俺の頭を撫で続ける父さんに注意を喚起する。俺に甘い母さんの代わりに、父さんは少し厳しい人だった。仕事も忙しいみたいだったからきちんと話せるのは日勤の夕食くらいで、俺の世話も授業参観もピアノの発表会も、全部してくれたのは母さんだ。二人きりの生活になってからそんな余裕がなくなってきているのか、俺のことは一切叱らないようになったし、むしろ慣れない料理で失敗したり、やっと見つかった仕事から帰ってきたら俺の世話や家のことで休み暇がなく失敗が多い。ごめんと謝ることが多くなった。
 はだけた毛布を俺に掛けなおしながら、本当にもう大丈夫なのかと父さんは聞く。冷たい毛布に俺の体温が伝っていくのが分かる。文字に表せないような生返事をした後、俺は父さんに背を向けた。









 “殺人プロレス”と影で名付けられていたあの行為はあの日を境にぴったりと止んだものの、誰かが俺の味方をしてくれるわけでもなく、俺が一人で行動するのに変わりなかった。井上たちの小さな嫌がらせはそれからもずっと続いて、あのときの言葉の続きが聞けることはもう二度となかった。井上の方も取り巻きに言った雰囲気はなかったし、俺もわざわざ掘り返そうと思わなかった。
 早くここから離れたかった。味方やそばにいてくれる人が欲しいわけなじゃない。ただ、“高槻奏”という人間が意識されないところに行きたかった。住みづらい町に一変したこの場所で、いつまでも静かに周りの人から注目されて生きていくのが苦痛だった。
 物心つくときから俺はピアノを弾いていた。母さんがやらせたがったらしい。アウトドアで野球少年だった父さんは、スポーツ中継を見て、「野球をやらせれば良かった」「ピアノなんて女々しいじゃないか」といつも悔しそうにしていた。だけど俺は結構ピアノを弾くのが好きだった。何でも少しやってみれば人並みにできたし、勉強もピアノも、人間関係だって、あんまり苦労せずにやってきた。自分で「俺は器用な奴なんだなあ」と自負していたほどだった。合唱発表会ではいつも頼まれて伴奏役をした。何より、こういうときに母さんが喜んでくれるのが一番うれしかったのだ。


「え、……伴奏、」
「うん、あの……、難しい曲でさ、なかなか今の伴奏の子じゃ弾けなくってさ。でも、みんなで歌える最後の曲じゃん? 変えたくないんだよね。奏なら、……弾けるかなって思ったんだけど」

 気まずそうに目の前の女子は俺から目を逸らす。右手に握られている指揮棒がかすかに震えていた。

「……弾かない。もう弾けない」
「そんな、困るよ。アンタがやってくれると思って……こっちは……」

 頭下げてやってんのに、と、聞こえたような気がした。彼女から屈辱の表情が伺える。——すごいね、奏。母さんの声が、頭の中で何度も何度も反響した。




Re: Bloom Of Youth's Season ( No.37 )
日時: 2024/12/03 17:11
名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: 4.2P0hz.)

