複雑・ファジー小説

Re: 【短編集】忘却の海原 ( No.4 )
日時: 2015/11/25 09:50
名前: 一二海里 ◆d.b5UMeNLA (ID: EZ3wiCAd)


『犬と狼の間』


 フランス語の古い表現で、「犬と狼の間」という表現がある。
 人に飼われている犬が寝床に戻り始め、野生の狼は逆に活動を始める時間帯、つまり黄昏時を指す言葉だ。辺りが暗くなり始め、犬と狼の区別がつかなくなる頃、という意味でもある。転じて、慣れ親しんでいて安心できるものと、よく分からなくて危険なものの境目、という意味もある。

 高校時代、私のクラスの現代国語を担当していた教師は毎週作文の課題を出してきた。題材は自由で、何を書いても一応の評価が得られたが、その評価の裁量はその教師に委ねられている。
 それでも点数がつき、成績上位者数名の作文は一週間教室に掲示された。それを恥ずかしがって、態々稚拙な文書を書く者やそもそも提出しない者も絶えなかったが、私はそういったところでも点数を稼ぎたい矮小な人間なので、毎週真面目に書いて、毎週掲示されていた。
 当然、評価する先生自身が私に理解のある人物だったこともあるのだが。
 二年生の夏休み明け、それまで私達の現代国語を教えていた先生が体調を崩し、代わりの教師が教鞭をとることになった。
 しかしこれがまた曲者で、非常に生真面目な性格の若い女の教師だった。ただの生真面目な性格ならまだ良かったが、彼女は冷戦の真っ只中にあって政治的左派で、授業中戦前の文学をやるとまずこの当時の日本を扱き下ろし、ナショナリズムは悪の主義だとまでいった。
 作文の評価にもそれは反映され、私の作文は二学期の頭から早々に教室の壁から姿を消すことになる。点数の低さに、私は静かに腹を立てた。文章の構成は良いが、内容に大きな問題があると評されていたことにも腹が立った。私自身がナショナリストであり、私の作文もナショナリズムに基づくためだし、その女教師の、教員という立場を利用して露骨に政治的信条を振りかざす態度が気に食わなかった。
 ——こいつは面白くない。

 その頃、消えた私の代わりに教室の壁に登場した者が居た。
 丁度、教室で私の前の席に座っていた女子生徒である。肩までを隠す黒髪に切れ長の目、色白の肌、すらりと伸びた脚、そしてスタイルの良い長身。まさしく容姿端麗だが、その妖艶な容姿に対して小心者で、自分の発言で誰かが傷付きはしないかという杞憂から生まれる物静かな性格は、端麗な容姿と併せて、周囲に人を寄せ付けず、友人がなかった。
 私は彼女の数少ない友人であった。
 彼女はこのテレビっ子世代にして映画好きで、特に洋画が好きだったことから、私とは何かと趣味が合致したのだ。家も近所だったため、私は度々彼女と映画を見に行ったり、借りてきたビデオを一緒に鑑賞したりしていた。
 彼女の一家は彼女が高校に上がったのに合わせるようにして引っ越してきたらしく、彼女の母親は最初のうちは私が家を訪ねる度、怪訝な顔をした上で茶を出す名目で私と彼女が二人でいる部屋を訪ねてきていたが、その内私と彼女が本当にただの友人として付き合っているのだと認識したらしく、やがて私が訪ねてきている間でも家を留守にすることすら厭わなくなった。
 彼女は部活動に所属しておらず、一方で私は写真部に所属していたため、帰りは別々だったが、通学路もほぼ同じなので、毎朝同じ時間に並んで歩きながら映画のことや、新聞で見た話題を語り合った。
私はクラスでこのことを時々からかわれた。元々私もあまり人を寄せ付ける性質ではなく、誰とでも仲良くするタイプの人間ではない。どちらかというと物静かな方で、しかし人並みの社交性は持ち合わせているつもりだった。それは私がろくな愛国心もなくその気もないのに特攻隊を気取っている輩や、マスメディアのいうことを鵜呑みにして簡単に流される連中を見下していたためで、いうなれば付き合う人間を選んでいるだけのことだった。その私が容姿端麗で物静かな彼女と仲良くしているだけでなく、お互いの家にまで上がり込んでいるのだ。多感な年頃である高校生がこれを冷やかさない筈はなかった。
 彼女がどうかは知らないが、少なくとも私は下心から彼女と仲良くしていたつもりはなかった。容姿だけで言うのなら隣のクラスに彼女と並ぶ端麗な容姿の持ち主は居たし、物静かな性格は私が近付く理由にならない。何より最初に話しかけてきたのは彼女である。ただ趣味の一致と自宅の近さだけが私と彼女の接点であった。

