複雑・ファジー小説
- Re: そして蝋燭は消えた。【短編集】 ( No.13 )
- 日時: 2015/05/21 17:48
- 名前: 橘ゆづ ◆1FiohFISAk (ID: IqVXZA8s)
(13)心傷の靴
青年視点。
「ねぇ、絶頂に達する直前の、君の顔が好きだよ。」
教会を一歩出た途端、彼女は出し抜けにそんなことを言った。
「だから私は君にご奉仕している訳ではなくて、自己満足でしているの。」
完璧な弧を描く彼女の唇。僕は瞬間的に頬が熱くなるのを感じた。
「何なの、突然。こんなところでそういうことを言うなよ。」
僕が文句を言うのを、彼女はひときわ楽しそうににこにこと眺めている。その理不尽さについ、言葉じりが弱くなる。
「ミサが終わったら、真っ先に背徳的なことを言ってやろうと思ってたの。」
歌うように彼女が言うそれは、まるで「朝食が終わったら、コーヒーを飲もうと思ってたの」と言うのと同じくらいの軽さと自然さがあった。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン。
並んで歩く僕らを、教会の鐘の音が追いかける。
どんよりした灰色の空は、僕らの足音を乾かして吸い込む。
「一体、なぜ?」
「赤い靴を、履いてきたから。」
彼女が軽くステップするように、僕の前へ進み出てくるりと振り返る。
教会の守衛が声をかけると、靴はひとりでに踊り出します。
それが僕の問いかけへの答えとして用意されたものなのか、もともと彼女自身の中に秩序としてあったものなのか、僕には判別がつかなかった。
彼女の真意がつかめないまま、僕らは歩みを進める。
「ねぇ、カーレンはなぜ、教会に赤い靴を履いて行ったんだと思う?」
「さぁ、僕にはわからない」
僕が心の中に連想したものを読み取られたようで、一瞬どきりとした。でも、『赤い靴』の主人公の名前がカーレンだったか、確かめる術もない。それ以上に、先ほどの彼女の発言とアンデルセン童話にどのようなつながりがあるのか、さっぱりわからなかった。
僕の怪訝な顔に満足したのか、彼女は問いかけを回収することなく鼻歌まじりに歩いていく。
いつの間にか降り出した粉雪が、彼女の長い栗色の髪に絡まってにわかに水玉模様を作り出す。
しかしそれは一瞬のうちに、融けて消えてしまった。
きっと、さっきの答えは永遠に得られないのだ。
「ねぇ」
突然、彼女が振り返る。
淡く微笑んだ瞳で。
ねぇ、と吐き出した白い息が、空中にふわりと浮かび上がって消えた。
「あの角を曲がったら、結婚しよう」
僕はがくりと肩を落とす。脈絡がないにもほどがある。
「一体、それは何なんだ」
「君を拘束するのに、神様への誓いが必要?」
僕のついたため息は、重力に負けて見えなくなった。
「今ミサに出たばかりだよ」
「いつもそうやってはぐらかすのね」
彼女は三歩ほど後ろ向きに歩いた後、またくるりと前を向いた。
トレンチコートの裾が、ひらりと雪を掻きまわす。
粉雪が地面に作り出した水玉模様は、今度は消えずにしみを拡げていく。
はぐらかす? 僕が?
彼女の基準は、いつも僕にはわからない。
「ねぇ」
彼女は、今度は振り返らなかった。
ヒールがぽくぽくと、ゆったりしたリズムを刻む。
「君は」
ぽく、ぽく、ぽく。
「私を置いて行かないでね」
ぽく。
彼女は僕に背を向けたまま、わずかにうつむいた。
──首切り役人に切られた脚は、赤い靴を履いたまま、踊りながらどこかへ行ってしまいました──
僕と彼女の間を、白い雪が横切っていく。
彼女が空中に放った声は、小さいながらも僕の心臓に突き刺さったが、それでもやはり空に吸い込まれて行ってしまった。
消えるものと、消えないものと。
僕は大股で歩を進め、彼女を抜き去る。
「あなたと一緒にいるのに、誓いが必要かな?」
振り返って見た彼女の瞳は、迷わず僕をとらえていた。
唇からかすかに息がもれ、言葉ではない回答をつむぐ。
僕と彼女の間を、相変わらず白い雪が横切っていく。
「ねぇ」
彼女の唇が、再び完璧な弧を描く。
彼女の瞳が、哀しい色に染まる。
僕はその表情に、一瞬はっとした。
「このまま、どこかに行っちゃおうか」
聖者になれない彼女が、透明な微笑みで発したそれは、いとも簡単に、そして鮮やかに、僕の心を絡め取った。
僕は無言で彼女の手を取り、ポケットに入れた。
(心傷の靴)
end。