複雑・ファジー小説
- Re: 白語り ( No.8 )
- 日時: 2015/06/17 15:34
- 名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: CEzLXaxW)
昇降口へ続く廊下はさっきまでとは打って変わって混雑していた。
どうやら千里が先生達を眺めている間にほとんどのクラスでホームルームが終わっていたらしい。下校する生徒や部活に行く生徒達が昇降口へと一斉に吸い込まれてゆく。
「…………」
それを見た千里はなぜかすぐに踵を返し、クセっ毛のひどいセミロングの髪を振り乱しながら昇降口とは逆方向に駆け出した。
「この大空にぃ……翼を広げ、飛んで行きた……よ〜」
逆方向に向かいながら千里はまた歌い始める。
ところがさっきとは打って変わってすぐに息が続かなくなり、千里は何度も息継ぎをしながら走り続けた。
「悲しみ……無い、自由な空へ〜」
歩くスピードが徐々に早くなる。心拍数が上昇する。
だがそれより胸の奥にある不快感が千里を悩ませた。
「翼は、め……か、せぇ〜」
何か後ろから追いかけられているような、止まった瞬間に飲み込まれてしまうような、そんな焦燥感に駆られ、千里は理由も分からず歩き続けた。
歩かないと、進まないと……自分が壊れてしまうような気がして、自分を見ては避ける通行人を無視してひたすらに進み、歌う。
「行きたい〜」
しかし、そんな通行人の1人である男子生徒の声を——歌声を聞いた瞬間。
千里はビクンと体を振るわせ、その場に停止した。
「……な〜んてな」
男子生徒はその反応を見てにやりと笑うと、
千里の正面まで歩み寄り、右手をめんどくさそうに上げてこう言った。
「よぉ白凪! 元気だったか?」
——が、千里は目の前の男子を邪険に振り払う。
「和人、邪魔……」
「な、ちょ……会ったそばからその対応はねぇだろ、おい!」
それを引き止めようと、和人(かずと)と呼ばれた男子生徒は千里の肩に手を伸ばすが、まるでそれを予知していたかのような速さで千里に手を払われた。
「おい、待てって!」
それでも諦めずに千里に声をかける通りすがりの男子生徒こと、和人(かずと)。
すると千里は少し立ち止り、ふてくされた様子で言い放った。
「……キコエナイ」
「はぁあ?」
何が!? というか子供かっ!
そんな言葉が口からこぼれそうになった和人だったが、それよりも早く千里が口を開く。
「人の歌、横取りした人の声なんて、キコエナイ……」
不満そうな表情で、低い声を発する千里。それを見て大体のことを察した和人は「あぁ……」と大きなため息を吐いた後、自分の短い髪を掻き回しながら言った。
「はい、はい。そっか〜先に歌っちゃダメだったか〜」
「……ん」
それを聞いた千里は仕方ないとばかりに和人の方を向く。
それから、ちょっと申し訳なさそうに「もしかして分からなかった?」と和人を見上げた。
「あぁ、単細胞の俺じゃ身勝手なお前ルールはよく分からなかったわ〜あっはっはっは〜」
照れ隠しなのか、そうでないのか。千里の視線から目を逸らし、大袈裟な笑い声を上げる和人。それを見た千里がまた眉を吊り上げた。
「……それ、もしかしてバカにしてる?」
「さぁ〜? どうだかな」
しかし和人は——千里のたった一人の親友は、仕返しとばかりにそっぽを向き、にやにやと笑いながらそんな千里を煽る。そんな感じでいつもの挨拶を終えた二人は廊下のド真ん中に立ち、周囲から浴びせられている軽蔑の目も全く気にせず談笑し始めた。
- Re: 白語り 〜瑠璃〜 ( No.9 )
- 日時: 2015/06/14 21:26
- 名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: nVQa3qMq)
いつから知り合ったのか、どこで仲良くなったのか、そんなことはお互いどうでもいいし、覚えていない。
単純に楽しいから一緒にいる。ただそれだけの理由で今日も話が弾んで行き、その最中、和人がこんなことを言い出した。
