複雑・ファジー小説
- Re: 失意のセレナーデ ( No.2 )
- 日時: 2018/03/28 20:04
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: J/gUjzFh)
第一話 「始まりは、いつも突然だ」
どうしたって、きっと私はここから逃げることができないのだろうと思う。みんながそれを望んでいるような、もしかしたら私がそれを望んでいるのではないかとさえ感じてしまう。登校して真っ先に目に入ったのはゴミだらけになった上履きと、幼稚な罵倒の言葉。もうすぐ中学を卒業する時期だというのに、ここにいる子たちはまだ幼稚だ。田舎の子だからかもしれない。私が以前通っていた中学の子たちの方が、隠そうという気持ちがあった気がする。
教室に至るまで、転校したての時と同様にすれ違うクラスメイトに「おはよう」と言っても、返ってくるのは笑い声ばかりで、その後に続く言葉もだいたいいつもと変わらない。それでも会話をしようとするのは、きっと私がここにいる意味がほしいだけ。私が求めてる意味だって、突き詰めれば自己満足で、根底には一人でいるのが嫌だって気持ちがあるだけだと思う。それくらい私は孤独で、助けてくださいだなんて言えない。だって、誰も助けてくれないじゃないですか。
「三条……」
「いいんです、大丈夫ですから。気にしないでください。だってもう、後一ヶ月もしたら卒業ですもん」
貴方たちが私を見ない振りして、もう半年以上も経ちました。そう伝えたい気持ちもあったけれど、誤魔化すように私は笑う。申し訳なさそうに眉尻を下げる貴方だって、本当は私のために時間を割きたくないんでしょ。トレードマークの白いポロシャツを着た、私の担任の先生。引っ越してきてすぐ、あまり馴染めないでいる私を助けてくれた先生だった。おかげで私は皆の輪に入れたし、先生がいなかった私は初めからずっと一人ぼっちだったと思う。けれど、今はそっちの方が良かったと感じていた。
「でも早坂とかに嫌がらせされたりしてたんだろ? 本当にそのままにしていいのか?」
四時間目の授業を自習にした先生。随分前に授業が終わるチャイムが鳴っていた。生徒たちの賑やかな声が遠くに聞こえる。クラスではもう給食の配膳が始まっていて、戻ってこない先生をみんな待っているんだろう。私の分の給食は用意されているか分からないし、残ってすらないかもしれない。今日はわかめご飯の日だったから、楽しみにしていた。こっちに来てから知ったホワイトミニーが美味しくて、給食の時間が早く来てほしいと考えていた。
先生は相変わらず難しい顔をしていて、私が先生に何も返事をしないから、戸惑っているようにも感じられる。もしかしたら、私が「辛いです」というのを待ってくれているのかもしれない。それでもね、先生、私は大人を困らせない方法を分かってるんだよ。そう心の中で呟く。面倒ごとが嫌いな学校の先生を安心させてあげられる、生徒からの言葉。私はそれを言葉に出すことをためらわなくなった。
「大丈夫です、あと少しだけど、みんなと仲良くできるようにします」
そうして、にっこりと笑う。貴方たちが私を忘れようとしていた時期に比べたら、私が必死に助けを求めようとしていた頃に比べたら、自分から相手を拒絶することなんて苦しくない。先生は「そうか」と必死に言葉を探して、やりきれないと言いたげにタメを作って言った。
「給食は、どうする」
「ここで食べても、いいですか?」
「ああ、したら持ってくるから、楽にしててくれ」
そう言って学習椅子を引いて、先生は部屋を出ていく。先ほどよりも幾分か空気が軽くなった気がする。ぼうっとしていた頭が呼吸するたびに澄んでいく感覚。左手にある窓からは、静かに粉雪が降っている。さっきまで晴れていたのに。一人で資料室に待たされていると、たった数分かもしれない時間が、とても長く感じる。まるで取り調べみたいだった。学習机を向かい合わせて、一メートルちょっとしかない距離で先生を見つめあう。
今さらになって心のもやもやが大きくなってきたのか、雪の降るさまを見ているだけで、目頭が熱くなった。泣いていると思ったら涙が止まらなくなる。私は可哀想じゃない、辛くない、大丈夫、苦しくなんかない、助けなんていらない、あと一ヶ月だからあっという間だよ、大丈夫、大丈夫だよ。学校指定のジャージの袖口で目頭を強く押さえながら、何度も何度も大丈夫だからと繰り返す。辛くなんてない、私は誰にも負けてなんかないんだから。決別するんだ、みんなと。辛くなんてないんだ、私は弱くなんてないから、大丈夫だから。
