複雑・ファジー小説
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.91 )
- 日時: 2019/02/27 20:05
- 名前: 羅知 (ID: 3/dSGefI)
第八話【既知の道】
夢は儚く、移ろいやすい。
さっきまですぐ手元にあったはずのものが、いつの間にか消えていく。夢ではいくら楽しくても、現実に戻ればそれはまるでなかったことのように思い出せなくなる。
覚めない夢は現実ときっと変わらない。
ならば、すぐに移ろう儚い現実は夢とどう違うのだろうか。
∮
『おい』
『おいってば』
『おきろよ!馬場!こんな所で寝てたら風邪ひくぞ!』
『……よく階段の、しかも屋上近くの階段なんかで寝れるなぁ』
『……あ、寝てるんだからコレで話し掛けても意味ねーのか(*´・д・)ったく世話が焼ける奴だなぁ』
『(-.-)……なぁ、馬場。お前もう二年生なんだぞ。しっかりしろよ。早く起きねぇと午後の授業始まっちまうぜ?』
『…………全然起きやしねぇ(;´д`)』
『…………?』
『泣いてるのか、馬場』
『笑ってるようにも、みえるな』
『……仕方ねぇ。今日は寝かせてやるから、起きたらちゃんと教室来いよ!(^_^ゞ』
∮
肌寒い空気が身体を通り抜けていったのを感じる。硬い階段の冷たさが尻から伝って身体がぶるりと震えた。膝には寝る前にはあった覚えのない誰かの上着。そのおかげなのか膝だけはほんのりと温かく感じていた。
なんだか長い夢を見ていたような気がする。
夢の中の俺は"知らないクラスメイトらしき奴ら"と笑いあっていて、とても楽しそうだった。そしていつも傍らには背の低い可愛い男の子がいた。俺はソイツのことを"濃尾君"と呼んでいた。俺が声を掛けると"濃尾君"は笑顔で"馬場!"と俺の名前を呼び返す。本当に楽しい夢だった。現実であればどれほど楽しい日常になっていただろうか。
だけど、俺の"現実"には"知らないクラスメイトらしき奴ら"も"濃尾君"もいない。
だけど、それなりに幸せな日々を送っている。やけにリアルな夢だったけれど、所詮は夢だ。現実じゃない。"濃尾君"も"知らないクラスメイト"も存在しない。ただの夢の中の"妄想"に想いを馳せたところで意味なんてあるのか、ないだろう?
「さて、と!」
この上着を掛けてくれた心優しいクラスメイトの為にも、教室に戻ろうか。多分授業には遅刻してるだろうけど、仕方無い。謝って許してもらおう。
俺は二年B組、馬場満月。
友達はいないけれど、それなりに幸せな毎日を送っている------------極々普通の男子高校生だ。
∮
「先生すまない、授業に遅れてしまった!」
「……はあ。アタシは担任だから多目にみてあげるけど、今度からは遅れないようにして頂戴。今は六時間目の終わりよ」
「ありがとう!」
教室の前の方の扉をがらがらと勢いよく開けると、怪訝な顔をした海原蒼先生が首だけをこちらに向けてそう言った。海原先生は俺のクラスの担任で、担当は数学。腰まで伸びた長髪は紺色で、目付きはキツいけれど、そこがいいと学校でも美人で優秀なことで有名な先生だ。そんな人が担任だなんて俺は相当恵まれていると思う。
ほら、やっぱり謝ったら許して貰えた。感謝と謝罪は人間の基本だよな。
優しい世界に感謝しながら、軽い足取りで自分の席まで歩いていくと後ろの席にいた古賀谷盾君がにかっと笑いながら、こちらに手を振っていた。豪快にセットされたビビッドカラーの派手な髪型が今日もイカしている。耳にはピアス、髪は明らかに校則違反で、元々の目付きの悪さも相まってなのか一部の人には怖がられているらしい彼だが、歌が大好きで明るい性格なのでそれ以上の多くの人に好かれている。事情があって今は声を出せないらしいが、彼の歌はとても素晴らしいものだったそうだ。いつか機会があったら俺も聞いてみたいものだ。
寝ている間に上着を掛けてくれたのも、きっと彼だろう。胸元に彼の持っているギターケースについているものと同じアップリケがついている。後でお礼を言わなきゃな。
それにしても皆真面目だなぁ。古賀谷君は手を振ってくれたけど、俺が入ってきたことなんか気にもしないで、黒板をしっかり見て、ノートを真面目に取ってる。俺も遅れて来た分、彼ら以上に真面目に受けなきゃ遅れをとってしまいそうだ。
そう思った俺は早々にノートを開き、皆と同じように黒板の白字を写し始めた。
∮
授業も終わり、荷物をまとめ帰る支度をしていると古賀谷君が俺の肩をちょいちょいと叩く。何か俺に用事でもあったのだろうか。聞いてみたけれど、そうではないらしい。そのままうんうんと彼は頭を抱えて考えていたようだったが、結局ほとんど何も言わずに
