複雑・ファジー小説

Re: 空の心は傷付かない ( No.39 )
日時: 2015/12/03 20:42
名前: 之ノ乃 (ID: uRukbLsD)

間章  回る想い

「寒いね……お兄ちゃん」

 ある冬の日の事だ。
 母にひとしきり殴られた後、僕達は暖房のない部屋の中、薄い毛布で夜を過ごしていた。
 母曰く、お前達は悪い子だからこうされて当たり前なんだ。
 僕や妹の心が何か悪いことをした記憶はないのだが、母の基準では何かしらがアウトなんだろうな。何がアウトなのか教えてくれればそれをしないように努力するというのに、母の基準や言い分は彼女の気分によってコロコロ変わるため、僕達にはどうする事も出来ない。この前と言っていること違うよ、なんて指摘すれば痛い目に合うのは分かっているので口には出さない。

「僕の毛布使うか?」

 僕の言葉に心は首を振る。じゃあどうしようかと考えていると、心が僕の毛布の中に入り込んできた。それから自分の分の毛布をその上に重ねる。

「こうすれば二人とも温かいよ」
「こんな発想が存在していたとは」
「お兄ちゃんって馬鹿だよね」
「…………」

 心は僕の体に手を回して抱きついてくる。柔らかい体の感触。体温が伝わってきてほんのり温かい。
 少しずつ体が暖まってきて、眠気が襲ってくる。
 夢の世界に意識が完全に落ちる前に、心が話し掛けてきた。

「ねえ、お兄ちゃん」
「なに?」
「幸せってなにかな?」
「人によって違うと思うよ」
「じゃあ、お兄ちゃんは幸せ?」
「……どうかなぁ」

 眠さで思考が働かない。

「分からないや」

 そう言って、僕の意識は夢の世界へ落ちていく。
 意識がなくなる瞬間。

「私は、幸せなんかじゃないよ」

 心がそう言った気がした。
 翌日。
 家に入ると、母の笑い声と心の泣き声。
 リビングに駆けつけると、ビールの缶が数本、そして紙屑が床に落ちていた。
 床に散らばっていた紙屑は、心が学校の道徳の時間に作った母への贈り物だった。母への日頃の感謝を書いた手紙だったらしい。
 家の中に道徳が存在していないのに、学校で道徳を習うなんて滑稽だな、なんて思った。

 心が母にその手紙を渡すと、読む前にビリビリに破り捨てたという。
 泣き崩れた心を指さして、母は笑っていた。
 ざまぁみろ、お前からの手紙なんていらねえんだよ、気持ち悪い、目障りだ。

 そんな事を言いながら笑う母の顔は、この世で一番醜悪だと思った。
 僕は心を泣き止まそうと声を掛けるけど、一向に泣き止まなかった。最初は笑っていた母だけど、次第に苛立ち初めて、最後には酒臭い息を撒き散らしながら怒声を上げて、僕達を煙草の灰皿で殴った。

 ガツンと頭に衝撃が走った。
 温かい物が頭から流れてきて、血だった。
 僕よりも強めに殴られた妹は床にうずくまって、血を流しながら息を押し殺して泣いていた。
 心のそんな様子に満足したのか、母はゴロンと横になって寝息を立て始めた。酔いが回っているようで、大きないびきを立てている。

「ねぇ……お兄ちゃん」

 床で横になったまま、心は昨日と同じように僕に話し掛けてきた。

「なんで自分が生まれてきたか分かる?」
「……分からない」
「私も分からないよ。自分が何で生まれてきたのか」
「…………」

 妹はどこかボーっとしているようだった。

「なんで痛みを感じるのかな」
「……生きてるから、だと思う」
「死んだら痛みを感じないのかな」
「分かんないけど……多分、そうなんじゃないかな」 
「なんで辛いのかな」
「……それも生きてるから、かもしれない」
「そっかぁ……」

 心は納得したという風に、頷いていた。

「……心?」
 いつもと違う彼女の様子。何とも言えない、嫌な感じだった。ボーっとしていて、まるで夢を見ているような、そんな様子だった。

「だったら——生きている意味なんてあるの?」

 心の言葉に、僕は何も答えられなかった。
 言葉が出てこなかった。
 生きていれば幸せになれるとか、生きている間にその意味を探せばいいとか、そんな言葉を口に出来ていれば、何か変わっていたんだろうか。

「ねぇ、だったら」

 心の言葉。
 嫌な予感がした。
 この先を聞いてはいけないと、何かが僕に警鐘をならしていた。

「私を殺してよ」

 駄目だと、言えば良かったんだろうか。
 嫌だと、言えば良かったんだろうか。
 分からなかった。
 ただ、何も言えなかった。

「ね? お兄ちゃん」
 
 僕は。

「お母さん酔っ払ってるしさ。お母さんが殺したって事にすれば、お兄ちゃんには迷惑掛からないよ。あそこの灰皿で殴って、殺して?」

 僕は。

「もう、私ね。生きていたくないんだ。辛くて、不幸で、生きているのが苦しい」

 僕は。

「お願い、お兄ちゃん。私を殺してよぉ」

 ポロポロと涙を零して、懇願してくる心。
 いびきを立てて眠っている母。起きる気配はない。
 僕は————。

「本当に、いいのか?」

 母の灰皿が、手の中にある。

「ありがとう、お兄ちゃん。お願い」
「心」
「ごめんね……。でも、私ね、殺されるならお兄ちゃんがいいの」
「心」
「ごめんね……。お兄ちゃんは辛いよね。勝手だよね」
「心」
「来世では、幸せになりたいね」
「心」
「お兄ちゃんと、また会えるといいな」
「心……」

 僕は。
 灰皿を。
 心に——。


「心」

 もう、動かなくなった妹の名前を呼ぶ。
 返事はなかった。
 部屋には酔っ払って寝ている母と僕しか居ない。

「心」

 何度呼んでも返事はなかった。
 死んだ人間は喋らない。
 そんなことは分かっている。
 だって、僕が殺したんだから。
 頬を伝って、何かが手に落ちてきた。
 温かい。
 それは次々と溢れ出てくる。
 一粒何かが零れ落ちる度に、僕の心の中にあった何かがなくなっていくようだった。
 
 僕はまだ死なない。
 殺した妹の魂を喰らって、生きながらえた。


 この日——僕は空っぽになった。