複雑・ファジー小説
- Re: (合作)闇に嘯く 2−17執筆中 ( No.53 )
- 日時: 2017/08/21 00:28
- 名前: ダモクレイトス ◆MGHRd/ALSk (ID: 0RpeXsSX)
「やれやれ、大きくなっても相変わらずの弱虫みたいだな」
目の前の光景は現実ではない、ということは理解している。胡蝶の夢のように、淡い幻想だ。触れれば殴られたガラス細工のように、砕け散るだろう。だが、潮にはそれを嘘だと否定することはできない。黒の空間に浮かぶ彼らの色と姿が、リアルすぎるのだ。父が語る言葉1つ1つが胸に響く。しゃがれた、年輪を感じさせる熟成された声は、彼の記憶にこびり付く父のもののままで。
頼りないコルク栓でせき止めていた、寂寥感の濁流が体中を駆け巡り肌を震わす。在りし日の風景が脳内に浮かぶ。6歳だったガキの頃、田んぼの畦道で駆けっこをして、田んぼへと転がり落ち泥だらけになって、畑仕事をしていた老婆に助けられ、自宅へ上げてもらい暖まで取らせてもらったとき。近所の子供同士で集まって野球をして、岸辺家の硝子を割ってひどく怒られた記憶。あれは9歳位だったろうか。
「しても、ほんに成長したのう、横顔など現役の陰陽師だった時の父上そっくりじゃぞ」
「俺なんてまだまだですよ岸辺のじっちゃん……」
脛まで届きそうな長い白髭を蓄えた老人の声に、潮は恥ずかしそうに答える。確かに言われてみれば、最近誰かにもそんなことを言われた記憶があったが、むず痒い。父はと言えば、陰陽連でも上層まで至り、華々しい戦歴もある人物だ。今の実績に乏しい自分とは雲泥の差があると、彼個人は冷静に分析している。
「栗谷のお団子を物欲しそうに見ていたおぼっちゃんがねぇえ。正規の陰陽師として戦っているなんて、嬉しいことだよ!」
「ちょっと、恥ずかしいこと思い出させないでくれよなっ」
恰幅のいい豪快そうな栗谷夫人の声に、昔のことを思い出し顔をしかめる潮。思えば恥ずかしいことばかりだった。肝試しでお化けが怖いと一歩も動けなくなって、母におぶられて家に帰ったこと。チャンバラごっこでは年下の弟に、いつも勝たせてもらっていたり、貧乏の子供でもないのに、すぐに卑しく涎を垂らす。思い起こせばキリがない。
「潮ってばよぉ、俺のバッドぱくってさぁ」
「ぼっちゃんはそれはもう、腕白だったのですが今では随分落ち着いたようですな」
「潮殿、ちゃんと掃除はできていますかな? 昔から潮殿は整理整頓が苦手で」
久しく再開した者たちに掛けられる、取り留めもない言葉。まるで過去に戻って、理想の未来を歩み始めているような感覚が、去来し潮は微苦笑を浮かべた。こんな風に自然な雰囲気で、目の前にいる者達と取り留めのない触合いをしたいと何度願ったことか。
「潮お兄ちゃん、泣いてるの?」
自分より頭二つ分小さい、整えられた髪型の優し気な少年。眼尻の辺りや鼻筋が自分によく似ている。弟、凪だ。潮は突然の言葉にしばしの間、茫然とするが表情を取り繕う。
「なぁ、凪。嬉し涙って奴もあるんだよ」
「じゃぁ、何で喜んでいるの?」
「そりゃぁ、お前。皆に会えたからさ」
穏やかな口調で、凪の質問に答えていく。それと同時に、何か背中をぞわりと這うような感覚が襲う。
「僕たちは皆死んじゃっているんだよ? 8年も前に……こんな偽りに現を抜かしている場合じゃないんだよ」
「凪。何を」
不安の感覚が、現実として脳内に浮かぶ。当然の帰結だ。彼らは本当は当の昔に死んでいる。おそらくは自らの中にある記憶を使い呼び起こした幻ではなく、何らかの術を使い顕現させた地縛霊の類だろう。
できる限り言動や行動を強制しなかったのだとしたら、大人が大半である住民を考えれば、怨嗟の叫びを上げることもないと考えられる。しかし精神的に未熟であり、実の弟でもある凪がそうとは限らない。
「こんな泥沼に足を救われて、永遠の牢獄を僕達と彷徨う!? 駄目だよ潮お兄ちゃん、死者と生者は交わるべきじゃないって、里の皆なら知っているよね……お兄ちゃんは何を思って生きているの?」
喧嘩で負けを譲って上げるほど理性の利く、優しい弟が冷静を失い捲し立てる。彼の言うことは正しい。この手の幻術は牢獄を意味する。情に絆(ほだ)され、その手を握ったり優しさに溺れれば、感情の糸に絡まり抜け出せなくなるのだ。