『また、今度でいーや』
と、だけ俺に言って何処かへ行ってしまった。変な古賀谷君。頼み事とかなら遠慮せずに全然してくれて構わないのにな。まぁ本人がそう言うなら俺がとやかくいうことでもないか。また帰り支度の作業に戻って、ふと窓の外を見るとさっきまで晴れていたはずなのに、いつの間にか空は灰色に染まりしとしとと弱々しい雨が振りだしてしていた。
春雨、か。
(今日、傘持ってきてたっけなぁ)
忘れたような気がするので早く帰ろう。教室の中は最早まばらになっていた。淑やかな雨の音を聞きながら、俺は教室から出ていった。
∮
『ねぇねぇ知ってる?……"馬場先輩"の噂』
『馬場先輩って去年の文化祭で三月兎の役で劇やってた人だよね。その人がどうかしたの?』
『えっとね……元々"凄い当て馬体質"って事で有名な人みたいだったんだけど……最近は"別のこと"でも有名みたい』
『……?』
『実はね…………』
∮
「…哀れ、じゃの」
「……どうかした?雪ちゃん」
まだ初々しさが隠しきれない一年生の何気ない会話の一部を聞いて、大和田雪は深く溜め息を吐いた。女神は人の事にあまり干渉してはいけないのだけれども、偶然でもああいうのを聞いてしまうと少し心が痛む。馬場満月。一年生の時のクラスメイト。仮にもクラスメイトだったのだ、そりゃあ女神といえども感傷くらい沸く。
「別に何でもない」
「そう?……それならいいの。何だか雪ちゃん少し元気がなさそうだったから、さ」
隣を歩く妙に勘の良い現クラスメイト--------進藤玲奈がそう言って小首を傾げて、笑う。水色ドレスにガラスの靴などという妙な格好をしている癖に、この娘は妙に勘がいい。というかそもそも、いくらこの学校の校則が緩いからといってその格好は校則違反のはずなのだが。以前そう聞くと
「私のお姉ちゃんが学園長先生にお願いしたから、今年から制服着用自由になったんだよ。知らなかった?」
と、事も無げに答えられた。生徒の意見を幅広く取り入れる学園長といったら聞こえはいいかもしれないけど、それでいいのか、学園長。それに許可されたからって、こうして異装してるのなんてごく僅かなのだけれど。こんな環境下でそんな目立つ服を着てニコニコしているこの娘。相当に神経が図太い。
まぁ人の事を言えたもんじゃないけれど。
(女神たるもの、いわゆる事柄に対して悠然に構えなければならぬからな)
(…………しかし、"馬場満月")
(…いや、わらわが手出しすることでもないか。人の子には人の子の道がある)
(………………もし、それで何かあったってわらわには、責任が取れない)
(それに、今の"あの男"に、わらわは)
そこまで考えて、隣から思考を断ち切る気の抜けた声が掛けられた。
「そろそろ急ごっか!雪ちゃん。佐倉くんも待ってるだろうし」
「…………別にあいつなんか、幾らでも待たせていいじゃろ」
「ダメだよ〜。佐倉くんだってSC(サイエンスファンタジークラブ)同好会の大事なメンバーなんだからさ!大事にしてあげて!会長さん!雪ちゃんがいなきゃ、あの同好会は成り立たないの!」
「…わらわは別に」
「お願い!今日は雪ちゃんの大好きなおやつ持ってきたんだ。だから、ね?」
お菓子。……ま、まぁ両手合わせて頼まれたら断るのも可哀想だし今日の所はやる気をだしてあげよう。普段頭を使わないから、考えるのにも疲れてしまった。色々思うところはあるけれど、考えるのは後にしよう。
水色ドレスに手を引かれるままに、大和田雪は部室に向かった。
∮
『……あのね。あくまで噂、なんだけど』
『うんうん』
『馬場先輩、"一年生の時の記憶がほとんどない"んだって』
『え!?それって記憶喪失ってこと?』
『……うーん、それとはまたちょっと違うみたい』
『……?』
『聞くところによると、"元クラスメイトの人との記憶がなくて"、それに今もその"元クラスメイト"の人の姿は見えてないらしいよ……』
『……ええ?うそ、どうして?』
『……馬場先輩、仲の良い親友がいたんだけどね。その人が目の前で飛び降り自殺しちゃったんだって。それから一気におかしくなっちゃったんだって……』
『……私、馬場先輩の演技見て格好いい!って思ったから、この学校受験したのにそんな事になっちゃってたなんて……』
『……ショックだよね』
『……うん』
『……元々は明るくて学校の人気者だったんだけど、今じゃ皆から腫れ物にされてるみたい……』
『…………』
『…………』
『…………帰ろっか』
『……うん』
