複雑・ファジー小説

Re: ワンホット・アワーズ ( No.8 )
日時: 2015/12/08 01:06
名前: 楠木ひよ ◆IvIoGk3xD6 (ID: DYDcOtQz)
参照: 完璧主義者な彼女の話

03 狂疾
 「柚寿、またこんな遅くまで勉強?」

 ヘッドホン越しに部屋のドアをノックする音が聞こえたので返事を返すと、ホットミルクとカップラーメンをお盆に載せたお母さんが入ってきた。
 時刻は午後11時で、寝るにはまだ早かったので私は英語の問題を解いていた。今日の放課後、京奈と餅田くんに聞かれた問題だった。京奈に、「ねえ柚寿〜。この問題、私も餅田くんもわかんなかったんだけど、柚寿ならわかるよね?」と聞かれて、見てみたらそれは早稲田大学の入試問題だった。私は、英語を苦手だと思ったことはない。しかし難関校の問題を目の前にして、すっかり今までの知識が飛んでしまったようで、まったく解けない問題に呆然としていると、京奈に「柚寿でもわかんない問題ってあるんだねぇ」と言われてしまった。それが悔しいから、今日は最低でもこれを解いたら寝ようとしていたのに。

 「ねえ柚寿、頑張りすぎる必要はないのよ? あなたが前に警察に捕まった時、お母さんは確かに『普通の子になってくれ』って頼んだわ。でも、今の柚寿は柚寿じゃないみたい。いつでも完璧であろうとすると、いつか体を壊しちゃうわ。お願いだから、ちゃんと休憩もしてちょうだいね」
 「……わかってる」

 じゃあ、お母さんもう寝るね、おやすみ。そう言い残して、お母さんは部屋から出ていく。ちらっと見えた後ろ姿は、前よりも頼りなく見える。私が小学生の時は、お母さんはパートをやってて元気そうだったのに、今はすぐ風邪をひいて寝込むせいで仕事もできなくなってしまった。
 お母さんの言うとおりだと思う。お母さんも、いろんなことを頑張りすぎて体を壊している。だけど、今の私に休む余裕はない。完璧でいなきゃ、みんな私に失望して離れていくんだ。今日は大変な失敗をしてしまった。京奈と餅田くんは、きっと私のことを見損なっただろう。「柚寿でもわかんない問題ってあるんだねぇ」の言葉が頭をぐるぐるする。
 完璧でいなきゃいけないのは勉強だけではない。今この時間にカップラーメンなんか食べたら絶対に体重が増える。脂っこいものを食べたら肌が荒れそうなので、もう何ヶ月も食べていない。友達とファミレスに行くときも、できるだけカロリーの少なさそうなものを選んでいるし、やむを得ず帰りにクレープなんか食べた日は2キロ近くランニングをする。私は容姿においても完璧でなくてはならない。
 この生活に、疲れを感じたことはない。美人で頭がいいと、当然みんな私を好いてくれるから、友達や彼氏に囲まれた楽しい学生生活を送っている。でも、私の自頭は決して良くない。元々の顔はそれほど美人でもない。だから私は、ほかの人の3倍くらい努力しているつもりだ。いや、3倍じゃ足りないかもしれない。現に勉強が足りなかったから、京奈と餅田くんが見せてきた問題が解けない。もっともっと頑張らなきゃいけない。
 先が見えないなあ、と思いながら小顔ローラーをころころしていると、私のスマホから軽快なメロディーが流れだした。
 瑛太だろうか。それはないか。瑛太は最近友達とスマホゲームをやってるらしくて、今日もマルチしようぜーだなんて誘われていたから、連絡が来たとしても明日の朝だ。画面を見ると、クラスの友達である戸羽紅音から電話が来ていた。
 紅音から電話が来ることは珍しくない。彼氏がどーだとか、あいつマジウザい、とかそういうことを電話で話すことはよくある。私としては、勉強や自分磨きの良い気分転換になるので紅音と電話するのは好きだった。電話に出るやいなや、「ちょっと聞いてよ柚寿!」と甲高い声で叫ばれたので、私は苦笑を浮かべて、その話を聞いてあげることにした。

