複雑・ファジー小説

Re: 紫電スパイダー ( No.17 )
日時: 2015/10/28 20:49
名前: Viridis ◆8Wa6OGPmD2 (ID: AurL0C96)





 憂霧唯一(うさぎりユイイツ)の容姿は整っている。
 化粧にこそ疎いが、それを補うほどには端整な顔立ち。吸い込まれそうな闇を湛えた、黒目がちの瞳。艶のある長い黒髪を、後頭部でポニーテイルにしてまとめ、露わになっているうなじは、服装の露出が少ないゆえに一種の情欲をかきたてる。本人も少し気にしている豊満な胸は、スーツを布地の下から押し上げていた。
 いかにも中年好みしそうな二十五の女が、ただでさえ治安が悪いこの辺りで、真夜中にひとりで裏路地を歩く。ある種愚行というか、身を捨てるような行為とも言えた。
 ふらつきながら歩いている作業服姿の男と、割合強めに肩がぶつかった。アルコールの臭いを漂わせていることから、きっと泥酔しているのだろう。いって、と男が大袈裟に声を上げた。

「ごめんなさい」

 ユイイツは小さく謝ってそのまま行こうとするが、男が彼女の手首を乱暴に掴む。男は酔わせた顔面を真っ赤にしており、視線の焦点が定まらない様子だった。

「ネーチャンよそりゃねえんじゃねえのォ!? ぶつかってごめんなさいじゃねェだろ、簡単に済ませてんじゃねェよどいつもこいつもよォ! だっりィなぁ!」
「や、ぁ、やめて、はなして」

 呂律ははっきりとしていないし、言っていることもいまいち脈絡がない。泥酔しているせいか理性が飛びかけている。ユイイツが振りほどこうにも男は手を離さないで、ワケも分からずしっちゃかめっちゃかに喚いて唾を飛ばす。
 しかしやがて視線がじっくりとユイイツの胸と顔へ集中すると、途端に目尻が垂れて、下卑た表情を浮かべた。剥き出した並びの悪い歯は黄色く汚れている。

「なんだ……結構いい女じゃねェの」

 言うと男はユイイツの二の腕を掴んで、引き寄せようとする。欲情したせいか酒のせいなのか口から息を荒く吐き、酒とその他雑多なものを混ぜ合わせた生ゴミのような臭いが撒かれる。臭いにユイイツは顔をしかめながら、なおも押しのけようと抵抗した。
 ユイイツの抵抗に苛立った男は、またもワケの分からない罵声を上げながら、胸ぐらを掴み、ユイイツの顔を平手で殴った。乾いた音が響いて、艶のある髪が振り乱れる。

 なぜかその一瞬だけ、男の泥酔は覚めた——平手で殴られたような痛みが、自分の左頬に走ったからだ。

「——やり返してんじゃねえよ!」

 彼女に殴り返されたのだと結論付けた男は、さらにもう一度ユイイツを殴ったが、またも自分の顔に痛みが走る。今度は明らかに、ユイイツは殴り返してなどいなかった。酔いに溺れていた男も流石に困惑する。
 呆気に取られていたせいで、男は気付かなかった。ユイイツの笑みと、彼女の手で鈍く光るナイフに。とっ、と短いくぐもった音。胸ぐらを掴む男の手に、ナイフが深々と突き刺さる。男は目を見開き、呆気にとられた後、ひゅっと短く息を吸って。

「ひぎゃあああああぁぁぁあああああ!?」

 先ほどの曖昧な呂律とは打って変わって、鋭い絶叫が夜空を裂く。鮮烈な痛みにぶわりと嫌な脂汗が浮く。痛みで胸ぐらを離した事などはもはや些細だった。いてぇ、いてぇよと男が苦悶の表情で泣きそうに呻く。
 それを見下ろし、眺めるユイイツの表情は——恍惚としていた。

「あは」

 白い頬をうす赤く染め、潤んだ黒い瞳を細め、少し開いた唇の間から熱い吐息を漏らし、腰をくねらせて、嗤う。これほど艶めかしい女もそう居たモノではないだろう——状況が状況でさえなければ。
 ナイフを手に突き立てられた男はもはや、この女に欲情しようなどとは思わなかった。化け物でも現れたかのような表情で、あわてて背を向けて逃げ出そうとする。

「逃がさないですよぉ?」

 金属音と同時に、今度は男が手首を引っ張られたように転ぶ。見れば右手首が、手近なパイプに手錠で繋がれている——投げた手錠で捕縛されたのだ。
 男は無様に這いながら、ユイイツの姿を見た。ゆったりと近づいて来る彼女は、妖艶な笑みを浮かべている。あまりの恐ろしさに、男の股間から生温い液体が流れて、路地裏を汚していく。
 ユイイツは近づきながら、自分の首元をナイフで浅く切った。男が小さな叫びをあげ、彼女はぞくぞくと腰を震わせる。

「痛みってステキですよね。痛みを感じている間だけは幸福なんです、私」

 男にはもはや恐怖と錯乱で何も耳になど入っていないが、構わずユイイツは語った。

「だって生きているから痛みは感じるのであってつまりここにあなたと私が生きているという証明であることから生の実感はつまり人生の幸福であると幼い頃から教え込まれてきた私にとっては痛みこそが『唯一』の幸福であって幸福は他人と分かち合うべきものだから私は私は私は何かのご縁があって話しかけてくださったあなたにも幸福を分け与えてあげたいと考えてですねだから逃げないで下さいよねぇねぇつれないですねぇ一緒にキモチヨクなりましょうよほらほらもっと苦しむ姿を表情を私に見せて下さいよ殴打が良いですか刺突が良いですか銃弾はダメですよ始末書書くのが面倒ですからそうそう普通のひとを幸せにしてあげたら理不尽にも捕まるからせめて自分が痛みを受ける幸福を知らない哀れなひとびとに私が痛みを分け与えてあげようと思って警察になったのに思ったよりも機会がなくてうんざりしちゃって——あれ、もう動かなくなっちゃった」

 語りかけながら警棒で何度も殴打し、ナイフで弄んでいるうちに、それはもうただの物言わぬ肉塊になっていた。ユイイツは得も言われぬ快楽の余韻に浸り……それから不満げで気怠そうな表情を浮かべた。
 どこか欲求不満のようなモヤモヤが、まだ下腹部の奥に残っている。それでも死体は、ちゃんとどこかに片付けなければならない。
 彼女は自分を満足させる痛みを与えてくれる、痛みを受けてくれる相手に飢えていた。
 たとえばそう——噂の『紫色の髪の少年』だとか。