複雑・ファジー小説
- Re: 紫電スパイダー ( No.4 )
- 日時: 2015/10/16 19:30
- 名前: Viridis ◆8Wa6OGPmD2 (ID: AurL0C96)
3
「——は」
サイキは間抜けな声を上げた。武装解除された自分の右腕を見て。
戦闘の際に愚かとも言える明確な隙。がら空きの腹部に少年の蹴りが突き刺さる。
真後ろへ飛ばされ視界が二転三転とする。——細身からは想像出来ぬ、重い一撃だった。
動揺と混乱のあまり、サイキはすぐに立ち上がれない。いま、何が起こった——頭が、脳が衝撃を受け止めきれていない。
すべてが一瞬だった。
詰めたと思ってから、こちらの手札をすべて覆され、ブッ飛ばされるまで。
ワケもわからず、思わず出雲らの方をチラと見る——彼らも、口を開き呆気に取られていた。なんと相手側の井沢組ですらもだ。
無理もない、狒々のイワシロが膝をつくなどいつ以来か。しかもこんなガキ相手に。
「相手の反撃を考えられていない」
不意に、声を落とされた。跳ねたように声の方を向くと、喋っていたのは少年だった。
「威圧と勢いと、安定して勝てるシステムに任せただけの、脳ミソが死んでる戦い方——格下を宛がわれてきたような、つまらない戦い方」
よく通りながらも、恐ろしく落ち着いた、温度のない声色だ。
サイキは不思議でならなかった。なぜこの自分が、なぜこの狒々のイワシロが——。
「——なあ、それ楽しいか?」
なぜ自分より一回りも若い少年に、腹の底まで見透かされたような恐怖を覚えている。
サイキは吠えていた。恐怖を自覚した瞬間、それを否定して振り払うように。『帝王の腕』によって喚び起こされた岩石が、両腕を覆う。
我武者羅に右腕を振るった。大袈裟に空を切る音が鳴り響く。連弾は止まぬ。
熟練の猛者、狒々のイワシロは伊達ではない。牽制。フェイント。ここぞに大胆な一撃。三様に交えて繰り出す様は、戦い慣れたひとりのプロだと思い起こさせる。
だというのに。
決して狒々のイワシロが弱いわけではない。それなのになぜ——掠りもしない。
まるで影を殴っているような感覚だ。
絶え間なく放つ渾身のラッシュ。少年は事も無げに躱す。
最初の一撃だって辛うじてじゃない——意図して紙一重で避けられていたのだと知った。
半ば折れつつある心を、乱打と咆哮の勢いで奮い起こす。しかし振り切ろうとすれば、振り切ろうとするほどに『その考え』が頭の端から蝕んでゆく。黒くじわじわと、しかし恐るべき速さで呑み込まれていく。
そして。
「——欠片でも負けるかもと思ったら、その時点で負けなんだよ」
この少年は——いや、この悪魔はそれさえも見抜いたというのか。
ざわりとした悪寒が沸き上がる。身も竦む恐怖が思考に空白をもたらす。
時間にしてコンマ数秒もあるかないかという空白。サイキの脳内を支配した空白。その空白を——目の前の悪魔が付け狙わない理由など無かった。
腕の付け根から掴まれ。全身を襲う浮遊感。視点が反転し。有体に言えば宙を舞い。
「がっ……は!」
全身を駆け巡る衝撃。遅れて激痛。呼吸が止まる。
ただの一本背負いは、身に纏う岩石の重量と隆起した地面と相まって決め手になった。
心を折られ、自慢げに振るってきた自身の篝火を逆手に取られ、狒々のイワシロは完膚無く叩きのめされた。
人知れず行われた西東京清真会と井沢組の抗争は、井沢組の、いや、少年の圧勝という大番狂わせで終わった。井沢組の面々は喜びか安堵からか表情が弛緩し、西東京清真会の面々は、今だに先ほどの事実を受け止めきれなかった。
サイキも仰向けに打ち棄てられたまま、呆然としたまま立ち上がれない。
その視界の端で、彼は井沢組の頭——井沢兵衛(いざわヒョウエ)と少年とのやり取りを捉えた。
「今回だけと言わず、どうか俺達の元でその力を振るってはくれんか。お前さんの力なら西東京に連なる数々の派閥をまとめ上げ、一躍巨大な勢力を築くことも夢物語ではない」
サイキは少なからず驚いた。井沢組とは短くない因縁であるが、あの頑なな井沢自身が懇願する様子など、誰かに媚び諂う姿などこれまで一度たりとも見たことが無いからだ。
自分らに比べれば弱小と言えど、曲がりなりにも清真会に対してさえ一徹であり、組織としての地位を守り続けてきた頑固親父が——こうも豹変するものか。それだけ彼の腕に惚れ込む何かがあったという事なのか。
対して、少年は何も言わない。ただ事前の契約であったろう金を受け取り、黙っていた。ヤクザの親分を前にして、こうまで懇願させてなおも、そのガキはいっそ憎たらしいほどに動じない。
「頼む! ひとつ戦うたびに一○○○万支払っても構わない!」
驚いて眉根を動かしたのは、むしろサイキや出雲の方であった。清真会の二人ですら、思いもつかぬような破格。本当に、井沢は彼に何を見たというのか。
しかし本当に驚くべきは、少年の返答だった。
「——ヤだね、興味無い」
少年の心底冷めたような声色に、その場の誰もが唖然とした。
少年は我関せずとばかりに、受け取った金を乱雑にカバンへと突っ込んだ。
「自由をカネで売るつもりにはなれないな、そこのオッサンみたいに」
それに、と少年は続けて。
「使わねえよ——そんなにあってもさ」
それだけだった。それだけを言い放つと、少年は最早彼らに一瞥もくれない。彼は宵闇へ向き直り、藤色の髪を揺らして歩き出した。
——その場に居た大人の誰もが、自分を恥じる。とりわけサイキは悔しさと羞恥の余り、仰向けに倒されたまま、仮面の下で奥歯を噛み砕きそうになっていた。
自分よりもずっと年下のガキに、自分の全てを見透かされ、一蹴され……くだらないと切り捨てられたのだから。
自分で自分を囲う檻が、どれだけ小さいかを叩きつけられたのだから。