 『トップガン』が日本で公開されたのは丁度その頃だった。彼女は早速映画のチケットを入手し、観に行こうと誘ってきた。その週の日曜日は写真部に来るように言われていたが、「なるべく来るように」という曖昧なものだったため、部活の方は蹴った。そんな曖昧で退屈な部活動より、『トップガン』を観たかった。
 二時間程のその映画を観終えた後、映画館を出て彼女とカフェに立ち寄った。
「面白かった」
 注文を決めてから、奥の方の席で向かい合って座る。ぽつりと彼女が呟いた。
「ねえ、雄猫に乗っかる気はない? 私は飛行力学を研究するから」
 微笑んで言う。彼女は洋画好きが高じてか、時折西洋的なジョークを口にする。私もジョークにはジョークで返す。彼女流であり、私流であった。
 「雄猫」というのは『トップガン』に登場したF14戦闘機のことだ。
「僕がトム・クルーズで、君がメグ・ライアンか。残念だけど、僕じゃ無理かな」
 私は自分の目尻を指差しながら返す。目が悪いと飛行機のパイロットにはなれないらしいと聞いたことがあったし、『大空のサムライ』を読む限りは飛行機乗りには高い身体能力とやはり視力が要求されることは明白だった。何よりあの機に乗るには米海軍に入隊しなければならない。
「なら、私もやめた」
 彼女はまた微笑んだ。聞くところによると、私は彼女が自然な表情を向ける数少ない人間らしい。彼女の母親に指摘され、学校で少し注意深く観察してみると、確かに彼女は私以外の者に対しては大体読書に疲れたような憂い顔だ。先程のようなユーモアも、私以外には見せない。
 それから他愛のない会話が続き、注文したコーヒーが来て、それを飲み乾してからも一時間程その場に居座った。店を出て、また彼女が私だけの表情を私に向ける。
「ねえ、作文の書き方を教えて」
 度々お互いの家に行く間柄ではあったが、お互いの作文を見せ合ったりしたことはなかった。別に作文が嫌いだったというわけではないし、先述の通り、彼女はかつての私と同じように教室の壁の常連だ。別に教室の壁自体に拘りはなかったし、教室の壁から私の作文が消えただけで私の自尊心が傷付けられるようなこともなかった。しかし案外と彼女は私が気にしていると思っていたのかもしれない。単純に彼女も話題に挙げる程のことでもないと思っていたのかもしれないが。
 兎に角、作文の話題が出たのはこの時が初めてだった。
「何故に?」
 私はほぼ反射的に、そう聞き返していた。恐らく怪訝な表情もセットだ。
「私、いつも貴方の作文を参考にして書いていたの。掲示されなくなって、残念に思ってる」
 彼女は少し伏し目がちに言う。夕日によって、彼女の白い頬に少し赤みが差した。
「私は貴方の作文、好きだよ」

Re: 【短編集】忘却の海原 ( No.5 )
日時: 2015/11/25 09:54
名前: 一二海里 ◆d.b5UMeNLA (ID: EZ3wiCAd)