 卒業式の伴奏代打は俺の承諾なしで既に先生たちに報告されていた。指揮者の女子が焦るのも分かる。困るからと必死で懇願されて結局断ることができなかった。同じクラスになったことはないが、合唱部の部員で、俺が伴奏をしていた頃も何回か指揮をしていた女子だった。話をしたこともあるし、名前で呼び合う仲でもあった。思い出そうとすれば彼女の名前はすぐに出てくるのに、頭の中でそれがぼんやりと薄くなっていて、そんな気力もなくなってしまった。強制的に渡された楽譜を見つめながら帰り道を歩く。弾けないというのはあながち嘘ではない。俺のピアノに熱心だった母さんが家からいなくなってから俺はピアノに一切触れていない。あんなに好きだったはずなのに。ピアノを弾くことも、母さんのことも。
 楽譜を読み込んでいるうちに家に到着していて、俺は表札を覆うようにある罵詈雑言の張り紙を一気に剥がした。恒例の作業のようになってきたのだが、最初はいちいち内容を確認してショックを受けていた自分もいた。玄関にも数枚見つけて、勢いよく剥がす。テープの剥がし残しがあったけど気にしなかった。
 ただいま、と声をかけても返事がない。夕方から仕事の父さんはいるはずだった。耳をすますと、父さんのワントーン上がった声がリビングの方から聞こえた。どうやら電話をしているようだった。“殺人プロレス”がなくなったおかげでほとんど傷がない状態で帰ってくる俺を見て、俺に対する嫌がらせがなくなってきていると安心している彼は、最近少し顔色が良くなった。良くも悪くも素直で情に厚い人だから安心した。これ以上俺のことであんまり心配させたくないのだ。張り紙を丸めてゴミ箱に投げ、制服のボタンに手をやる。ちょうど電話を終えた父さんはリビングから出てきて「おかえり」と俺に声をかける。

「ただいま」
「今担任の先生から電話があったぞ。奏、卒業式の最後の曲、伴奏やるんだって?」
「電話きたの? うん……断ったんだけど、楽譜まで渡されちゃったから」
 笑顔の父さんに、渡された楽譜をペラペラと揺らして見せる。
「すごい。難しい曲なんだってな。頑張れよ、奏」

 乱暴に頭を撫でられて髪の毛が跳ね上がる。彼に褒められた自分自身が意外で相当驚いた顔をしていたのか、父さんは恥ずかしそうに眉を寄せて笑った。





 三年に進級したとき、一人でいる俺に話しかけてくれたのが井上だった。明るくて積極的で誰にでも平等に接することができる井上。あのときどうして俺を選んでくれたのかは分からないままだ。数人の友人と可も不可もなく生活していた俺と彼とではその当時あまりにも非対称だった。
 風の便りで、井上は西高校を志願するのだと聞いた。あの頃、二人で一緒に行こうと約束したところ。登校も自転車で数十分のところにあり、偏差値も県内でトップ一を争う高校だ。「一緒に行きたい」と井上が言い出したから一生懸命勉強したのに、途中になったら「制服がダサい」だの「勉強できない」だの文句を言いだしたりして、それからたくさんのことが重なって結局あの約束はどこかへ行ってしまった。
 早く遠くへ行きたい。高校は行った方がいいと父さんや担任にほぼ強制されたので、西高校よりも遠い空宮高校を選んだ。勉強する意味も分からなくなったし、西高校と比べて少しランクの低い高校にした。担任にここがいいのかと何回も確認されたけど、これでいいやと思った。白い進路希望調査のプリントに小さくて質素な“空宮高等学校”の字を見るたびに、俺の黒い未来が見える気がした。


「奏、お前、空宮受けんだろ?」

 その日も進路のことで担任に呼び出されていた。二月に入り、独りでいることに慣れたのはそれより前のことだが、相変わらず夢にうなされる日々が続いていて、俺は若干イライラしていた。クラスメイトの大半は後期入試で受験するのでストレスもあってか、教室全体がピリピリした雰囲気だった。そして発散の標的になったのが俺で、右肩下がりだった嫌がらせの数が倍増した。今まで目をそらしていた奴らが急に俺を見て笑いだす。見ているだけでは足りなくなって手を出して、その快感を知る。そうして戻れなくなる彼らを見て、動物みたいだなあ、なんて呑気なことを思っていた。
 教室に戻ったとき、一人残っていた井上は振り返って驚いた顔をした。彼の机に見えた日誌を見て、しまった、日直だったんだ、とすぐに彼から目をそらす。気まずそうにしたのがバレたのか、井上はわざと変に明るく俺に声をかける。第一志望のことがどうしてバレているのか、考えたけど答えが出てくるはずもなく、そっけなく言葉を返す。

