複雑・ファジー小説

Re: ワンホット・アワーズ ( No.2 )
日時: 2015/11/28 14:27
名前: 楠木ひよ ◆IvIoGk3xD6 (ID: DYDcOtQz)

01 劣等
 一度壊してしまったものは、どんなに手を加えたとしても壊れる前には戻せない。
 割れてしまった花瓶を見ながら、私はそんなことを思っていた。

 「大丈夫? 京奈、怪我してない?」

 足元には破片が散らばっている。教室に置いてあった花に元気がないように見えたので、花瓶の水を替えに行って、うっかり落としてしまったのだ。自分の席で数学の勉強をしていた柚寿が心配そうに私を見ている。
 柚寿はすぐに割れてしまった花瓶を片付けるための道具を持ってきた。私たちの担任である中野先生は、英語科の担当でもあるので、ときどき英字新聞を持ってくる。そして、それは教卓の下の台に綺麗に積まれている。ただでさえ新聞など読まないのに、それが英字で書いてあるともなれば、その使い道は割れた花瓶を片付けること以外にないだろう。
 飛び散っている破片をひとつひとつ丁寧に拾って、柚寿は広げた新聞紙に乗せていく。指を切ってしまうといけないから、丁寧に拾うのは当たり前なのだけれど、柚寿のそんな動作のひとつひとつが綺麗だと思う。同じ女子として、柚寿から学ぶことはとても多いのだ。私は柚寿に続くように後片付けを始めたが、床に横たわる花を見ていると、なんだか心配になってきた。

 「どうしよう、花瓶落としちゃった」

 この花瓶は、おそらく担任の中野先生の私物だ。中野先生は、よく言えば真面目、悪く言えば頭が固い先生で、他のクラスの若い先生とは違って冗談が通じないタイプに思える。花瓶を大切にしているなんて話は聞いたことはないけれど、もし教室で怒られてしまったら、クラスのみんなに恥をさらすことになる。そう思っていたのが、自然に声に出ていたらしい。隣の柚寿が優しく笑った。

 「なんとかなるでしょ。中野先生、美術の蔵中先生と仲が良いみたいだし。またもらってくるんじゃないの」
 「でも、あの先生よくわかんないところで怒るし。ちょっと心配かな」
 「花瓶の水を替えようだなんて、いい事じゃない。先生は逆に京奈を褒めるべきだわ」
 「えへへ、そうだね」

 顔を見合わせて、私と柚寿は笑う。
 性格の明るさだけが取り柄で、引っ込み思案なクラスメイト二人と常に行動している私と、美人で冷静で成績も良くて、テニス部でも活躍していて、クラスでも中心カーストにいる柚寿は、放課後以外の時間はまったく関わりがない。こうして放課後だけ、共に教室でスクールバスを待つのだ。
 私と柚寿と、今先生に英語を聞きに行っている柊治郎くんと、ふたり揃ってどこかへ行ってしまった瑛太くんと晴くんの5人は、中学校が同じだった。同じ中学校から同時に5人もこの名門櫻鳴塾高校に入ったので、地元で奇跡だのなんだのと騒がれたのが懐かしい。もっとも、他の4人は実力で受験して入ったのだろうけれど、私は英語が並外れて出来ただけで、推薦してもらって入学したので、入学して以降の成績はずっと一番下で、今や並外れて出来ていたはずの英語も人並みに落ち着いたのだけれど。
 そんな遠くの地域から通う生徒のために、学校はスクールバスを出してくれている。そのスクールバスがやってくるのが、放課後からちょうど一時間後であり、このクラスでスクールバスを利用するのは私たち5人だけなので、いつも5人でお菓子を食べたり話をして過ごしているのだ。
 私はこの時間がとても好きだ。普段話すことがない柚寿たちと話せるのはもちろん、学内に知り合いが少ない私は、同じ土地から通っている中学の時のメンバーが揃うと安心する。退屈な空間である教室が、私たちだけのものになる一時間は、私にとって至福だった。綺麗でクールで実は努力家の柚寿、軽音部の女子にも男子にも友達が多い瑛太くん、気が弱いけれどとても優しい晴くん、いつも私たちを笑わせてくれる柊治郎くん、そして私。この5人で過ごす一時間は、他の何物にも変え難かった。

 ドアが開く音がした。誰かが帰ってきた。英語の教科書片手に、頭を掻いているのはバス待ちメンバーのひとり、柊治郎くんだった。彼はクラスでは比較的誰とでも仲良くしている印象がある。毒舌家で制服も着崩しているから、一部の先生からは目をつけられているみたいだけれど、クラスでひとりになっていた子に声をかけていたり、動物が大好きだったり、見た目とは違って本当は優しいのを知っている。

 「あら、餅田くん。英語はわかった?」

 柚寿が馬鹿にしたように笑う。柊治郎くんは英語が苦手らしくて、柚寿がそれを面白がるのが日課だった。ほかの教科なら私は柊治郎くんに勝てないが、英語の成績だけは私のほうが高い。まあ、なんでもできる柚寿達からしたら、二人共変わらないのかもしれないけど……。

 「ちっともわかんねーよ。教えてくれよ、柚寿」
 「どうしようかなぁ。……あぁ、英語なら、京奈の方が得意よ?」

 ふたり分の視線が私に降りかかる。「どうせやるなら、3人で勉強しようよ」と柚寿は言う。私はそれをすぐに承諾し、3人で机を並べ始めた。もうすぐ瑛太くんと晴くんもくるだろうから、5人になる。そしたら、もっと楽しくなる。
 とても初歩的なことで悩んでいる柊治郎くんは、ことあるごとに「瀬戸、これってどうすればいいんだよ」と私に聞いてくる。いつもは私がほかの科目を教えてもらっているのでこういうときはお互い様だ。しかし、見せてもらった問題は、どこかの大学の試験で出た問題みたいで、私でもまったく歯が立たない。さすがの柚寿でも難色を示すくらいなので、これは後で瑛太くんか晴くんに聞こう、ということになり、私たちはいつしかクラスの中の世間話に花を咲かせていた。