複雑・ファジー小説
- Re: BAR『ポストの墓場』 ( No.17 )
- 日時: 2016/10/31 00:04
- 名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: HccOitOw)
【Live Log : 無明の闇】
「————」
およそ考えつく物理法則全てが破綻した先を、計算できる方程式などあるはずもなく。扉の向こうにはただ、暗澹たる虚無が広がるばかり。
——海水に濡れた文書の漂着から、三日。本来行うべき業務を全て投げ出し、回路が焼き切れんばかりに厖大な演算を繰り返し、遠大な計算と試算の果てにたどり着いた結果に、マスターは言葉もなく立ち尽くす。どれ程睨んだところで何もありはしないと、思考回路の計算は解を出していても、彼は虚ろの先を見つめた。
端から無理、だったのだ。
四方八方手を尽くし、自身の知る限りで最も機械工学と計算に長けた者の力を借り、自身の存続さえ危ぶまれるほどに死力を尽くして、尚間に合わなかった。或いは、ポストの墓場に手紙が流れ着いた時点で、既に間に合っていなかったのだろう。いずれにせよ、理屈で言えば、眼前の闇は誰の罪から出来たものでもない。
それでも、胸が押し潰れそうなほどの罪悪感を身に覚えるのは、何故か。
マスターには、分からない。
一分、二分、三分。
ひたすらに、棒杭の如く立ち尽くすアンドロイドの背へ、憔悴した女声が掛けられる。
「その様子じゃ、もう何にも残っていないようだね。N」
「え、ぇ」
ぎこちなく視線を向ける先には、腕を組み、テーブルに寄りかかる少女が一人。ぼさぼさの茶髪を乱暴に掻き毟り、そばかすの散った鼻面に皺を寄せて、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
「このエリ様の技術を以てしても、か。この私の速さで間に合わないなら、誰が拾っても同じ末路だっただろ。……気に病むな、と言ってやりたいけど、Nの場合はそうもいかないよねぇ」
「気にしても仕方がないと、頭では分かっているんですが」
少女——エリの苦味を含んだ笑声に、返す言葉の声色は暗く。ドアを閉めようとノブに手を掛け、その場から離れようと足先をドアから逸らしても、心は貼り付けられたように空虚たる闇へ向けられている。
マスターと、エリ。双方とも、ある世界線の終焉は数度となく目にしてきた。言葉は悪いが、慣れているのだ。だからこそ、これほどに見慣れてきたはずの終焉に後ろ髪を引かれることを不可解と感じ——
微細な不穏さを、強烈に予感できたのだろう。
「!!」
背で押し込むように、マスターは虚無と此処とを隔てる扉を閉めた。
古い樫の扉が、激しい打擲とアンドロイドの重量に悲鳴のような軋りを上げる。その軋りにハッとしたような顔で走り寄りかけたエリを無言で制し、無言でその場に座り込みながら、マスターは頭を抱えて首を振った。
「あれは——私を恨んでいるでしょうか」
「……知ったこっちゃない。当事者のNに分からないなら、私に分かるはずがない」
メカニックとしての的確な判断から選び抜かれた言葉は、ひどく冷淡で、手厳しい。だがその冷淡さが、悲嘆に暮れようとしていたマスターを現実へ引き戻した。
一度終わりを迎えた世界が蘇生することは、最早無い。もしも“元に戻る”瞬間が来るならば、それはより悲惨な未来の到来——繰り返されてきた歴史の再臨と同値である。
「これ以上肩入れするのは、止めておきましょう……」
彼は知っている。一万七千回以上繰り返されてきた歴史の中で、どのような想いが紡がれてきたか。
彼は見ている。遠大な試行の果てに来る滅びを退けた者達が、どれほどに歓喜したのか。
それ故に、彼はそこで、思考を断った。
「第六千ログの二の舞など、私は御免です」
「私だって御免だね。あんなことがもう一度あったら、私はお前のメンテナンス係を降りる」
「御冗談を」
彼等は知っている。
無明の闇を覗いて起きた悲劇を、彼等は知っている。
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