複雑・ファジー小説

Re: 紫電スパイダー ( No.26 )
日時: 2015/11/27 17:00
名前: Viridis ◆8Wa6OGPmD2 (ID: AurL0C96)





 ——弱いくせに、弱いくせに、弱いくせにぃッ!!



 塔堂垓助(とうどうガイスケ)は、どこにでもいるごく普通の人間だった。
 気弱な気質だった彼は目立たない学生時代を送り、そこそこの大学を成績もほどほどに卒業し、それなりの企業に就職した。何の根拠もなく、それなりにいい大学さえ出れば、なんとなく幸せになれるだろう、あわよくば何かの偶然で自分は大きなことをするかも、それが彼の人生設計のすべてだった。
 モラルハラスメントという言葉をご存じだろう。浮遊感がついて回る人生でなんとなく歩んできた先に待っていたのは、上司からの嫌がらせを受ける毎日。見た目も線が細く、内面も気弱な彼だったから目を付けられるのにそう時間はかからなかった。
 日本におけるイジメは、凄惨なモノよりも陰湿なモノの方が隠蔽しやすく蔓延しやすい。この上司は非常に「どこまで相手を痛めつけたら再起不能になるか」「どの程度までのモノならば露見せず告発もし難いのか」を見極めるのが非常に上手かったと言えよう。結果としてガイスケは卒業してから4年もの間、上司どころか——ついには職場の同僚たちからさえも、退屈な日常で鬱積したストレスの捌け口として陰湿に扱われてきた。
 劣等感と恨みと、悲しきかな飲んだくれ泣き寝入る事でしかやり過ごせない日々。悪意に対して、それまでなあなあにやり過ごすことが出来てしまったから、逆に耐性を付けることも出来ずにこれまで生きてきたのだ。ストレス解消のための酒やソシャゲの課金代で賃金は溶けてゆき、ネット上の誰とも知れぬ相手に罵声を吐いて、ほんの僅かな爽快感と巨大な虚しさに浸るだけの日々。
 見るに堪えない無残な負け犬人生——転機が来たのは去年の夏だった。

「貴方は日常生活に不満を持っていますね?」

 頭の先からつま先までピンク色の衣装で身を包んだ奇異な男——なんと瞳と髪まで同じ色だった——に話しかけられたのは、ある居酒屋での話。当然ながらガイスケは警戒する。

「失礼、申し遅れました。私は目黒怨(めぐろエン)と申します、お見知りおきを……」

 奇異な容貌、奇異な風体、奇異な雰囲気。どれをとっても不審極まりないエンの喋りに、その後いつの間にかガイスケは惹き込まれていた。自分が日々貯めこんでいた理不尽への怒りや憎しみまでをもすっかり打ち明け、酒も入っているとはいえいい大人が涙まで流す始末。それほどまでにエンの話術が優れていたという事だ。
 そして話の流れも一旦途切れたところで、彼はひとつの提案を持ち掛けた。

「もしよろしければ、私が貴方の願いを叶えてあげましょう」

 流石にこればかりは、ガイスケも驚いて冗談半分に笑った。そして冗談半分に、自分の願いをエンに打ち明けた——即ち『誰にも恐れる必要のない圧倒的な力が欲しい』だった。まるで幼稚な願いを、エンは「分かりました」と真摯な語勢で受け入れ、その次に「では」と前置きしてから、ひとつだけ条件を提示した。

「その代わり、力を得た貴方は一度たりとも負けることは許されません——良いですね?」

 了承した後からの記憶は途切れている。翌日起きると自室の布団に籠っていたところを見ると、そのまま酔いつぶれて帰って来たのだろう。
 エンに悩みを打ち明けた勢いでとはいえついでに呑みすぎたガイスケは、その日久々に少しばかりの遅刻をした。上司がこれを口実にしないワケもなく、その日の叱咤は普段に増して酷いモノであった。他の職員らの前で散々な罵声を浴びせられ、背後からは不快な押し殺したような笑いが聞こえ、おおよそ人間に向かって吐くようなものではない言葉も叩き付けられ——。
 ——ほんの少しだけ頭が真っ白になったガイスケの、眼前にあったのは血の海だった。
 全体的にひしゃげた上司は、すでに人間の様相ではなかった。少し脂が浮いてハゲ散らかった上司の頭は潰れたトマトのようになって、他の部分はまるで真っ赤なアジの開きになっている。
 絶句する他の同僚と、真っ赤に濡れた手を見て、そして昨日のエンとのやり取りを思い出し——これは自分がやったのだと、ようやく認識する。エンの言葉は、決して冗談などではなかったのだ。生まれて初めて人を殺した感覚と、目の前に広がる凄惨な亡骸を見て、彼は引きつった笑いを浮かべながら振り返る。次の標的など決まっていた。
 その日、都内にあるオフィスの一角が真っ赤に染まったという事件があった。おおよそ人間業ではない犯行はしばらくの間ワイドショーを盛り上げ、様々な尾ひれがついた噂を生み出し、やがて絶え間なくめぐる日常へと消えていった。
 塔堂ガイスケというひとりの怪物は、人知れず街に放たれたまま。