「……なぁ、凪。お兄ちゃんな。最低な兄貴なんだ」
「潮、お兄ちゃん? どういうこと?」
唇を千切れるほどに強く、噛みしめる。拳を巌が如く握りしめ鋭い息を吐く。そして潮は訥々と喋りだす。周りの者たちは何れこうなるだろうとわかっていたのか、冷静な風情だ。正直、潮としては助かる。当惑する弟を見据えながら、潮は口を動かす。
「俺はただ憎しみで今まで生きてきたんだ。だから、悪党の甘言に騙されて、こんなところまで迷い込んじまったんだなぁ。それなりに陰陽師として経験も積んで、大体のことは1人乗り切れるなんて思いあがってたんだ……」
瞼が熱い。涙が伝っているのが分かる。知識も経験も足りない愚者が、自分を過大評価して歩を進めた結果がこれだ。もし冷静な判断力があれば、そもそも話の起点からして、潮個人で逃走などできるような物ではないと分かる。何せ情報を提示した相手が四天王の一角である、檜扇祝幻だったのだから。
そして案の定、対象と接触した瞬間、格上だと理解した。とはいえ、対象が1人なら油断を誘い、逃走も可能だったろう。実際、接触した者以外の、協力者はそれなりに遠くで呪術を発動させようとしていたのだから。目の前の対象に集中しすぎる潮1人だったからこそ、正常な判断もできず相手の誘いに乗り惨敗。仲間も信じず嘘をついて、1人でノコノコと所定の場所に訪れた愚鈍さを呪う。
「潮お兄ちゃん? 何で泣くの? お兄ちゃんは正しい判断をしたと思うよ? もしお兄ちゃんと立場が逆だったら、僕だって復讐を誓うし、行き詰っていたら誘惑に手を伸ばしてしまう。そして、それが怪しいものだと分っていたら、仲間の手なんて借りないよ」
物分かりが悪すぎる、凪の言葉に潮は瞠目する。昔から聡明な子供だったが、魂だけの体となってから、色々なことを考えてまた成長したのだろうか。何せ、地縛霊は眠ることはなく、その場にとどまり続ける故。できることと言えば、思考の海に溺れるか、生前を悔い泣き叫ぶかが大半だ。しかし逆を言えば、それだけ長い間、陰陽師の浄化を受けることができず、怨嗟に身を窶(やつ)してきたということだ。
「潮よ。迷いに満ちた目を、儂が見抜けぬはずもなかろう。行き詰っていたのは分かっておる。お主が標的と見定めた相手は、この陽明京において4体しか存在しない最強の力達だ。正攻法ではどれほど修行をしても敵わぬだろう。それこそ優秀な仲間を何人持ったところで、決め手に欠ける」
世界。それは陽明京において、最大級の力を持った怪異が一角。陰陽連が妖怪の駆逐という行動に出ることを、躊躇わす楔のような存在。その力は巨大で、彼らの攻撃は街を廃墟と化し、その足は、10里を一瞬で駆ける。摩訶不思議な妖術を駆使し、彼らにはこちらの攻撃は通じないとすらされる生ける伝説。
もし彼らの一角を討伐するとしたら、陰陽頭と四天王を中心に、精鋭で固めた大隊を編成し、それでなお十全に準備を整えねばならないだろう。つまり如何に足掻いても通常の陰陽師の身では、勝つのは不可能。1人で挑むなど愚の骨頂。何せ通常の攻撃など当てることすらままならないのに、命中してもほぼ無効なのだから。
「父上、如何に俺とてそれ位のことは分かっているのです」
「ふっ、そんなことは此方も承知だ。お主は我が息子ゆえか、思い立ったら一直線の阿呆だが、自分の実力を履き違える奴ではないからな」
父の言葉に潮は歯噛みする。自分の能力を正確に計れるなら、復讐の道になど手を染めていないはずだ。分別もつかない少年時代に覚悟したことゆえ、百歩譲ってそれは無効として、千里達所か復讐の協力を受諾している都子にも、内緒で敵地に向かうのは擁護のしようがない愚かさだ。如何に心優しい弟がそれを否定しても、それが大半の人間から見た事実だと思う。
「湊(みなと)様。すみません。私から潮に言いたいことがあるのです」
「百合、そのように改まる必要はないだろう? 存分に話すが良い」
父、湊の横をかき分けるようにして、百合と呼ばれた女性が現れる。手入れのされた射干玉の長髪が特徴的な、痩身の儚げな雰囲気を漂わせる美女だ。昔と変わらぬ優しい瞳に潮は吸い込まれ茫然とする。
