複雑・ファジー小説
- Re: ワンホット・アワーズ ( No.13 )
- 日時: 2015/12/09 16:05
- 名前: 楠木ひよ ◆IvIoGk3xD6 (ID: y36L2xkt)
憂鬱そうな面持ちでやってきた矢桐に、もう労いの言葉をかけようとも思わなくなった。僕が何かを言ったところで矢桐には偽善にしか聞こえないし、実際偽善でもないただの同情なのだから。あとで会う予定の柚寿にはいくらでも労う言葉をかけてあげるんだけどなぁ。僕は矢桐の前では、青山瑛太でいることを諦めたのかもしれない。
「……青山」
ぼうっと人混みを眺めていたら、いつの間にかすぐ近くまで来ていた矢桐に声をかけられた。矢桐は存在感がないので、僕は驚いて振り返る。そこには、確かに矢桐が立っていた。来なければいいのに、律儀な奴だ。
もし、矢桐の方も僕への同情でここに来たのだとしたら、おあいこだろう。医者のご子息が、生活保護で暮らしてる僕の家に同情して、仕方ないから小遣いの一部を僕にばらまいているだけだとしたら、そんな矢桐に縋っている僕はこれ以上ないくらい惨めだ。でも、もう惨めでもなんでもいい気がする。僕は、矢桐から手に入れるぶんの金が無いと、友達とも遊べないし柚寿を満足させてあげられないし、昼ご飯を食べるのもやっとなのだ。矢桐が言うのなら土下座でもなんでもして惨めに頼んでみせるのに、矢桐は何をしても大人しくしているだけ。矢桐がそんなんだから、僕は調子に乗って金を搾取するのをやめられない。矢桐は僕のことをもっと嫌うべきだ。
人が少ない裏の路地へ誘い、僕は矢桐に財布を出させた。矢桐は金持ちのくせに、身の回りの物へは特にこだわりはないらしい。僕の知らないブランドの安そうな財布は、僕のせいでボロボロになってしまい、破れた穴からは不似合いな福沢諭吉が顔を出している。
「矢桐って、毎回こういうことされて嫌じゃないの?」
変な質問をしてしまったな、と我ながら思った。人から金をとられて嫌じゃない人間なんか居ない。それでも聞かずにはいられなかった。一度、矢桐を本気で怒らせてみたかった。矢桐が僕を思いっきり殴ってくれたら、目が覚めるかもしれない。そんなことを頭の片隅で思って。
「……別に」
返ってきた返答は、いたってシンプルだった。表情がなくて、どうでもよさそうな声色が頭の中に響く。
思い通りにいかない奴である。矢桐にとって、僕という存在や、金のことはどうでもいいのだろうか。僕は矢桐が居ないと地位も食事も失うというのに。矢桐からしたら、僕なんて「ちょっと迷惑なクラスメイト」程度なのかもしれない。
外が暗くなってきた。夏至も近付いているから、まだ空は明るいはずなのに。道を歩く人は、鞄から折り畳み傘を出して広げる。どうやら雨が降ってきたらしい。
ぴこん、と僕の携帯から、気の抜ける音が鳴る。人といる時にスマホはいじらない僕だが、僕は矢桐を人と認識しなかったみたいで、当たり前のようにポケットから取り出してスマホを見た。明治と戸羽さんから連絡が入っていた。
「俺たち、付き合うことになりました」と、写真付きの連絡。ふたりで手を繋いでいるその写真の背景は、見るからに安っぽいラブホテル。天気が悪化してきたのを口実に連れ込んだのだろう。本当に軽い奴らだ。
僕はここで何をしているのだろうか。矢桐はスマホを見る僕を、ただ怪訝そうな目でじっと見ている。「戸羽さんがさ、僕の友達と付き合ったって」と教えてやっても、曖昧な返答しかされなかった。きっと戸羽さんには興味がないんだと思う。じゃあ、あの子ならどうだろう。何気ない気持ちで僕は聞いた。
「矢桐はさ、誰かと付き合ったりしないの? ……あー、たとえば瀬戸さんとか」
「な、なんで瀬戸さんが出てくるんだよ!」
「……へ、」
僕はスマホ画面から矢桐へと目線を戻す。驚いた、矢桐の人間らしい反応を久しぶりに見た。
矢桐は、「瀬戸さん」というワードを出したら明らかに動揺しはじめる。金を搾取し続ける僕よりも、優しさの塊のような瀬戸さんの方が好きらしい。当たり前だけど。
「へえ、なんか怪しいと思ってたんだよなぁ。瀬戸さんと仲良いしなぁ、お前」
いじめている奴と恋愛の話をするいじめっ子なんて、どこを探してもそんなに居ないだろうな。でも、僕は矢桐の話に単純に興味がある。何を失えば矢桐は僕に、本気でかかってくるのだろう。
「な、なかよくなんか……」
「仲良いだろ。この前も一緒に勉強してたじゃん。好きなの?」
「……なんで、そんなこと……」
耳まで真っ赤にして、俯きながら強く手を振って否定を表す矢桐は、いつもよりよほど人間味があって面白い。僕の前では、ずっと無表情で、殴られても蹴られても痛そうに顔をゆがめるものの、本心では何を思っているかはわからなかった。矢桐って、こんなにわかりやすいやつだったのか。なんで今まで知らなかったんだろう。
「……へぇ」
最高にいいことを思いついた。僕は伸びてきた髪を掻き上げて、「がんばれよー」と上辺の言葉を述べる。矢桐はまだ、真っ赤な顔で俯いたままだ。
僕が、付き合ってもいない瀬戸さんを口説いてセックスでもして、矢桐の淡い恋をぶち壊したら、矢桐はきっと僕のことを本気で許せなくなるだろう。人間らしい表情を、僕にも見せてくれるだろう。
雨が強くなってきた。柚寿が雨に濡れたら可哀想だ。僕と矢桐は、適当な挨拶を交わして別れた。今はもう矢桐に用事はない。
僕は瀬戸さんに一件のラインを入れて、柚寿のもとへ向かった。