複雑・ファジー小説
- Re: ワンホット・アワーズ ( No.12 )
- 日時: 2015/12/06 22:25
- 名前: 楠木ひよ ◆IvIoGk3xD6 (ID: DYDcOtQz)
戸羽さんの軽さには驚くばかりだ。まだ彼氏とは「別れそう」の段階なのに、ちょっと顔のいい明治に簡単に釣られて、これから渋谷で会うらしい。風が吹いたら飛んで行きそうなくらい軽いと思う。柚寿がそんな女じゃなくてよかった。どうせ、明治と戸羽さんは付き合ったとしても持って一ヶ月だなぁ。駅に消えていく明治を見送って、柚寿を迎えに行くために逆方向へ歩き出した。
土日はもちろんスクールバスはない。柚寿は母親の車で学校に行っていると聞いた。僕の両親は車を持っていないので、何度か柚寿の母親の車に乗せてもらって学校へ行ったことがある。
「あー、そうだ。記念日」
誰かに向けて吐いた言葉ではない。でも、口に出しておかないと忘れてしまう気がした。アリの巣みたいに人間がうじゃうじゃしているこの街に、落としてしまったものはいくら探しても見つからないだろう。駅で適当に高いネックレスでも買って渡せば柚寿は喜ぶかなと思い、ふと財布を見ると、そこには一万円札が1枚入っているだけで。昨日、欲しかった革靴を買ったから無くなったんだっけと、ようやく思い出した。プレゼントはまた今度買いに来よう。今は柚寿との待ち合わせ場所へ急ぐことにした。
柚寿には、できるだけ高価なモノを買ってあげたい。柚寿は友達が多いので、なにかがあればすぐに広まる。安物なんかプレゼントした日には、戸羽さんあたりに叩かれて、女子からの評判が悪くなってしまうだろう。……1万か。足りない、全然足りない。
僕の小遣いは月3000円であり、柚寿は僕の5倍貰っている。柚寿はうまくやりくりして、友達と遊ぶ金やほしいものを買う金を作っているらしいが、僕の3000円ではやりくりも糞もない。だいたい、母さんは弁当を作る暇もないので昼ごはんは購買で買わなくてはいけない。毎日200円のパンと120円のジュースを買ったとして、それが一ヶ月続くとしたら、もう僕が自由に使える金なんてないじゃないか。
無意識のうちにスマホを取り出していた。連絡をする相手は柚寿でも明治でもない。戸羽さんや明治や、柚寿や僕の母や、クラスの友達から来ているラインをすべて無視し、僕は早急に電話のアプリを起動する。あいつは、ラインなんてやっていない。「これで最後にしよう」と何回も思っているので、番号は連絡先に登録していない。でも、指は正確にあいつの番号を覚えている。
「……もしもし。矢桐です」
ワンコールで、あいつは電話に出た。妙な安心感が全身を襲う。
「もしもし、青山だけど。今日文系組は授業だったろ? 僕新葉の駅にいるから、いつものよろしく」
「……僕、今3万しかないけど?」
「こっちは1万しかないんだけど」
「……」
電話が切れて、無機質な途切れ途切れの電子音だけが残った。無言の了承と言うものだ。
柚寿は友達と話したり、わからないところを聞いたりしてから来ることが多いので、まっすぐ帰ってくる矢桐から金を受け取って、柚寿との待ち合わせをしている柱時計の前へ行けば丁度いい時間になるだろう。
矢桐の家は金持ちだった。父親が医者で、母親が大学の教授らしい。中学3年生の時、受験勉強でイライラしていた僕は、クラスでも地味でおとなしい矢桐を密かにからかって遊んでいた。むろん、こういうことをすれば女子や教師からの評判が悪くなるので、密かに、である。
その頃の僕の小遣いは月1000円だった。まあ、中学の頃は部活が忙しかったし、公園や河川敷でぎゃーぎゃー走り回ってるだけでも楽しかった時代だ。でも僕は、どうしても友達の明治が持っているプレイステーションが欲しくて、毎日悶々としていたのを覚えている。
中3はあっという間に過ぎ、すぐに正月が来た。「パチンコで勝った」と言って珍しく機嫌が良かった祖父は、僕に裸の1万円札を渡した。僕は、こんな大金を初めて見た。あと少し貯めれば中古のプレイステーションが買える。でも、服だって欲しかったし、古典が苦手だったから古語辞典も欲しかった。
ある日興味本位で、僕は矢桐にお年玉の金額を聞いた。僕はその頃、矢桐を「自分よりも下の人間」と思い込んでいたので、きっと僕よりも少ないのだろうと思っていた。自分より下を見て安心したかったのかもしれない。しかし、矢桐の答えは僕の想像していたものより、ずっとずっと高かった。
「お金だって、ゲームにしか興味がない地味で根暗なあいつに使われるより、美人の女の子のために使われたほうが嬉しいよなぁ」
喧騒に飲まれて、誰にも聞こえない。誰に当てたものでもないので、独り言で十分だ。強いて言うのなら、これから僕のものになる、矢桐の財布の中の3万円に言ったのだけれど、聞こえてるかな。
その時以来僕は矢桐から金を奪うのをやめられずにいる。いつバレるだろうか。バレたら僕が築いてきた高校生活は、終わりだ。矢桐はなぜか誰にもチクらないのが逆に怖い。外部が僕たちのことを告発しない限りバレないのだが、餅田あたりは感づいている気がするんだよな。こわいこわい。
でも、僕は柚寿にプレゼントを買ってあげないといけない。柚寿だって僕に何か買うはずだ。これで終わりにしよう、とぼんやりと思う。たぶん、やめられないけれど。