複雑・ファジー小説

Re: 失意のセレナーデ ( No.3 )
日時: 2018/06/19 21:47
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: rtfmBKef)


 少し冷たい風が吹いていて、日陰にはまだ雪が積もっている様子も見られる。こっちに越してきて初めての春は、、何もかもが新鮮だった。ついこの間桜が咲いたと思ったらすぐに桜は散ってしまったし、東の方では雪が降ったなんて報道もされていた。向こうにいたらあり得ないことばかりで、ここにきて良かったと感じる。向こうよりも人があたたかいような気がするのだ。手袋をつけて自転車に乗り、駅を目指す。同じように通学する人は手袋なんてしていなくて、まだまだ一緒にはなれないなぁと思った。
 駐輪場に自転車を置いて、カバンに手袋をしまう。以前手袋をしたまま登校したらみんなに驚かれてしまったから、その日以来最寄りの駅についてから手袋をしまうようにしている。アナログの腕時計は電車が停まる五分ほど前を指しており、小走りでホームへと向かう。ICカードを改札にタッチし、ホームへ降りた。スーツを着た人が多い、それと学生も。同じ学校に通う生徒は一人もおらず、少し寂しい。

 一緒に登下校をできる友達がいたなら、片道一時間ほどの通学だって苦ではないのだろう。二つ隣の駅から来た電車に乗り込み、対面仕様の座席の半ばに座る。携帯には昨夜返信した人たちからのメッセージ通知が来ていた。それに返信をしていく。真子ちゃんは今日見た夢の話、亜美ちゃんは今日の授業について、それと、藤島くん。まだ距離感が分からないから、藤島くんも私もお互いに普段は敬語のまま話していて、今朝の話題は英語の授業で順番が回ってくること。
 授業前には藤島くんが気を使ってくれて、必要な教科書や先生の特徴、次はどこから始まるかまで教えてくれる。太陽みたいににっこりと笑う姿が印象的で、下の名前が空だと知った時には、ああ、この笑顔を守ってるんだなぁと思った。サッカー部に入っていることや、選抜に入りたいという藤島くんの思いも教えてくれた。将来の姿がはっきりとしている子で、私なんかとは違う世界にいる気がして、少し息が詰まる。

 英語の和訳は自信がないので、真子ちゃんとも確認しませんか。普通に話す分には敬語は外れるとしても、男の子とメッセージのやり取りをすることになるなんて思っていなかったから、文章は固くなってしまう。電車に乗り込めば同じ車両に、私と同じ箔星の制服を着た生徒がちらほらと見られる。通路を挟んでほぼ正面に座る男子生徒は、襟元に銀字で「A」が施された紺色のピンバッジを付けていた。そのおかげで、男子生徒が数理特進科の人だということが分かる。難しそうな英語のテキストを、赤シートを使って見ているみたいだ。
 真子ちゃんが理特にとても頭が良くて顔も整っている人がいると言っていたけれど、この、前に座っている人と同じクラスなのだろうか。そんなことを思いもするが、実際にどうかは分からなかったから、そのまま視線を携帯に落とす。藤島くんからは元気いっぱいなメッセージが来ているから、それに返信を済ます。何駅か停車し、通り過ぎて、だんだん都会になっていく車窓をぼんやり眺めた。イヤホンからはどこの局かは分からないけれど、ラジオが流れる。交通情報やニュースを知ることが出来るこの時間は、貴重だ。
 おばさん臭い趣味だけれど、この時だけは兄の事を忘れられる。家に帰ることが出来るより、家から離れられる登校の時間が大好きだ。学校まで電車に揺られる三十分。昨夜のせいで睡眠が足りていないのかもしれない。普段なら眠たくならないけれど、今日は目を閉じていると自然に睡魔がやってくる。何度か瞬きをしてみたり、眼鏡を直してみたりしたけれど、結局すぐに眠ってしまった。

「あの……駅、もう着くよ」

 心地いい声がする。

「えっ、ちょ、お前見てないで助けろよ!」

 聞いたことがあるような、ないような。

「仕方ないなー。三条さーん、起きて—。空の肩口に可愛い顔すりすりしないでー」
「優大おまっ! 言い方!」

 そら。ゆうだい。ぼんやりとしながらだったけれど、聞いたことがある名前。重たい瞼が上がり、眩しい視界の中で、男の子が私の顔を覗き込んでいるのが分かる。

「あ、起きた。おはよ、三条さん」
「……おはよう、ございます」

 黒い眼鏡。にっこりと笑う顔があどけなくて可愛らしい。右腕や右の頬に伝わる熱が、心地よい。まだ寝惚けている感じがする。ゆうだいくんが、私の隣を指さして、またにっこりと笑った。何があるのか分からないけれど、体を起こす。熱が離れていく感覚がして、誰かに寄り掛かっていたことが分かった。おそるおそる、その人物を見上げる。
 同じ学校の、男子の制服。ジャケットのボタンをしめているのに、ネクタイはつけていない。どこか居心地悪そうに視線を遠くにやって、耳を赤くした人。

「まっ!」

 思わず椅子から立ち上がる。待ってどうしてうそでしょ。寝起きの頭は大混乱だ。楽しそうに声を殺して笑うゆうだいくんが見えたけれど、それどころじゃない。

「ふっ、藤島くん……! ごめんなさい私、その、あの、ごめんなさい!」

 じりじりと後ずさりをし、ちょうどよいタイミングで開いたドアから出て走る。人が多くて思い通りに進むことが出来ないけれど、今は何より恥ずかしさで熱くなった耳や頬を、二人に見られたくない。改札を抜けてからも、普段ならゆっくり歩く道を学校を目指して早歩きで行く。藤島くんの肩を借りて寝てしまっただなんて、ほかのクラスの人に見られてしまったらどうしよう。一心不乱に、人目も気にせず急いで学校に着いたのは、いつもより十分も早かった。
 ほかの生徒たちと違って肩で息をする私を不思議そうに周りの人たちが見てきた気がするけれど、それよりも朝、私が藤島くんにしていたことの方が恥ずかしさをあおって仕方がない。それに確か、ゆうだいくんという人は、藤島くんがよく名前を出す親友ではなかっただろうか。はあ、と大きくため息をついて教室に入る。まだクラスメイト達はあまりそろっていない様子だ。
 いつもより早く着いたため、いなくても仕方がない。そう思いながらまだ慣れないクラスメイト達と挨拶を交わしながら、自分の席に着く。

「おはよーみたかちゃん。顔なしたの、真っ赤だよー?」
「あ……おはよう、真子ちゃん。何でもないよ」

 クラスメイトの陰で姿が見えなかったけれど、真子ちゃんが寄ってきた。席が近いこともあって、仲良くなることができた子。今、一番仲良くしてもらっている。

「あのさ、真子ちゃん」

 鞄を置きながらそう切り出すと、真子ちゃんは藤島くんの席に座って、何々と嬉しそうに言った。なんだか周りから注目を浴びているような、みんなに話を聴かれているような感じがして、自然と声が小さくなる。

「真子ちゃんって、電車で、その、隣の人の肩に、あ、あたま……」
「あたま?」
「う、うん。頭その、載せちゃったりしたりって……したことある……?」

 思い切ってそう切り出すと、真子ちゃんは大きな目を何度か瞬きをして、ゆっくりと首を振った。そしてすぐに「えっもしかして!」と、目を輝かせる。

「えっみたかちゃん恋? 恋かな!」
「へっ」
「そのドキドキもやもやはね! きっと恋だよみたかちゃん!」

 大きな声でそう言いながら立ち上がった真子ちゃんに、クラスメイトからの視線が集まった。