複雑・ファジー小説

Re: BAR『ポストの墓場』 ( No.9 )
日時: 2016/09/26 07:06
名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: HccOitOw)

 余韻さえ掻き消すほどに、緊張した空気が漂っていた。
 婦人はファイルを閉じ、そして自らの瞳も閉じる。何かを思い起こすための仕草である。
「貴方方はこのファイルの中身を一度は見ているのでしょう? でしたら、きっと私の過去に何が起こっていたかは、上辺であってもご存じのはずね。母親が父親に殺され、遺言の執行者も殺され、娘は行方不明——巷で一時期騒がれた事件の、行方不明になっていた娘が私」
「ぇあ、はいっ」
 しどろもどろに返すナベシマに、婦人はくすくすと面白そうに笑った。
「あの後私は叔母に引き取られました。叔母さんには子供が居なくてね、本当の娘のように私を育ててくれて。もう叔母さんも叔父さんも亡くなってしまいましたけど、今でもあの頃が一番幸せだったと思うわ」
「い、今は?」
「あら、私はずっと幸せよ? そう思えるまでに時間が掛かっただけ。あの頃は考えなくても幸せだったの」
 礼を失した問いに気分を損ねた様子もなく、婦人の手が目元に零れた髪を払う。ナベシマは気圧されたようにふらふらと数歩後ろへ下がると、糸の切れた人形の如く、すとんと椅子に腰を落とした。
 髪を払った手で、紅茶を一口。僅かな間を取り、再び話し出す。
「あんなに騒がれた事件の関係者でも、意外と普通の生活は送れるものね。私はごく普通に学び、友人を作り、大人になった。仕事はとても充実していた。大変な中でも甘い恋をして、家庭を持つことだって出来たわ。……それでも、私は怖かった」
「父親が、ですか……」
「そうかもね。何度も振り払おうとしたけど、そう簡単に出来たら苦労しない。夢は毎日見たわ。私が小さかったときも、学生になっても、仕事が忙しくなってからも。夢の意味が分かってから、もっと怖くなった。大事な商用を控えた夜に魘されて、眼の下に出来た隈をメイクで必死に隠した朝もあった。亭主にも随分迷惑を掛けたわね」
 そう話す声には、しかし漣一つ立たず。
 窓の向こうの明るみへ向けられた眼は、此処ではない遠くを見つめる。
「人から見た私は、きっと幸せだったのでしょう。でも私は、今までずっと恐れていただけだった」
 意味が分からない、と言いたげな顔で、ナベシマは婦人の顔を見た。
 婦人もまた、彼女の顔を見ていた。
「名前を変え、姓を変え、過去を消して——“喜孝ななみ”として、私は生きてこられたかしら?」
「…………」
「私は何時までも母を愛しています。だからもう一度、私は“喜孝ななみ”として、母から貰った名前と過去を負って生きたい。その為に、私は此処へ来たの。残っていること、忘れたこと、思い出さないようにしてきたこと……私が捨ててきた、“喜孝ななみ”の過去を取り戻すために」

 いつの間にか、紅茶は冷め切っていた。
 誰も彼もが背を正して固まり、空気さえも停滞している。
「あら、オーナーさん」
 重苦しい停滞と膠着を打ち崩したのは、バックヤードと表を隔てる扉の軋りと、老婦人の明るい一声だった。凍り付いていたスタッフが一斉にその方へ眼をやり、矢のような視線を浴びて、マスターは扉を閉めた体制のまま一同を見回す。そして、何も言わずに婦人の前まで歩み寄った。
 アンドロイドの機体は重く、古びた床を下手に歩けば容易に踏み抜いてしまう。しかし、その歩が床に悲鳴を挙げさせることはない。緊張した空気を乱すことなく歩み寄る様は、ある種不気味ですらあった。
「お伺いしたいことが御座います。喜孝様」
 感情の読めない声。鳶色の双眸が、色のないモノアイを見上げる。
「何でしょう?」
「貴方は、父親を許すことが出来ますか?」
「いいえ。私はそんなに大人じゃありませんもの」
 即答。そこに躊躇いや迷いはただの一瞬もない。
 蛇のように執念深い恨みが、童女の如く無邪気な笑みの裏に張り付いていた。
「かしこまりました。突然無遠慮な質問をしてしまい、申し訳ありません」
 マスターはただ、いつものように頭を下げた。

 からん、からん。涼やかにドアベルの音が響く。
 重たい紙袋を片手に、颯爽と辞していった貴婦人の背を、ロマとマスターは並んで見送った。
「Nさん、俺の疑問に答えてくれませんか。他のスタッフも思っていることです」
「ええ。ログの譲渡——いえ返却は、今までに実行したことのある事例です。ログを書いた方本人か、或いは親族の方が強く希望され、諸条件が合致した場合にのみ、ログの原本をお返ししています。……勿論ですが、コピーは残してありますよ? 必要にならない時が来ないとは限りませんから」
 ドアが閉じ、ベルの音が消えても、二人は立ち尽くしたまま。
 閉じられたドアを眺めながら、会話は続く。
「今まで俺に言わなかったってことは、俺の管轄外だろうと思います。質問を変えましょう」
「……喜孝様があの場でイエスと言ったならば、私はこれをお渡しするつもりでした」
 誰しもが思い、かの者もまた回答の要求を予想したであろう質問を、わざわざもう一度言う必要もない。マスターは呟くように告げてエプロンのポケットに手を入れ、薄い茶封筒をロマに手渡した。
 “古高七恵様”——乱雑でがたがたの、釘で引っ掻いたような文字である。封筒のフラップは「〆」の字で適当に戒めてあるばかり、切手も張り付けられていなければ、名前以外のいかなる情報もない。仮令ポストに投函したとしても、届くはずのないものだ。
 ——渡せば届いた願いを、此処で握り潰す。その心は。
 ロマの表情は確信を得た者のそれであった。

「あの方にはもう、必要のない愛です」
 これは第八ログへ。
 そう言い伝えて去っていくマスターに、ロマは黙って首肯した。


〔当事案を以て、【Log 00287】関連ログは全て第八ログへ移行しました。 :マスター〕



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