 私は彼女を少し利用してやろうと画策した。我ながら褒められた精神ではないだろうとは思う。だが、そうでもしなければ私の腹の虫は治まりそうになかった。今思い出しても評定につけられた「内容に問題あり」の文字には腹が立つのだ。つまり、あの女教師にひと泡吹かせてやろうという魂胆からの行動だった。なんと矮小な人間だろう、私は。
 まず、私が最初に彼女に勧めたのは、テーマ選びの上で教育や組織を題材に扱うことだった。私自身がいつも政治と愛国を題材にしていたのもあってのことだし、彼女自身もその題材に対して意欲的だった。
 三学期が始まり、最初の一週間は実験的に国家という組織を批判する内容で書かせることにした。話し合いながら書き、私の持っていきたい方向に持っていく。彼女は、言葉遊びは好きだが得意ではないことを知っていたので、誘導は簡単だった。
 実験は成功した。彼女の作文は教室の壁に掲示され、題材が題材だったので生徒の注目もある程度集めることが出来た。これで第一段階は達成となる。
 次に日本の教育組織について批判する内容に持っていった。その前の年に、中学校の生徒がいじめを苦に自殺し、教育委員会と学校がそれを隠蔽した事件が起こっており、過去に例がなかったために大事件となったが、それに準えた。
 これは大成功だった。教室の壁に掲示されたのは勿論、生徒の注目も集めた。同調して学校組織を批判する内容のものを書くクラスメイトが翌週には現れるくらいに。
 一方で、私はこの時あることに気付いた。
 これだけの作文を書いた彼女に、誰も声をかけようとはしないのだ。相変わらず自席に憂い顔で座っている彼女は、誰からも話しかけられることもなく、当然自分から誰かに話しかけるようなこともなかった。私はこれを好都合ととった。私が彼女を「教導」していることなど、誰も知らない。
 翌週は教師と生徒の関係を題材にさせた。師弟関係を築くことで教育はスムーズに進むが、築けなければ上手くいかない、という趣旨の内容だ。女教師は気付かなかったようだが、実はこの作文には二つの意味が内在している。一つは言葉通りの意味で、女教師はこちらで解釈したのだろう。もう一つは、これを裏返して、信頼の出来ない教師に対して生徒は従う必要はない、という意味があったのだ。四十人近くの作文を一日で採点するのは大変なことだろう。その作文を一つ一つ考察することなど不可能な筈だ。私の勘は当たった。
 件の女教師の無能性の一つは、自身が生徒と信頼関係を築くことに成功していると勘違いしていることだった。私達のクラスが授業中に静かなのは教師に対する信頼からのものではなく、消極性からくる沈黙である。女教師はこれを見事に履き違えていた。
 私は教室の壁に貼り出された彼女の作文を友人との話題にした。考察したように見せかけた。信頼のおけない教師に対して、従う必要はあるのかと説いた。普段、私にすればただの友人の一人に過ぎないが、彼を選んだのは、彼が話好きな性格であることを考慮してのことだ。案の定、彼は彼女の作文の話題を教室中に広め、更には別のクラスにまで波及した。
 元々授業態度が良いとは決していえない学校である。流行りの不良生徒も居たし、教員の中には生徒に対して威圧的な態度をとる者も居て、それに反感を抱える生徒も少なくなかった。彼女の作文の同調者が今度はこの話にも同調するのはごく自然の事だったのだろう。クラスは、徐々に崩壊しつつあった。
 一方、不思議なことに、未だに彼女自身に話しかけようなどとする者は現れない。教室で彼女に日常的に話しかけるのは私だけだ。それだけが不思議だった。
 また、この頃、やけに私の思い通りに動く彼女を、私は犬のようだと思った。狐を追う猟犬だ。彼女の作文はクラスに同調者を生み出し、その同調者達という猟犬仲間を率いて女教師という狐を追う。当の狐はこの段では未だ自身が追われていることに気付いてなどいないのだが。

 翌週も似たような題材で書かせた。今度はもっとストレートな表現で。評価はいつもより低かったが、彼女よりマシな作文は定数を上回らなかったようで、結局教室の壁に過激な作文が並んだ。序でに、私の作文も教室の壁に復帰した。題材は相変わらずナショナリズムに基づくものだったので、私はこれで女教師への「お返事」を終えたつもりでいた。
 しかし、この日女教師は授業の終わり際に私達に一つ説教を垂れた。「内容は自由だと言いましたが、限度があります」と。これがいけなかった。クラスの中でも元気なグループが次の授業からサボタージュを始め、こっ酷く叱られたがそのグループの行動はクラス全体に波及した。私は無責任にも傍観を決め込むことにしたのだが。
 その週のある日の放課後、部活動を終えて帰宅しようとした時、ノートが一冊鞄に入っていないことに気付いた。終礼時に鞄にものを詰めた時の記憶が曖昧で、教室に忘れてしまったのだろうかと考えた私は、態々三階の教室まで取りに行くことにした。ただのノートであれば良かったのだが、生憎と翌日提出の課題に使うものだったからだ。下賤な私はこんなところでも点数が欲しかった。
 教室の戸を開けると、そこには見慣れた少女が一人で座っていた。彼女は戸を開く前から私に気付いていたのか、私が彼女の方を見るなりこちらに微笑んだ。外はもう日が落ち、窓の向こうには疎らな街の明かりと薄闇だけがある。彼女の白い肌はこの薄闇の中でも浮いて見え、その光景は年齢に不釣り合いな妖艶さを醸していた。一方で私の方はというと、ただ単純に面喰っていた。
「まだ居たのかい」
 取り敢えず言葉を紡ぐ。紡ぎながら、自分の机の方に歩み寄り、引き出しの中を覗き込む。彼女はその様子をじっと眺めていたらしく、少し間を置いてから口を開いた。
「待っていたの」
 私は反射的に「誰を」と聞き返した。目的のノートを発見し、引き出しの中から引っ張り出す。
「誰が居るの?」彼女はクスクスと笑った。笑い方まで品のあって美しいことだ。
 思わずノートを引き出す手が止まった。彼女に見惚れての事ではない。飽きる程見覚えのある彼女の表情だったが、今のは分からない。彼女の言葉の意味どころか、今の彼女自体が分からない。私は少し考えたが、返すことが出来たのは彼女の言葉に対する返答だけだった。
「部活が終わるまで待つことないじゃないか」
 目線を下ろし、ノートを引き出して鞄に放り込む。彼女は黙っていた。私は鞄を肩に掛けると彼女の方に視線を戻した。彼女はまたクスッと笑って、立ち上がる。
「また壁に掲示されて、嬉しい」
 私の作文のことだった。彼女は私の作文のファンだった。立ち竦む私の横を、彼女は歩いていく。彼女が教室の戸の前まで移動する間、私はその場に立ち尽くしていた。
「帰ろっか」
 彼女が振り向きながら微笑み、私達はそのまま帰路に就いた。
翌日以降も私が何か忘れると、彼女は決まって教室で待っていて、帰路を共にすることが増えた。