そう何度も呟いて、弱くなんてないと思うたびに目頭を濡らしながら、先生が来るまでの短い時間に、私は私を殺し続けた。戻ってきた先生から受け取った控えめな給食。ありがとうございますと言うと、無理しないで帰っても良いんだぞと言われた。厄介者にいられるのは迷惑だから、そう言われている気がして、私は首を縦に一度。後で保健室に荷物を置いておくから。そう言って出ていった先生にばれないように、私はまた目頭を熱くした。
自分からの拒絶も、相手からの拒絶も、私の心を壊すのには充分過ぎる。ばれないように声を押し殺したけれど、鼻水も涙も止まらなくて、給食は手に付かなかった。結局その日は迎えに来てくれたお兄ちゃんに支えられるようにして家に帰った。安心感でまた泣いて、泣けば泣くほど救われるような気になって、泣き止んで生まれる虚無感が辛くて、いつまでもいつまでも泣き続けた。
そんな優しい兄は、今私の隣にいて、いやらしそうに笑っている。大好きだった兄に助けられたあの日から月日が経ち、一度入った市立高校から今の私立箔星高等学園に転入して、数日が経った。始まりは兄が迎えに来てくれた中学のあの日。こうしたら辛さが紛れるからと言って、兄は泣いていた私に唇を落とした。兄の気持ちが赴くままに兄は私を好きにしていた。私と五歳も離れた兄は、特別見た目が良いわけではなかったけれど、彼女はいたんだろう。
あの日の涙は、学校の辛さだけじゃなかった。
「みたか」
熱っぽい声色。もう何度目だろう、こうして夜を一緒に過ごすのは。私の耳にかかる兄の吐息も、素肌にまとわりつく兄の手も、私の手に握らせた兄のものも、ああ、全部が気持ち悪くて仕方がない。
「分かる? 俺さぁ、お前の手でしてもらうの好き」
「んっ、ほら、大きくなってきた」
嬉しそうに吐息交じりで、兄が言う。兄の喜びは分からない。こんなに気味悪くて気持ち悪い夜が、これからも続くと考えるだけで胸が苦しくなる。兄が嫌だ。昔と違って、大学に通ってから気味悪くなった兄が。兄の手が私の手を包んで、自分の満足するように動かし始める。直接触らせられて伝わるその質感や、熱量だって、きっと私はまだ知らなくてよかったはずなんだ。気持ち悪さが、怖さになって私を襲う。
どれくらいの時間が経ったか分からないけれど、兄は一度震えて、私の手のひらに欲を吐き出して自室に戻っていった。ひどいにおい。兄の手にさせるがままだったから、手のひらだけじゃなく、指にもそれが付いている。枕元に置いていたティッシュでふき取り、ゴミ箱に捨てる。もう寝ようと思っていたところだったけれど、いやな目の覚め方をしたせいで、眠気がこなくなってしまった。
ティッシュを捨てたゴミ箱を感慨もなく数秒見つめ、部屋を出た。まだ窓を開けたら寒い時期だから、手を洗ってリビングで過ごそう。ついでに一階で充電しっぱなしだった携帯も回収しなくちゃ。階段を、足を踏み外さないように静かに降りる。父さんが前に老後が心配だからといって取り付けた手すりが、私を支えてくれている。手すりがなかったら、踏み外して転ぶことだってあり得るだろうから、父さんの判断は正しいと思う。隣で駄々っ子みたいに母さんは怒っていたけど。
しんと静まり返ったリビングの電気を付け、台所の電気も付けて、移動して洗面所の電気を付ける。ボイラーは切ってあったけれど、お湯が沸くのも待っていられず、冷水を出して手を洗う。石鹸をつけて、左手が痛くなるくらい爪で丹念に。まだ熱が残っているような感じがして、手が冷たくなるまで、石鹸を流し終えた後も水にさらした。充分手が赤くなったような気がしたから、タオルで手を拭く。来た時とは逆で、洗面所の電気を消して、移動して台所の電気を消し、ソファに座る。
テーブルに置いていた携帯から充電器を取り、スイッチ式の延長コードのスイッチを切り、充電器を外した。転校してまだ日が浅いけれど、仲良くしてくれる友達が多い。クラスのラインはいつも活気があって、一時間くらい前までメッセージが来ていた。内容をざっと確認し、個別に来ているメッセージに返信していく。前の席に座る真子ちゃん、真子ちゃんの親友の亜美ちゃん、隣の席の藤島くん。亜美ちゃんは隣のクラスの子だけれど、真子ちゃんと一緒にご飯を食べるようになってから仲良くしてもらっている。