「……それが何?」
「本当に西高来ねえのな」
「うん」
「つーか何故に空宮? 去年うちから誰も行ってねーべ」

 井上が軽く笑う。関係ないだろ、と小さく言葉を吐いて自分の席へ向かう。カバンを取って、早急にこの場からいなくなりたい。

「もう帰んの?」
「うん」
「なんで」
 俺たちの間に亀裂が入っていることなど何にも知らないかのように彼の口はまた笑う。
「……井上も、何で? 何でこうやって俺と話すの? 周りがいないときだけこうやって、……こうやって、どっちの味方もすんなよ、どうしたらいいんだよ、俺」

 動く口が止まらなくて、結局思っていたことを全部言葉にしてしまった。教室のドアがいつもより重い。強引にこじ開けるようにして廊下に出る。全開の窓から入ってくる冬の空気が鼻をツンとさせた。

Re: Bloom Of Youth's Season ( No.38 )
日時: 2017/03/07 23:34
名前: あわきお ◆e0cUq7WYf6 (ID: ybSreilJ)

 後期試験の点数は空宮高校の合格点を優に超えていた。驚いたことに、空宮高校を受験するのは俺だけではなく藍もそうだった。会場である空宮高校の校門でお互いの目が合ったとき、「奏もここ受けるんだね」と彼女は驚いた顔をした。去年も一昨年もうちの中学校からここを受験する人はいないのだから自分だけだと思って当然だろう。もちろん俺もそのつもりで来たのだ。藍はどうだったのだろう。合格点を上回っただろうか。
 自分たちを脅かし続けていた存在がついになくなって、教室の雰囲気は柔らかいものに変わっていく。でも、俺は嫌な存在感はなくならないままだ。本来合唱の伴奏をする生徒に、俺が代打をすることをうまく指示が通っていなかったらしい。そいつは今でも俺に伴奏を取られたと思っている。今更訂正する気にもならないし、言ったって誰も信じてくれないことは予想できている。


「奏、代わってくれてありがとね」

 卒業式前日、最後の合唱練習は比較的平凡に終わった。帰り際の廊下で指揮者の女子に伝えられたそれは、随分そっけなかった。突然のことに、うん、と言葉を発することができなかった。黙ったままでいると、じゃあね、と彼女が背中を向ける。

「……なんか、ごめんね」

 彼女が何に対して謝っているのか分からない。背中を向けたままでいる彼女に、ウン、と上ずった声で返事をする。何が? と聞いても、答えてくれなさそうだったからだ。小さくなっていく彼女の背中を見つめながら、ふと井上のことを思い出す。
 あの日から井上とは一言も言葉を交わしていない。彼も勉強が忙しいのだろう。つるんでいた他の奴らとも距離を置いたように見える。井上は妥協を認めない奴だったから、成績はそこそこ良かったんじゃないかと思う。西高の後期入試はどうだったんだろうか。
 ……そんな思いも、明日で終わる。“空宮高等学校”と書かれた小さな紙きれを思い出す。俺は、忘れることができるだろうか。突然俺の居場所を奪ったこの場所を、この温度を。……許すことが、できるだろうか。




 来なくていいと言ったのに、父さんはわざわざ予定を空けて卒業式に来てくれた。そういえば、父さんが俺の学校行事に来るなんて初めてのことだ。初めての息子の学校行事が中学校の卒業式だなんて、彼はきっと緊張しているだろうか。俺が後ろを向いて目が合ったとき、恥ずかしそうに笑って手を振った父さんに、なんだか笑えてきてしまう。今日は不思議と胸が躍っている。
 係の生徒と先生で作り上げた綺麗な呼びかけはみんなの涙を誘う。楽しかったことばかり並べるのは新手の詐欺だと思うくらいだ。辛くて苦しい地獄のような日々は、誰の口からも語られることはなく卒業式は厳粛に進行されていく。
 最後の合唱の順番だ。指揮者と俺がゆっくり動き出して、定位置につく。彼女とバッチを組むのもこれで最後だ。さよなら、と心の中で呟く。さよなら、ピアノ。もう弾くことはない。
 掲げられた指揮棒を見つめる。一、二、三、四、と作ったリズムをピアノが飾る。みんなの歌声はそれを突き抜ける一本の線だ。あくまで俺は主役じゃない。歌とリズムを引き立たせる。ピアノのそういうところが好きだった。みんなの歌声を聴くと、自然に指が動くし、自分の音色も綺麗になったように聴こえた。
 指揮者が大きく指揮棒を振り上げる。次の瞬間、みんなの歌声が聴こえる——はずだった。