Re: 【短編集】忘却の海原 ( No.6 )
日時: 2015/11/25 18:11
名前: 一二海里 ◆d.b5UMeNLA (ID: gF4d7gY7)

 クラスは完全に崩壊していた。授業中にも関わらず私語が飛び交い、生徒は平気で立ち歩く。そこに教員は居ないも同然だった。僅か一ヶ月足らずで私の指導の元、彼女はクラスメイト達の扇動に成功したのだ。件の女教師の授業も例外ではない。彼女がいくらヒステリックに注意しようとも、無意味だった。
 一方で、作文で人を扇動することに成功した彼女はというと、授業中も静かで、しかし教科書やノートを机の上に置いておくばかりで開こうともしない。彼女なりの、周囲に比べれば遥かにささやかなサボタージュだった。私も似たような状態で崩壊した授業を見ていたが、私の場合は教科書やノートを机の上に出しておくことで「自分は問題生徒ではない」とアピールするための、いうなれば保身だった。
 彼女は、この状況が私の意図によるものだったことに気付いているのだろうか。彼女は最後まで物言わぬ扇動者であり続けた。無言で君臨していた。猟犬達を従えて狐を追っていたリーダーは、仲間の猟犬達が狐を獲らえる様を静かに見守っていた。
 私は彼女を犬のように撫でてやりたくなった。「よくやったぞ」や「お疲れさん」などと言いながら、まるで狩人が猟犬にそうするように。
 翌週はもう自由に書かせた。題材も彼女自身が選び、私は殆ど手を加えなかった。結果はいつも通りで、彼女の作文と私の作文が一緒に教室の壁に貼り出された。作文の提出率自体が半分を切っており、どんなことを書こうとも大体掲示されるような状態だった。彼女の作文は、提出の直前に私も流し読んだが、驚くべきことに、内容は私が手を加えた時より過激に思えた。特にあの女教師を暗に指して、教員は自身の政治的な信条を教育に持ち出すべきではない、などと痛烈に批判したのだ。
 金曜日の放課後、職員会議で全ての部活が中止になり、私はいつも通り彼女と帰路を共にした。職員会議の議題は分かり切っている。三学期の半ばになって、何故急にこんな事態に陥ったのか、そしてそれをどう解決していくべきなのか、といった辺りだろう。まさか一生徒の作文が原因だとは思うまいが、裏を返せばたったそれしきのことで簡単に崩壊する程、この学校の生徒と教師の関係は脆かったのだ。
「ねえ、明日は空いてる?」
 少し考え、明日は予定がないことを伝える。彼女は急に年相応の無邪気な笑顔を見せた。
「じゃあ……」
 黄昏時。向こうから歩いてくる動物の姿を見て、それが犬であるか狼であるか、判断に迷う。

 フランス語の古い表現で、「犬と狼の間」という表現がある。
 人に飼われている犬が寝床に戻り始め、野生の狼は逆に活動を始める時間帯、つまり黄昏時を指す言葉だ。辺りが暗くなり始め、犬と狼の区別がつかなくなる頃、という意味でもある。転じて、慣れ親しんでいて安心できるものと、よく分からなくて危険なものの境目、という意味もある。
 彼女は、本当に私が飼い慣らした猟犬だったのか。彼女は猟犬のリーダーなどではなく、実は群狼のリーダーだったのではないか。後者の場合、彼女が群狼を率いて狙った獲物はなんだったのだろうか。その場合、彼女にとって私はなんだったのだろうか。
 そこまで考えた時、私の思考は急に現実に戻される。
 今、彼女はなんと言った?
「すまない、もう一度言ってくれないか」
 私は無意識に立ち止まっていたらしく、少し前を歩いていた彼女は振り向いて言った。
「今夜、うちに泊まらない? お父さんもお母さんも留守なの」
 夕日に照らされた彼女の、犬だか狼だかもう分からない彼女の、美しい顔に少し照れくさそうな笑顔を浮かべた彼女の、その瞳に私は背筋に冷たいものを感じた。
 この狼の獲物は——