「でさぁ、俺のクラスで理科の試験対策プリント出たんだけど全く分かんねぇんだよ〜。教えてくれぃ、白凪!」
そう言ってどこからか取り出したプリントを差し出す和人。
人にものを頼んでおいてなぜハイテンションなのかは謎だが、いつものことなのか千里は真顔でそれを受け取り、内容に目を通してから呟いた。
「ん……分かった。分かる範囲でなら……」
「おぉ! そっか、サンキュー」
そうして千里は「ここなんだけどさぁ」と和人が読み上げる問題を目で追ってゆく。
「え〜っと、問3。二酸化炭素中で物を燃やすことは可能か? また、可能であるなら燃焼させる物質の名称を答えなさい……だとよ」
「可能。2Mg+CO2→2MgO+C……。マグネシウムを二酸化炭素中で燃焼させると酸化マグネシウムに……二酸化炭素は還元されて炭素に、なる」
眠たそうな声で、即座にそう回答する千里。
「……相変わらず理科はすげぇな」
知り合った仲とはいえさすがに驚いたのか、和人は問題を読むのを止め千里に向き直る。
「ううん……計算できないから物理系は、無理」
が、やはり何食わぬ顔でそう言う千里。
「…………」
その態度に少し腹が立ったものの、
物理系が一体どこの分野なのか分からない和人は無言のまま問題の音読に戻る。
「……問5 原子を構成している粒子を答えよ」
「電子、陽子、中性子。通常の原子であれば同数ずつ存在……」
「問8 太陽の中心温度は何℃か?」
「約1600万℃ 主に水素からヘリウムへの核融合により発熱」
「問11 皆既日食において、太陽が完全に隠れる前後に発生する現象の名称を答えよ」
「ダイヤモンドリング……内部コロナが——」「よし、分からんっ!」
何かを悟ったようにプリントを引っ込め、
勝手にうなずく富山和人、14歳。
コイツハトクベツナンダーキットソウダー。と謎の呪文を唱えた後、一部では爽やかだと評判の笑顔に明らかな怒りを乗せて、忌まわしい天才へと向き直った。
「まぁ赤点ギリギリのラインまで理解してたしいいかぁ……。って白凪?」
するとそこには先ほどしぼめたはずの頬をまた膨らまし、見るからに不機嫌そうな千里がいた。
「和人……ずるい。私も問題出す」
「え? いや、何が?」
訳が分からずそう突っ込む和人。
だが声が全く聞こえていないのか、千里は「うーんとね、うーんと」としばらく何かを考え、その後何かを閃いたのか「あっ、そーだ!」嬉しそうな顔で和人にこう問いかけた。
「問12 私は試験日が苦手……。何でだろう?」
——もはや問いではなく人生相談だった。
そのあまりの意味不明さに思わず「はぁ?」と言いかけた和人だったが、ふと思い当たるふしがあり、それをそのまま口に出してみた。
「あ〜多分 試験がお昼ごろに終わるのに給食が出ないからだろ? お前試験があるたびにお腹すいたって言ってるもんな」
その瞬間、千里が目を丸くする。
「正解……まさか当たるとは思わなかった……」
いつもぼんやりしている千里のめずらしい顔に優越感覚えたのか、それを見た和人は「ふふ〜ん」と胸を張る。
「やっぱりか。……というかお前、いつもおにぎり持って来てるだろ」
「試験終わる前に全部食べる、から」
「……それでお腹が空くお前の構造を知りたい所だが、それより俺からもう1つだけ別の質問していいか?」
そう言いながら、ニカッと笑う和人。
その態度に何か不快なものを感じ取ったのか、千里はあからさまに嫌そうな顔をする。
「ぇ……私、もう帰りたいのに……」
「まぁ、まぁ、そう言うなって。すぐ終わる」
「……分かった。ちょっとだけだよ?」
「んじゃ、問13だ」
——問13。
「何があった? 白凪」
- Re: 白語り 〜瑠璃〜 ( No.10 )
- 日時: 2015/06/26 21:47
- 名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)
ついさっきまで楽しそうに話していたというのに、その質問を口にした瞬間、その場の空気が凍り付いた。
和人は冷や汗を流しながら笑い、千里は必死に表情を消しながら黙る。