出雲の民達の中に、母の姿を見なかったから、彼女は実は生きているのではないか、などという他愛無い夢想に浸っていたから故なのだが。優美な所作で潮の前に立つ、女性を見て僅かに表情を歪ます。
「分かっています。復讐の道にその体を窶(やつ)し、辛かったことでしょう? それでも貴方は私達へのせめての手向けとして戦ってきたのですね……でも、もう良いのです。我々は世界への復讐など望んでいません。我々が願うのは、貴方が過去の妄執から解き放たれて、自らの幸せを掴むことですから」
聖母のように優しい言葉が身に染みる。偽りのない本心なのだろう。彼女は嘘をつくと、眼尻が少し上気するので、分かるのだ。恐らくは長い年月で、世界への恨みも風化したのか。それか最初から死を受け入れていたのかも知れない。後者だとしたら、地縛霊として長い年月をここにいたことを考えると、」後者が正しいのだろうか。
柵を断ち切り、自分達のことは忘れて暮らす。それは潮自身も何度か食指を伸ばした選択肢だ。生き延びてしまったことからの後悔と、親しい人達の鎮魂が根底にあり、彼等自身が望んでいないのら、意味のないことだとも考えた。
そう、優しい許しを受ければ、自分の復讐心は容易く風化して砕け散るのだろう、と。しかし、結果は違ったようだ。一瞬揺らぎこそしたが、その根幹は折れず覚悟の樹はまた直立し天を突きさす。
『あぁ、分かった。いつの間にか、いや最初からか。俺は、皆の為なんて謳って、自分自身を正当化していただけなんだ』
「母上、有難きお言葉ですが、結局俺は……」
自分は結局、地獄の業火より煮えたぎる強烈な復讐心という感情を、抑えきれなかったのだ。制御不能のそれは、幾ら正論の微温湯(ぬるまゆ)で消火しようとも、すぐに薄皮のような壁を突き破り再燃する。
身勝手な覚悟だ。しかし、凝り固まったそれはそう簡単に砕けない。なぜなら、それ自体が自らが安寧を得る唯一の方法だと、心の底から誤認しているから。潮がその本音を口にしようとした時。
母と彼の間に何かが落ちた。
それなりに大きな物だ。鈍い音から中身のある空洞ではない物だと判断できる。しかし、周りを見ましても、この殺風景な空間にはそれに該当するものはない。いや、正確にはそれを想像したくない。物はないが、人はあるということを。
「ヒッ! みっ、湊さん!?」
しかし、現実を無視することなどできない。眼前にある物。それは人体の一部。より正確に言えば頭部だ。そう、百合が言う通り、潮の父に当たる人物の首。
「うわああぁぁぁぁぁぁっ! 当主様あぁぁぁぁっ!?」
「どういうことだっ!? 一体誰がっ!」
「やだっ! 血っ、血が掛かっちゃった! 怖いっ、逃げないと!」
蜂の巣をつついたような大混乱が起こった。当然だ。湊の首を刎(は)ねた犯人はこの中に居る。誰もがそう判断するだろう。既に事切れた湊の前にいるのは百合と潮のみ。湊の後ろは人垣で埋められているのだから。
一度死んで魂だけとなった身の彼等は、成仏以外で魂を焼失すれば、二度と輪廻転生の輪に入ることができない。魂の本能から皆がそれを厭(いと)う。ある者は怒声を上げ、老人や子供と言った弱い物を吹き飛ばしながら進む。ある者は混乱の最中足を縺(もつ)れさせ倒れ込み、逃げ惑う人々に踏みつぶされ、絶命する。阿鼻叫喚の有様。
「潮っ! 逃げなさい!」
「母上っ!」
血飛沫が舞う。混乱に喘ぐ人々を問答無用で切り裂く何かが居る。それは確実に潮へと近づいているようだ。助けに行こうにも相手の姿も見えず、混乱が酷過ぎるため手の出しようがない。そもそも、戦闘用の武器や符がないのに、あれ程の速さで人を斬る化物と遣り合うのは無謀だ。
「潮お兄ちゃん! ゴメンッ! こんな酷い事になっちゃって」
「何言ってるんだ、酷い目に合ってるのは皆だろう」
そう言いながら凪が近づいてくる。逃げ惑う人に当て身をして少しでも混乱を緩和し、犠牲を減らそうとしていたようだ。父の死や斬られる知人の姿を見たのに、動揺は少ない。やはり冷静だと潮は思う。そんな凪の功労あってか、相手の姿がチラリと目に映った。
「あれは……あいつは!」
一時も忘れたことはない男だ。紅い衣に身を纏った野生的な顔立ちの偉丈夫。黒の世界に青の長髪が目立つ。忘れようのない、怨敵。
「世界ッッッッッ!」
仇の名を、彼はこれ以上ない大声で叫ぶ。