複雑・ファジー小説
- Re: ワンホット・アワーズ ( No.9 )
- 日時: 2015/12/10 00:59
- 名前: 楠木ひよ ◆IvIoGk3xD6 (ID: DYDcOtQz)
寝不足で頭が痛い。朝は基本的に食欲がないけれど、今日はトースト一枚も食べることができなかった。心配するお母さんをよそに、私は制服に着替える。
櫻鳴塾高校の制服は、紺のブレザーにリボンとお揃いの赤チェックのスカート。入学が決まった時、お母さんは泣いて喜んでくれたっけ。
私のお母さんは、3人兄弟の末っ子で、従兄弟の中で一番の年下が私だった。上はたしか、3人いる。もうみんな社会人をやっていたと思う。ひとりは高校を2ヶ月でやめて、もうひとりは中学を卒業したあと家に引きこもっていて、唯一の女の従姉妹は中学3年生の時に妊娠して、今はシングルマザーをしている。だから私が名門の櫻鳴塾高校に入ったときは、親戚中が驚き、一番上の従兄弟には「もしかして、うちの家系の子じゃないのでは」と疑われたものだ。ふたりめの引きこもりには、「お前のせいでボクが働くことになったら許さない。櫻鳴塾なんか、年の東大進学は2ケタいかないじゃないか。中途半端に優秀になりやがって」と言われた。知らない親戚から連絡が来たり、おじいちゃんは私にだけ多くお小遣いをくれたり(まあ、上のいとこは土方やキャバクラとはいえ一応働いているから、学生である私にお金が行くのは当たり前なのだが)した。また、今年のお盆になったら親戚のところに行くだろう。億劫ではあるが、今従兄弟たちがどんな風に暮らしているのかはけっこう気になるところである。
鏡の前に立ち、顔を洗い髪をとかすこと10分。お風呂から上がったあとは必ず乾かしているから、それほど朝のセットに時間がかかることはない。同級生の女子たちはスプレーで髪を固めたりワックスをつけたりしているけれど、私は風に舞うふわふわした髪の質感が好きだから、ドライヤーひとつで頑張ることにしている。ストレートアイロンも前述した中3で妊娠の従姉妹からお古をもらったことがあるから、どうしてもうまくいかない日はそちらも使っている。あとはまつ毛をビューラーで上げて、歯磨きをして、完成。スクールバスが来る、10分前に家を出る。
私の家は、そこまで貧乏ってわけでもないけれど、別にお金持ちでもない。家を出たら、平凡な住宅街が広がっている。お母さんが体のよかったうちは、家の前に花壇があって、庭も綺麗に整備されていた。花が好きなお母さんの代わりに今は私がやってあげればいいんだろうけれど、私には花を愛でる余裕はない。我ながら親不孝な娘だと思いながら、私は急ぎ足でバス停に向かった。今日はとても天気が良くて、暑くて溶けちゃいそう。
「おはよ、柚寿」
「……あら、今日は早いのね」
柚寿が遅いんだよ。また寝坊したな、と先に来ていた瑛太は笑う。また寝坊したなんて瑛太は言うけれど、2回に1回くらいは私の方が早い。だって、彼女が彼氏より遅く来るなんて、なんだか申し訳ないから。私としては、余裕を持ってバス停に立っていたい。バス停のすぐ前のローソンでアイスでも買って、やってきた瑛太に「おはよ」と言って手渡したいのだ。バス内は飲食禁止ってことになってるけれど、後ろの席で二人並んで座って、こっそりパピコを半分こして食べるの。私はそんなことをしたいのに、瑛太はいつも私の前を行く。成績も、なにもかも。
「今日の1限体育だったっけ。僕たちは確かテニスなんだけど、柚寿は?」
瑛太と私は、中学校の頃から同じ部活だった。でも、話したことはたしか数回しかない。
中学の頃は、私は部活こそ行っていたけれど学校の方はサボって遊び歩いていることが多く、瑛太だけではなく、矢桐くんや京奈、餅田くんとの関わりも全くなかった。王原第二中学は12組まであったので、みんなは他のクラスの不良女子をいちいち覚えていなかった。京奈はよく、「私たちは、中学校の頃から一緒だったんだから!」と言うけれど、私はこの4人の中の誰かと一度も同じクラスになったこと、なかったんだけどな。瑛太と矢桐くんは、なぜか3年間クラスが一緒だったらしいけど。