藤島くんとのメッセージのやり取りが始まったのは最近だったけれど、律義に返信をくれる様子を見ていると、奏くんと話していた時の自分が思い出される。きっと私も必死だった。夕莉ちゃんには悪いことを言ってしまったし、もう会う事もないだろうから謝れないけれど、誰にも奏くんを取られたくなかった。当時私は携帯を持っていなかったけれど、奏くんはどうだったんだろう。もし持っていたら、携帯じゃなくても、パソコンを奏くんが持っていたら、メールをし合える仲でいられたのかもしれない。
おやすみ! と元気なメッセージに、おやすみなさいと返信を済ませ、意味もなく友人欄を眺める。奏くんはどんな名前でこのアプリを使うんだろう。町井奏かな、でもおしゃれだったからローマ字とかにするのかな。いない人、それも好意を寄せていた人のことを考えると、幸せな気分で心が満たされていく感覚がする。奏くんと、面と向かって言えていたあの頃の私。奏くんはどの高校に入ったんだろう。日本人離れしたその容姿や、どの科目も卒なくこなしていて、点を取るべき時にはしっかり得点できる人だった。
私立の良いところに行ってそう。今も私のこと覚えててくれているかなぁ。ソファの上で三角座りをしていろんな人の一言欄を目にすると、自然に奏くんのことが頭に浮かぶ。あの頃は好きっていうのが分からなかったけれど、今は分かる。奏くんのことを考えていたら、さっきまでの嫌な気持ちより幸せな気持ちの方が大きくなった。これがきっと好きってことなんだろう。今になって、前よりもっと奏くんの事が気になってしかたない。
いい加減寝ないと明日の授業中に寝てしまうかもしれない。寝ようと思い立ってからやってくる睡魔と欠伸。携帯でアラームをセットしながら部屋へ戻り、ベッドに寝転がる。嫌な体温、嫌なにおい。私の嫌なものばかりが増えていく部屋だけれど、今はつらくなかった。記憶の中の奏くんの笑顔を思い出して、おやすみを伝える。気持ち悪いことだったけれど、それでも安心して夢の中へと逃げ出せた。
無機質なアラームの音が部屋に響く。
すっきりしない頭で携帯をいじり、けたたましく響くアラームを止めた。ここで寝ころんだままになっていると二度寝してしまうから、ベッドから出て大きく伸びをする。背中をぐっと伸ばすと、「んぅー」と声が漏れた。だらんと力を抜いて、つい数時間前と同じように階段を降りる。寝る前と違うのは、部屋を出てすぐに美味しそうなご飯のにおいがすること。お母さんの作る朝食はたいてい和食で、今日もお味噌汁のにおいがした。
「おはよ」
一足先にご飯を食べていたお父さんと、料理を盛るお母さん。
「ん、おふぁお」
「おはよう、みたか。彰人さんは口に物入れたまま話すのやめて」
「ん、……すまん」
お母さんはお父さんのことをずっと彰人さんと呼ぶ。物心つく前からそう呼んでいるから私は違和感なく過ごしているけれど、中学の頃、奏くんが唯一遊びに来た時には、驚いた表情をしていた。日常の小さな出来事から、奏くんを思い出す瞬間はやっぱり幸せな心地になる。用意された食事に手を付ける前に、洗面所で洗顔を済ます。鏡越しの自分は上手に笑えているようで、少し安心した。
顔を拭いたタオルを洗い物ようのバスケットに入れ、食卓の椅子に座る。お父さんは食べ終わったみたいだったけれど、私の普段座っている場所の正面にまだ座っていた。お母さんが隣でご飯を食べ終わるまで、お父さんは席を立たない。私の隣に座るはずの兄はまだ降りてきておらず、盛り付けされた皿はラップをかけられていた。玄米ご飯に鮭のハラス、お豆腐とワカメのお味噌汁。質素なご飯が好きとお母さんに手紙を書いてから、朝ご飯は質素になった。
お父さんが微笑みながらお母さんに話しかけて、お母さんも嬉しそうにお父さんと話しをしている姿を毎朝見るが、本当にこの二人は仲がいいんだなと思う。転校してから両親の話になったときに、みんな驚いていたなぁ。お母さん達のイチャイチャが始まる前に食事を済ませ、食器を流しに置く。歯を磨いて、着替えたら学校を出る時間だ。いつも通り身支度を終わらせ、家を出る。