 「ちょっと柚寿ー。うちの彼氏、マジでありえないんだけど」
 「なーに、どうしたの? またケンカ?」
 「ケンカっていうか、ウチら明日記念日じゃん? だから、ご飯食べに行くことになったのね。焼肉っていうから楽しみにしてたのに、ワリカンだって! もうほんと失望したから電話切っちゃった」

 そういえば、紅音は今日の朝から「明日は記念日ー!」だなんて私やほかの友達に言って回っていたので、私は明日紅音にお菓子でもあげて記念日を祝ってあげるつもりだった。そんなことでケンカしてたのか、と私はさらに苦笑してしまう。

 「柚寿はいいよねー。青山くん、全部おごってくれるんでしょ? 最高じゃーん」
 「それはそうだけどさー……」

 紅音には言わないけれど、高校生のうちは、親のお金で遊びに行ってるんだから割り勘は当たり前だと思う。私はそれを瑛太に何回も言ってるのに、瑛太は「お願いだから僕に払わせてよ」と言って聞かない。高そうなお店にもいっぱい連れて行ってくれるし、前はいきなり一泊二日の旅行にも連れて行ってくれた。高そうなプレゼントをたくさんくれるし、自分もブランド物の服を山ほど買っている。どこからそんなお金が湧いてくるのだろうか。

 「なーにが『それはそうだけどさー』よ。青山くん、イケメンだし優しいし、超頭いいし、軽音部とかカッコイイし、運動もできるし、ほんとうちのと交換してほしいわー。まあ、青山くんと釣り合うのなんてこの辺じゃ柚寿くらいしかいないけどさ。でもやっぱうらやましー」

 電話越しの紅音の声が、うるさいほど頭の中に響いてくる。
 紅音の言っていることは全部本当だ。最初のうちは、彼氏のことをここまで褒められると私も気恥しかったが、最近はなんかもう、慣れた。慣れたどころか、「瑛太くんは何もしなくてもイケメンで優しくて超頭良くて運動もできるのに、柚寿は、勉強はやんないとできないし、顔はもともと全然美人じゃないし、テニスは中学の頃から続けてるから出来るだけだし、釣り合わなくない?」って遠まわしに言われているような気分になる。釣り合ってない、というのは私が一番分かっている。いくら勉強しても瑛太には成績で負ける。「美人」とよく言われるけれど、それはこの学校が進学校で美容に疎い女子が多いだけ。私はよく見るととても薄い人間なのだ。だから、私は毎日必死にがんばってる。それでも、全然先が見えないけど。
 紅音は何かを決意したような、強い声で言う。

 「柚寿。ウチ、もう別れようと思うわ。他校で青山くんみたいな人探そ」
 「へぇ。がんばってね」
 「柚寿も協力してよー! 青山くんの友達とか紹介して!」
 「えー……うん、聞いてみる」

 よっしゃ、燃えてきたー。柚寿、ウチ今から彼氏にラインするから、またあしたね。紅音がそういうので、私は彼女を応援する言葉を二三個かけて、お互いの幸運を願って電話を切った。記念日を前に突然別れを切り出された彼氏さん、かわいそう。
 瑛太は私から見てもほかの人から見ても完璧な彼氏だと思う。だから、私たちはそこらの数ヶ月で別れる人たちと違って一年近く続いてきた。瑛太は完璧で、私は完璧を演じてきたから。だから、今この幸せがあるんだ。
 この英語の問題を解いたら寝ようと思っていた。でも、なんだか足りなくて、落ち着いていられなくなったので数学の問題もやることにした。これで私は完璧な黛柚寿に近付く。もう私は周りの誰も失望させない。