そんなどうしようもない時間がしばらく続いたあと、最初に言葉を発したのは質問された千里だった。
「質問の意味……。分からない」
なんの話? と言わんばかりに一切の感情を排除した冷たい声で威圧する千里。
が、和人はそれに臆(おく)することなく言う。
「とぼけんなよ……」
「……とぼけてない」
千里が表情を消しながら負けじと言い返す。
「何があった?」「何もない」
「お前にしては焦ってんな?」「焦ってない……」
「……言えないのか?」「言えなくない……」
反論が反論をよび、意味のない言い争いを続ける2人。
将棋であれば千日手と判断されそうな言い合いの最中、しかし和人は唐突ににやりと笑った。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃな……」
言った瞬間「ぁ……」とその発言の意味と和人の罠に気付き、声を漏らす千里。
必死にごまかそうとするも「ほら、やっぱり動揺してんじゃねぇか……」と目の前の友人に諭され、そのまま沈黙する。
「すねるなよ白凪……『あんな顔』して歩いてたくせに分からないわけねぇだろ?」
もう観念しろよ。そう言いながら千里の頭を撫でる和人。千里はその手を払おうとするも、張り合うこと自体が馬鹿らしくなったのか、そっと体の力を抜き、和人のなすがままに頭をぐわんぐわんと揺らす。
「で……何かがあったんだ?」
和人もそれを気配で察したのか、もう一度千里に問いかける。
千里は数秒間、撫でられている感覚を味わうように沈黙した後、こう語った。
「和人は……私と話してて平気?」
うつむきがちに、まるで母親に叱られた子供のように縮こまる千里。
「みんなね……私と話すと嫌な顔したり、泣き出したりする」
「……そうか」
そんな千里の気持ちを、和人は自分なりに解釈しうなずく。
するとその反応を見て少し警戒心が薄れたのか、千里はさっきよりも大きな声で続きを語った。
「分からない……何でそんな顔するのか、分からない……」
小さい頃から、人と付き合うのが苦手だと言われてきた。でも自分はそんなこと気にしなかった。
最初からみんな友達で、みんな仲間。それが当たり前だと思ってたのに……。この頃なんかおかしいの……。
「…………」
言いたいことは出てくるのに、言葉にできない。
そんな千里の——親友のことを知っている和人はその言葉をただじっと聞いた。
「私が悪いのかなって思うけど……。でも、何でか分からないから、どうしたらいいか分からないよ……」
「お前は悪くねぇよ……。きっと相手もお前が急に話しかけて来て驚いてるだけだ」
千里の悲痛な声を聞いた和人はつい条件反射でそう答える。
するとその解答が理解できないのか、千里は首を傾げた。
「何でビックリするの……? 私、ビックリしないよ? みんな友達だから」
- Re: 白語り 〜瑠璃〜 ( No.11 )
- 日時: 2015/06/28 21:34
- 名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)
「は……?」
あまりのことに思考が停止して数秒後、「あぁ、そう来たか……」と目の前に居る脳内お花畑女子には全く分からないストレスを背負う14歳男子。
それでもなんとか千里の力になろうともう一度顔を上げ、嘆息しながらもきちんと説明した。
「……まぁ、お前にとっては周りにいる人間は親友同然なのかも知れねぇけど、もしかしたら相手はそう思ってないかも知れねぇだろ? 知らない人間から話しかけられると死ぬほど驚く奴らもいるんだよ……」
「うーん……よく分かんない」
「まぁ、とにかく今度から人に話しかける時は合図しろ。肩叩くとか、机叩くとか——」
「そしたら、嫌な顔されない……?」
和人に頭を撫でられ飼い猫のように丸くなっていた千里が涙声で尋ねる。
それに和人は持ち前の笑顔で答えた。
「あ……あぁ。俺情報だから適当だけど、2、3人は普通に話してくれると思うぞ?」
「そっかぁ……」
安心したようにそう呟くと、泣いていたのか目の端を擦りながら顔を上げる千里。そうしてそのまま、にへらぁとあどけない笑みを浮かべながら和人を凝視した。
