複雑・ファジー小説
- Re: BAR『ポストの墓場』 ( No.8 )
- 日時: 2016/09/26 02:18
- 名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: HccOitOw)
【Live Log : 掌中の珠】
「——いらっしゃいませ」
蝶番の微かな軋りと、それを掻き消すベルの音。来客を知らせる合図に、ロマはカウンターを拭く手を止め、顔を上げて決まり文句を口にする。釣られるように、フロアで各々の仕事をこなしていた者達からも、次々と同じ言葉が放り投げられた。
手早くカウンターへ回り込んで布巾を流し台へ放り込み、ドアを開けたきり立ち尽くしている来客の許へ、足音を殺して駆け寄る。慌てて応対しようとしていた他のスタッフは、ロマが来たと見るや否や、すぐに身を引いて己の仕事へ戻った。彼が引き受けたならば心配はいらない——そこには静かな、しかし確固たる信頼関係がある。
「此方が『ポストの墓場』で間違いないかしら?」
「はい。……ログの閲覧をご希望の方でしょうか?」
「ええ。古高七恵、と申します」
貴婦人とは斯くあるものであろうと、そう思わせる女性である。
淡い儚さの中にも強い芯を秘めた、矍鑠とした佇まい。一見沈鬱な色使いでありながら、確かな瀟洒を感じる洋装。肩口に零れる一房の白髪。酸いも甘いも知り尽くした老練さと、それでも尚清廉であろうとした覚悟の垣間見える鳶色の瞳。麗しきとはこのような者のことを指すのであろう。
「かしこまりました。マスターへ取り次ぎますので、少々お待ち下さい」
ロマはいつものように、しかし心持ち丁寧に頭を下げた。
それは静謐とした敬意であった。
ロマの言葉を受け、薄暗い保管庫から昼のフロアへ出てきたマスターを、彼女は淡い笑みと共に出迎えた。
「初めまして、オーナーさん」
「お初に御目に掛かります、古高七恵様——いえ、“喜孝ななみ”様」
深々と、一礼。マスターの放った言葉に、スタッフの視線がその方へと集中する。アンドロイドの顔色など読むべくもないが、平素よりゆっくりと頭を上げるその仕草から、慣れたスタッフは深い感慨の色を見ていた。対する彼女は、予想通りの反応と言わんばかりに、ただ黙ってマスターの所作を見つめている。
張り詰めた沈黙が少し。老婦人の声が、凛としてそれを破った。
「此処に私の過去が保管されていると聞きましたの」
「ええ。しかし、今の貴方には必要のないものも含んでおります」
「いいの。お返し頂けないかしら」
ざわり、と空気が揺れた。
見せてほしいではなく、返してほしい——恐らくそれは、マスター以外のスタッフ全員が、初めて出会う要求であろう。そんなことは出来ない、と勢いのまま口走りかけたロマを、マスターは黙って手で制する。気勢を削がれ、彼が口を閉じたその隙を縫うように、再び深く頭を下げた。
「かしこまりました。貴方に関連するログ、全て此方にお持ちいたします」
「お頼みしますわ」
老婦人は多くを語らない。ただ、柔らかく笑って会釈するばかりである。
マスターもまた言葉少なだ。少々お待ち下さい、ときっぱりした態度で応対し、すぐに踵を返した。
そして、暫し。再びマスターがフロアへ戻ってきたのは、店の表に出した看板が「CLOSE」に変わった後であった。
片手に頑丈な紙袋を提げ、平生と何ら変わりない態度で歩み寄るその姿に、またしても店内の眼が集まる。本当にログを人へ渡してしまうのか、と驚愕する視線と、マスターの言うことならば間違いはないだろうが、と諦念を交えつつも猜疑する視線。重い雰囲気が周囲に漂う。
「お待たせ致しました。……此方でご覧になりますか」
「お邪魔でなければ、是非」
しかし、そんなぎくしゃくとした空気も、まるで意に介さない。老婦人が着いた席のテーブルに紙袋を置き、丁寧に一礼して、マスターは静かに傍を離れる。彼女もまた、無言で会釈を返すばかりであった。
ぱたり、とドアの閉じる音。バックヤードへ引っ込んでしまったのだ。一度裏へ閉じこもってしまったならば、彼は休憩時間が終わるか、いっそ強盗でも出ない限りフロアへ戻ることはない。表に残されたスタッフは揃って顔を見合わせ、諦めたように肩を落とした。
“マスターからの釈明を聞くのは後にしよう”と。目は雄弁に語る。
オーナーの姿が消え、時が経つこと十数分。
「お待たせしました、今日のお昼の賄いはクッキー三種! 紅茶も淹れたんで、好きなだけどうぞー」
「おーすげぇじゃねぇのー。俺の娘も丁度こう言うのにハマってるぜ」
仕事を片付けていたスタッフ達は、カウンター席の隅でナベシマの焼いたクッキーを摘んでいた。
夜に訪れる嵐の前の、穏やかな静けさ。そこには緩やかな時と空気が流れている。
「七恵さんも是非どうぞ。此方、サービスです」
「あら、ありがとう。気が利くのね」
紙袋一杯のクリアファイルの、恐らくは三分の二ほどを読んだところであろうか。三十冊以上のファイルが積み重ねられた横に、ナベシマはクッキーを並べた皿とティーセットを置く。婦人の眼は文書を離れ、角砂糖入れを置こうとしていた彼女の横顔を、検めるように見つめていた。
そして、一礼して去っていこうとした背に、柔らかく声を掛ける。
「御礼と言ってはなんだけれど、退屈な昔話を聞いて頂戴」
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