「ううん、バレーかな。いいなぁ、こんなに天気が良くて夏日だと、テニスしたら絶対気持ちいいと思うわ」
「いいじゃん、柚寿はバレーも出来るんだからさ。この前の球技大会で10点くらい取ってたじゃん」
球技大会なんて、10ヶ月くらい前だ。そんな前のこと、なんで今でも覚えてるのよ。そう言うと、「柚寿の事はだいたいなんでも覚えてるよ」笑って返されたので、私は何も言い返せなくなった。この人の笑顔が、私はとってもとっても好きだ。みんなは瑛太をイケメンだとかなんでも出来て羨ましいだとか言うけれど、私はこの笑顔が一番好き。そのために今日も一日がんばろって思えるくらい。
あ、そうだ。突然瑛太が手をぱちんと打った。
「柚寿、あともうちょっとで、」
「言わなくてもわかってる」
記念日、と声を揃える。来週で、付き合って1年になる。顔を見合わせて、笑うと心の底から込み上げてくるような幸せな気分になった。瑛太も同じ気持ちだといいなぁ、と思う。
「記念日はどこ行きたい? あ、プレゼントもしなきゃなぁ」
「もう、私は別になにもいらないって言ってるじゃない」
「柚寿がいらないって言っても、僕があげたいからあげてるんだよ。僕がプレゼントしたもの、全部大事にしてるの知ってるし」
「……あんまり高いものはやめてね? 瑛太のお金、なくなっちゃうよ」
念を押すと、瑛太は「柚寿は相変わらず謙虚だなあ」と笑った。昨日電話した紅音の、もう別れる予定の彼氏は1円もおごってくれなかったらしい。もし紅音なら、今こんなことを言われると確実に落ちてしまうだろう。あれは「奢ってくれる彼氏とか最高!」が口癖の女である。
「記念日はどこに行こっか」
「お食事に行くのも良いけど、私は瑛太の家に行ってみたいな。私の家では何回か遊んだことあるけど、瑛太の家にはまだ行ったことないでしょ?」
私はそれをいいアイデアだと思ったのだが、瑛太はそう思わなかったみたいだ。いままで屈託のない笑顔を浮かべていたのに、「え、僕の家かぁ」と言うその笑顔は、同じ笑顔でも苦笑いみたいで。
付き合った頃から、瑛太は私を頑なに家に案内しなかった。なぜだろうか、と考えてみたことがある。ひとつは、部屋がものすごく汚い説。しかしこれはすぐに選択肢から消えた。瑛太はロッカーの中も綺麗だし、私の部屋に紙くずが落ちてるのを見てすぐに捨ててくれたから。そのほかにも、ハンカチやティッシュを常に持ち歩いていたり、美術の後には特に念入りに手を洗っていたり、綺麗好きであることは一年も付き合っているとわかる。ふたつめは、お母さんやきょうだいに会わせたくない説。これもすぐに消えることになった。前に、ココアが飲みたくなってスーパーに買い物に行ったとき、瑛太と瑛太のお母さんと、大学生の姉に遭遇した。お母さんは30代後半くらいの美人で、お姉さんもとても顔立ちが整っている人だった。10分くらいお話をしたけれど、ふたりとも私にとても良くしてくれたし、瑛太が家族の悪口を言っているのも聞いたことがない。
瑛太はたくさんお金を持っているから、きっと家はとても大きいんだろう。私の家はいたって普通なので、学校に行く途中にバスの景色から見えるお城みたいな家にはあこがれを持ってしまう。瑛太ばっかりずるいな、私も呼んでほしいのに。
「ほら、柚寿。もうバス来たよ? 行こっか」
「……うん」
腕を引かれて、やってきたバスに乗り込んだ。この話は、しないほうがよかったのだろうか。人のプライベートに侵入するのは、いくら恋人でも良くない。私は窓際に座らせてもらったあと、ごめんね、と謝った。瑛太は笑って許してくれたけれど、なんだか消化不良な朝。バスがゆっくり動き出した。