複雑・ファジー小説
- Re: ワンホット・アワーズ ( No.15 )
- 日時: 2015/12/10 20:49
- 名前: 楠木ひよ ◆IvIoGk3xD6 (ID: FpNTyiBw)
相変わらず、先生に聞いても英語は解らない。柚寿と並んで廊下を歩く。何度か夢見てきたことだが、今となってはすべて過去の話だ。俺はただのクラスメイトで、柚寿は青山の交際相手。ただあの教室でバスを待つだけの関係。それだけだ。
もうすぐ夏が来る。まだまだ陽は沈みそうにない。外から、練習をしている野球部や吹奏楽部のロングトーンの音が聞こえる、放課後の解放感が好きだった。瀬戸が「この一時間」にこだわるのと、似たような感情かもしれない。
「……ねえ、餅田くん」
「ん?」
突然、隣の柚寿が立ち止まって声を上げた。そして、少し後ろにいる俺を振り返る。窓から差し込む夕日が、綺麗に柚寿の右側を照らしている。
昔は「柊くん」と呼んでくれたのに、高校に入ってからは餅田くんだ。俺の方はまったく進展していないのに、柚寿はどんどん遠くなっていく気がして、柚寿に名前を呼ばれるのは好きではない。
「昨日ね、小学校の卒アルが出てきたのよ。小学生の頃の友達の事なんか覚えてないし、ぼんやりとしか記憶がなかったんだけどね、餅田くんが居たのよ。小学6年生にもなって、将来の夢が『マジレンジャー』だなんて、私笑っちゃった」
柚寿は昔の事を思い出すように、ひとつひとつの言葉をゆっくり紡いでいく。
……あぁ、そんなこともあったな。小学校の頃の柚寿は、成績も運動神経も普通程度だったのに、しっかりしているから友達が多くていつも誰かと一緒に遊んでいたっけ。いじめられこそしなかったが、同級生と話が合わなくてずっとひとりでマジレンジャーやドラゴンボールを見ていた俺とは大違いだった。
「今でもなりたいの? マジレンジャー」
「んなわけないだろ。アホ柚寿」
そうかなぁ、私は良いと思うよ、マジレンジャー。柚寿は明らかにこっちを馬鹿にしている。腹が立ってきたので、柚寿の中学時代の話をしてやろうと思った。
「……柚寿のほうは、中学の頃けっこう荒れてたらしいな? 青山はそれ知ってんのかよ」
「あっ、それ、みんなには秘密にしてるの。だから言わないでね」
「はいはい、わかってますって」
俺たちの中学校は12組まであった。卒アルを見てみると、柚寿は1組で、俺は5組で、瀬戸は8組で、青山と矢桐は10組だった。よほど奇行を繰り返さない限り、他のクラスの生徒など覚えている余裕もない。黛柚寿という名前を知っていたとしても、「あぁ、あのテニス部のちょっと不良っぽい子」という認識しかなかったし、実際彼氏の青山も、中学時代の柚寿のことは余り知らないようだ。柚寿自身が、中学の頃の話をあまりしたがらないからな。
柚寿は、中学の頃何度か警察の世話になっていた。俺はその頃も柚寿が気にかかっていたので、何度か1組の友人を訪ねるフリをして柚寿を見ていた。そんな中2の秋に、何があったかはわからないがとにかく革新的な出来事があって突然改心したようで、中3から猛勉強を始めて櫻鳴塾に受かって、今は何でもできる完璧な優等生になっている。人間とは何があるかわからないものだ。柚寿は、きっと今でも相当な努力を強いられていることだろう。青山や矢桐は、クラスが違っても「あいつすごい勉強できるらしいぜ」と噂が入ってきていたが、柚寿の話なんか聞いたことも無いからな。
「それでも、あの時の私はほんとにおかしかったなぁ。なくした物がいっぱいで、今でも瑛太には申し訳ないって思うのよ。こんなに悪いことしてきたのに、あんな完璧な人と付き合ってても良いのかなぁって。でも、私は瑛太を離したくないの。だからこれは墓場まで持っていく秘密。……内緒だよ」
柚寿は人差し指をその薄い唇に当てて、微笑む。美人だから、このようなあからさまなポーズをされても絵になる、柚寿はそれをよくわかっている。俺は、あいまいな返答を返して視線を逸らすことしか出来なくなった。
「黛柚寿としての人生は、たぶんこの高校に入ってから始まったんだと思う。中学の頃の私なんて、それは私じゃないの。だから初めては全部瑛太だし、それが嘘だと知ってるのは昔の私と餅田くんだけ。昔の私と餅田くんが黙秘を続ければ、この嘘は真実になるんだな」
普段はクールで落ち着いている柚寿の、時折見せるこんな表情と口調が好きだった。
柚寿は頭のいい人間なので、「昔の私」という思考が柚寿を邪魔することはないだろう。つまり、俺さえ黙っていれば、柚寿が過去にしでかしたことはすべて消え去る。……でも、それはできなかった。俺は、柚寿が好きだ。柚寿と青山に別れてほしいとさえ思ってしまう。柚寿の過去もろくに知らない奴が、柚寿を幸せにできるわけがない。柚寿はこれからもずっと、過去のことを青山に隠して生きる、それはあまりにも重すぎる。俺なら、幸せにできたかもしれないのに。
茜色に染まった後ろ姿が遠くなっていく。引き留めようとしても、ここから少しも動けない。矢桐にはあんなに大口をたたいたのに、俺はいつだって不器用だった。