 聴こえない。手元が震える。壇上のみんなを見ると、彼らは平気な顔をしていた。歌ってない。指揮者の彼女を見る。誰よりも、合唱に熱心な人だった。ダラン、と腕が腰まで落ちていく瞬間が目に映る。彼女のリズムがゼロになった。保護者席からざわめきが聞こえる。ポン、と的外れな高音で、ピアノの音も止まる。手が石にように固くなって動かなかった。もう一度指揮台に立つ彼女を見る。俺と目が合った。「ごめん」と口が動く。前日の言葉を思い出した。
 お前の伴奏でなんか誰も歌わないよ、と心の中で誰かが笑った。卒業式だからって安心すんな、と続けて言う。
 父さんはどんな顔をしてるだろう。きっと俺のことを心配しているに違いない。
 どうしていいか分からずにいると、いつの間にか俺の後ろに来た担任に「奏、もう一回弾ける?」と耳打ちされる。どんどん客席のざわめきが大きくなる。

「……もう無理です」

 こんな空気で弾きたくなかった。どうせ俺が弾いたって誰も歌わないことはもう分かっている。
 耐えられないといった風に、指揮者が壇上に戻る。俺も、戻らなきゃ。体中が鉛のように重い。椅子から腰を持ち上げようとすると、固まったままの手のひらに涙が垂れる。いつの間にか俺の世界は歪んでいて、壇上までの道はくねくねと曲がっていた。その先にあるみんなの目は知らない人のものみたいだった。
 ふと鍵盤に目をやる。俺の世界はもう歪んでいるのに、それだけは輪郭も面影もはっきりと見えた。「弾け」と言われているようだった。誰かに操られているかのように鍵盤に手を置く。担任が後ろから何か言っていたが気にならない。周囲のざわめきがゼロになる。今の俺には何もない。

 弾き出したメロディーには聞き覚えがある。こんなに柔らかく指が動かせるのは、きっと俺がいつか練習した曲なのだろう。自由に動き回る十本の指が作り出すメロディーは俺が今まで聞いてきたどの音楽よりも綺麗だった。曲名が思い出せない。覚えているのは、色褪せた拍手の音だけだ。誰の拍手だったかもよく思い出せないのに、涙が溢れる。悲しみでも怒りでもない感情が指にまとわりつく。それを取り払いたくて、鍵盤を叩くようにして弾いた。柔らかなところから真っ暗な奈落の底に音が落ちていく。
 気づいたら鍵盤さえも見えなくなっていた。涙が瞳から千切れて頬を伝う。


——すごいね、奏。


 頭の中に、いるはずもない母さんの声が聞こえた。ぼわん、と反響したその言葉に、思わず指が止まる。
 俺はずっとこの言葉をかけてもらいたかったような気がする。こんなことになっても、俺はまだ母さんのことが好きだ。
 もう着ることのない制服の袖で涙を拭う。自ら指を動かし始める。弾かなきゃいけないと思った。……さよなら、ピアノ。もう弾くことは、ない。ピアノの音にかき消されながらそう呟くと、周りの感覚が一気に俺の体に飛び込んでくる。担任が何度も俺の肩を揺すっている。父さんが俺の後ろで必死に声をかけている。
 思い出した、この曲の名前。涙が溢れて止まらない。ずっと、この曲を母さんのために弾いてあげたかった。別れの曲。それは、長くて苦しい懺悔のような道との別れだった。