複雑・ファジー小説

Re: ワンホット・アワーズ ( No.17 )
日時: 2015/12/10 23:52
名前: 楠木ひよ ◆IvIoGk3xD6 (ID: DYDcOtQz)

06 ヒーロー
 櫻鳴塾高校に入ることが、私の最終目標だった。私の父と母はふたりとも櫻鳴塾の出身で、そこから付き合いを始めたらしい。両親は一人娘である私にも櫻鳴塾へ進むことを強制し、幼いころから塾や通信教育をやらされ、友達と遊ぶ暇がなかったため、中学に入るころには自然と引っ込み思案な性格になってしまった。 

 「……怖い」

 初めて教室に入るとき、足がすくんだ。私の後ろを、キラキラした新入生が何人も通り過ぎていく。
 中学の頃は、小学生の時仲の良かった子とずっと一緒に居た。でも、卒業式の日にその子は突然私に言った。「本当は、つまんないあんたなんかと仲良くしたくなかった。高校では離れられてせいせいするわ」と。その言葉が、今いきなり思い浮かんで、私は教室の前から動けなくなってしまった。
 ここで、ひとりぼっちになってしまったらどうしよう。幼いころから勉強しか出来なかった私が、最終目標を達成してしまった現在、どうしていいかわからない。勉強なんて、何の役にも立たないじゃないか。嫌だ、誰か、お願い助けて。ううん、周りは知らない人ばっかりで、助けてくれるわけがない。なら、ここから逃げなきゃ————!
 入ってきた玄関に向かって走り出す。母の車はまだあるはずだ。教室が怖い。知らない人がいっぱいいて、とても怖い。誰の顔も見たくない。真新しい制服が気持ち悪い。ひたすら下を向いて走ると、視界がぐらりと揺れた。私よりずっと背が高い生徒にぶつかったらしい。恐る恐るその人を見る。短いスカートに、ボタンを閉めないで着ているブレザー。長い髪は校則で結うことになっているのに、腰まである長い黒髪。それを見た瞬間に、体中の力が抜けていくのがわかる。どうしよう、こんなタイプの人間が、私は一番、苦手なのだ。終わった。へたり込んでしまいそうになった。

 「……あら、ごめんなさい。あなたも1年1組? それなら私と同じなんだけど……」
 「し、知りません! ごめんなさい!」

 ぶつかった衝撃で、眼鏡を落としてしまったらしい。人波を掻き分けて全力で走りだしたのに、何も見えない。苦しい。涙がこみ上げてくる。なんで、私は普通じゃないんだろう。もうすぐ入学式が始まるのに、これから高校生活が始まるのに……。

 「待って!」

 人混みの中から、一際高い声がした。私はそれが、すぐさま私を呼ぶ声だと解った。何かから逃げている人間なんて、ここには私しか居ないから。その声が私を呼ぶ、私を連れ戻そうとしている。怖い。
 階段まで来たところで、ついに足ががたがた震えて動けなくなった。幸いなのは、ここが普段滅多に使わない西階段だったことだ。古い自動販売機が2つある以外は、ただの狭い空間が広がっているだけ。私はそこにへなへなと座り込む。これから、どうしよう。
 高校生活から、逃げてしまった。私なんかが櫻鳴塾の生徒になっていいのだろうか。最初からこんなのだから、生徒も先生もみんな、私の第一印象は最悪だ。せっかく入ったのに。両親は、心から喜んでくれたのに……。そう思うと、涙が止まらなくなって、誰も居ない階段で私は思いっきり泣いた。買ったばかりの新しいブレザーに涙がぽたぽたと落ちる。眼鏡がなくて不便な視界が、さらに霞んでいく。

 「あ、居た! あなた、1年1組だよね? 眼鏡、落としてたよ」
 「ひぃっ!」

 その時、自動販売機の陰から、甲高い声がした。茶色い髪をおさげにして、サイズがやや大きい制服を纏う小柄な少女。さっきの不良よりスカートは長いし、靴下も指定のものだ。上履きが新しいところを見る限り、1年生だろうか。逃げ出したいけれど、もう力が抜けて動く気力も無い。

 「私も1年1組なの! ねえ、私ね、推薦で入ったんだけど、みんな頭良さそうな人ばっかりでさぁ……。入試で1位取って代表挨拶? する、矢桐くんって子もうちのクラスだし、ホントにこれから勉強についていけるのかなぁ。……あ、いきなりごめんね、私、瀬戸京奈! 京奈って呼んでね」

 ……なんて人だ、と思った。初対面の人間相手に、ここまで話す人を初めて見た。彼女は話し過ぎたことを急に恥ずかしく思ったのか、口に右手を当ててあたふたしている。「あ、あなたは? あなたはなんていうの?」と、照れ隠しのように聞いてくるから、私はただ受け取った眼鏡をかけなおし、答えることしか出来なくて。

 「……あ、相内マナ。マナ、でいいけど……」
 「いいの? じゃあ、マナ! 一緒に教室行こ!」

 瀬戸京奈と名乗った少女は、笑顔で私に手を差し伸べる。
 なんで、初対面の人にこんなに優しいのだろうか。涙をぬぐい、恐る恐る立ち上がると、新しいスカートにしわがついていた。「もう、マナって足速いんだね。追いつくのに時間かかっちゃった」と京奈は不満げに頬を膨らませるけれど、顔は明るかった。
 空は明るかった。入学式にはうってつけの朝だった。こんな些細なことだけど、私は私なりに、もう一度頑張ってみようと仕方なく思うことにした。



 「もう、京奈! 次移動教室でしょ、いつまで寝てるの!」
 「……んー、あと5分ー……」

 寝言を言いながら、京奈は世界史の教科書を枕にして寝ている。私はそんな京奈の頭を叩く。
 私たちは、教室では決して目立つ方ではない。クラスの中心にいる、戸羽さんや黛さんと話したことは数回も無い。でも、私はこの生活に満足していた。京奈が居て、紗耶香がいて、ふたりともとてもいい友人であること。櫻鳴塾も、意外と悪くない。学校であった楽しかったことを報告するだけで、両親が喜んでくれるのもうれしい。京奈がちょっとおっちょこちょいで、マイペースで、たまに扱いに困るときもあるけれど、明るくて優しい最高の友達だ。
 あのとき助けてくれた京奈は、私の中ではヒーローだった。京奈が居なかったら、私はここに居なかった。
 まだ眠そうな京奈に、しょうがないなぁと笑いかける。普段は「ありがとう」なんて言わないけれど、今日は言ってみようかな。最高の友人になってくれて、ありがとうって。