「ありがと……和人」
「ぇ? いや……ぁ、うん」
ヤバい。
千里の笑顔を見た瞬間、和人は直感でそう感じた。
直ちに回避しなければ、直撃だけは避けなければと本能が叫んだ。
そう……たしかにこの2人は友達というよりも腐れ縁で、ただ嫌われ者同士で集まっただけの関係であることは間違いない。違いないのだ——が、
何かと疎い(うとい)千里に比べ、和人(中3童貞)は中学生にもなって男女で親しげに話すこの行為に対して、何も感じないわけではなかったのだ。
普段は腐れ縁として、親友としての顔を維持しているが……。
こんな……こんな純粋無垢な笑顔がもし眼球にでも直撃しようものなら、数秒ももたずに理性(童貞)が吹き飛ばされ、公衆の面前であろうと1時間近く千里を抱き締め続ける自覚が、和人にはあった。
けれども、いやだからこそ色々と(倫理的に)危ないと判断した和人は、一瞬見えた笑顔を脳内超高性能カメラ(美化機能付き)に永久保存したのを確認した後、ゆっくりと千里から目を逸らす。
「じゃ、じゃぁ俺このあとオカルト研の集会あっから、また明日な〜」
そして脳内でさっきの光景を思い返しながら、適当な理由をつけて千里の前から逃走した。
「ん。……ばぃばい」
そんな事情を全く知らない千里は呼応するように手を振ると、踵を返して昇降口へ戻って行く。
「……♪」
その足取りは、言うまでもなく軽くなっていた。
- Re: 白語り 〜瑠璃〜 ( No.12 )
- 日時: 2015/07/03 21:37
- 名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: Ib5HX0ru)
学校から徒歩30分の場所にあるリサイクルショップ。二階が住居になっているそのお店が、千里が今お世話になっている父方の祖父母の家だった。
千里はもはや見飽きるほどに見てしまったその古い建物の扉を開く、
すると店番をしていたおばあちゃんが出迎えてくれた。
「あら、おかえりぃ千里ちゃん。学校、どうだった?」
白い髪を後ろで丸く纏めたお団子ヘアーで、ちょこんとレジに座っているおばあちゃん。
「ん……! 楽しかった!」
そんなこの店の主に対して、千里はただいまの代わりにそう言うと、置いてある古い扇風機やラジオを倒さないよう注意しながらおばあちゃんに駆け寄る。
「そうかい、そうかい……」
千里の祖母はそれを愛おしそうに眺めた後、ゆっくりと頷くと少し表情を曇らせた。
「この頃大人のくせにお前のことを悪く言う輩がいるからねぇ……。まぁお前にも否がなくはないんだろうけど、嫌なことを言われたらすぐばぁちゃんに言うんだよ……?」
そういえばそんなことあったけ? と、おばあちゃんの言葉で今日あった出来事を思い出す千里。しかしすぐに和人の顔が浮かんで満足したので、何も言わずに頷いた。
「うん……っ、分かった。ありがとうおばあちゃん」
それに何を感じたのかは定かではないが、孫の表情に一片の曇りを見出したのか千里の祖母は「よいっ、しょ」と座っていた椅子から立ち上がると、笑顔を浮かべながら言った。
「手ぇ洗っといで。台所におやつ出しとくから……」
お客さんと共用の一階にある洗面所及びトイレを指さしながら、二階へと上がろうとするおばあちゃん。しかしすぐに千里はそれを制止した。
「いい……おばあちゃん今店番してるんでしょ? 私それぐらいできるし、ついでに洗い物があるなら洗う……」
「…………」
が、なぜかおばあちゃんは千里の善意に一瞬だけ顔をしかめた。
否、しかめたというより何かひどく悲しそうな顔をしたのだが、
それも一瞬だけで、またにっこりと笑顔を浮かべた後、
「あぁ、そうかい。んじゃ、孫の言葉に甘えてばぁさんはゆっくりするとするかねぇ」
と、またレジの前に備え付けられた椅子に座った。
「ん、まかせて」
対して千里もまた自信ありげな笑顔を浮かべると、まずは洗面所へ向かい手を洗う。
食いしん坊なりにこういう食中毒対策はきちんとやる方なのだ。
それからおばあちゃんの後ろを通って、レジ裏にある階段を「トントン」と上り2階へ移動すると、迷わず、一切の躊躇無く台所に飛び込んだ。
——瞬間、揚げたてドーナツの香ばしい匂いが千里を包む。
「……ん」
それを受けて千里は軽く目眩すら覚えながらすぐさま席に着き「いただきます」と両手を合わせたのち、ドーナツにかぶりついた。
「ん〜……」
やっぱりおばあちゃんのドーナツは美味しい、そんな心の中の叫びが声にならない声となって口から漏れ出す。しかしその声すら次のドーナツごと飲み込み、千里はあっという間にドーナツ10個を平らげた。
- Re: 白語り 〜瑠璃〜 ( No.13 )
- 日時: 2015/09/20 19:37
- 名前: 猫又 ◆yzzTEyIQ1. (ID: IHxLpbu0)
「んまい……おなかいっぱいっ」
幸せそうにそうつぶやくと、千里はドーナツが入っていたお皿を名残惜しそうに抱え、一瞬、付いている油を舐め取ろうかと考えるが、いくらなんでもはしたないのでそのまま流し台に向かう。
案の定、そこにはいくつか洗っていない食器が置かれていた。
祖父は千里の父が生まれてすぐに他界し、千里も両親を亡くしている為に千里はこの家で祖母——おばあちゃんと二人っきりで暮らしている。とはいっても店の仕事があるせいで、朝食で使った食器がそのまま置かれていることもあるのだった。
「よしっ、洗う……」
だからこそ、この家に引き取られた千里は家事全般が得意になった。
母親と暮らしている時もたまに手伝うことはあったものの、この家に来てからは掃除洗濯買い物から最近は料理まで、保護者であるおばあちゃんの補佐としてそつなくこなせるようになっていた。
今日は洗い物を終わらせて晩御飯の準備、その後お風呂掃除。
そんな夜までのスケジュールを頭の中で組み立てながら洗い物を続ける千里。
あとガラスのコップ3個、と呟きながら今日の献立とご飯の量を考えていたその矢先——流し台に手が伸びてきたと思うと、千里の隣から声が発せられた。
「お、おい。お前……」
低くも若々しい青年の声。
その声を聞いた千里は少し眉毛を釣り上げてこう返す。
「……何? コップ持ってきたの?」
「な……いや、違——」
見当違いの解答に狼狽する声。しかし千里はなおも続ける。
「できればもう少し早く持って来る。……食器増えるとガッカリする」
「い、いや、あのな。……あぁ、もう! とりあえずこっちを向かんか!」
ついにしびれを切らしたのか、声の主が千里の顔をつかんで強引に自分の方へ向ける。
そこでやっと千里は自分の隣に“何が”居たのかを知った。
千里より少し高い身長。短髪で活発そうな印象を受ける反面、ブキミなほどに黄色い金眼がかかっている白髪の間から覗いている。七夕や花火大会などのイベントですら見ないような古い藍色の浴衣を着ており、どこか申し訳無さそうにこちらを見ている。
その姿を見た瞬間。千里は叫び声を上げることすら無く、
顔を両側から挟まれた状態で右腕をその青年目がけて振るった。しかし、
(パキィッ)
予想外の音に千里はハッと我に返った。と、同時に悟る。
自分の右手にはまだ、ガラスのコップが握られていたことを。
その結果、青年の頭に当たった瞬間比較的もろい飲みくち部分にヒビの入ったコップはそのまま青年の眉間でひび割れ、その勢いのまま——
「あ……」
凶器と化したコップのフチが少年の眉間に深々と刺さり、その衝撃で青年は白目を剥いたまま仰向けにぶっ倒れた。
ドスン! と大きな音が響いたキッチンで千里はしかし、
「あ〜あ……どうしよっか」
まるで料理中に砂糖の袋でも落としたかのような、緊張感の無い声で悩む。
目の前で誰かが死んでいる。私が殺した。
それを理解した上で、冷静かつ楽観的に物事を考え始めた。
あぁ、どうしよう。私、刑務所とか行かないといけないのかな。
けーむしょってどんな感じだろ。……クマのぬいぐるみって持ち込めるのかな?
そんな見当違いな問答を繰り返す千里にまた青年の声が飛んで来た。
「ってぇ……いきなり突き飛ばすとか。……本当に非常識な奴じゃなお前」