春雨の音がしとしとと聞こえている。
まるで誰かの代わりに泣いてるみたいに。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.92 )
- 日時: 2018/02/23 07:06
- 名前: 羅知 (ID: UUyf4PNG)
∮
「〜♪」
今流行りのJポップをふんふんと口ずさみながら雨降る道を小走りで行く。案の定傘は忘れてしまっていたけど、このくらいの雨なら濡れるのも楽しいものだ。春の雨は、ほんの少し温かい。その温もりはまるで人肌みたいで、俺は春そのものに抱かれてるような気持ちになった。
今日も楽しかった。
きっと明日も楽しいだろう。
明日も、明後日も、明々後日も。
ずっと、ずっとずっとずっと。
苦しいことなんて、何もない毎日。ああなんて幸せなんだろう、俺は。ぱちゃん、ぽちょん、ぱちゃん、ぽちょんと水溜まりは音色を奏で、春雨はリズムを刻み、俺は歌う。あは、あははははは。あははははは、ははははほは。あはははははははははははははははははははははははははは。ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
はは。
ああ、もう。
「幸せ、だなぁ…………!」
∮
気が付けばもう家の随分近くまできていた。ここからなら後数分もかからないだろう。俺は歌うのを止め、走る速度を加速させた。
(早く、もっと早く)
学校にある間も楽しいけれど、家にいるのはもっと幸せなんだ。雨の音色よりも、いやどんな音楽も"それ"に勝ることはない。俺が最も胸が高鳴る瞬間、それがあの家のドアを開ける瞬間だ。だって、開ければ"あの人"が待ってるんだ。俺の帰りを待ってくれてるんだ。あぁ、早く早く会いたいなぁ。それでぎゅっと抱き締めてもらうんだ。骨が軋む程抱き締めてもらって、痛いくらいに抱き締めてもらって-------------------あぁ、待ち遠しくてたまらない。
扉の前、どきどきする鼓動を抑えてドアノブに手をかける。掌の内側が汗で湿っていて、開けるのに手間取った。
がちゃん。がちゃがちゃ。
扉を開く。
俺はそこで待っている人の名前を呼んだ。
「ただいま、"兄さん"!」
∮
『あの日、馬場君は半ベソかいて僕の所へやってきた』
『ヒナ君が飛び降り自殺を図ろうとした、あの日』
『ここが流石と言うべきなんだけど、馬場君はヒナ君が飛び降りる瞬間もう既に現場にいたんだ』
『どうやらGPSアプリなんてものを入れていたらしい。……愛の為せる技だよねぇ』
『そして、ヒナ君は運が良かった』
『アパートの六階。あの高さから落ちたけれど、ヒナ君は死ななかった』
『まぁ馬場君がすぐに救急車を呼んだからってのが一番大きかっただろう。……彼の功績だね』
『うん?……あぁそうだよ、ヒナ君は死んでない』
『馬場君もそれは知ってるよ』
『……じゃあどうしてこんなことになってるか、だって?』
『さぁね、どうしてだろう。僕にはさっぱり分からないな』
『…………どこかに、弱った心につけこもうとした悪い大人がいたんじゃないのかな』
『あぁそれにしても、あの時の馬場君はとっても可愛かったなぁ』
『すぐに壊れてしまいそうなくらい震えてて…………まぁ実際にすぐに壊れてしまったんだけど』
『まぁ何はともあれ馬場君は"馬場満月"になった、正真正銘のね』
『それをする為には過去を否定しなければいけなかった』
『楽しかった思い出、忘れてはいけなかったこと、全部を』
『その結果、彼の世界は随分と小さくなってしまった』
『このまま行けば、きっと彼の世界が"兄さんと自分だけの世界"になる日も近いだろう』
『……なんて、幸せなんだろうね。それは』
『ねぇ、そう思いませんか。先輩』
『…………先輩?先輩、何処にいったんですか』
『僕を、一人に』
∮
兄さんの白いふわふわに頭を抱えて埋める。
「えへへ」
「……どうしたの?満月」
兄さんの白くてふわふわした髪の毛からは何時も甘い匂いがする。まるで綿菓子みたいだ。俺は兄さんのこのふわふわの甘い白い髪が大好きだ。ずっと顔を埋めていたい。だけど綿菓子は口の温度で直ぐに溶けてなくなってしまう。じゃあ兄さんも溶けてなくなってしまうのだろうか。それは嫌だなぁ、と思って兄さんが俺から離れないように身体をぎゅっと抱き締めた。
「もう。……どうしたのさ、満月」
「……兄さんは、溶けない?」
「本当にどうした?……大丈夫、兄さんはずっと満月と一緒にいるから。だから、ね?安心して……」
「うん……」
兄さんは人間だ。だから溶けるはずがない。そんなの分かりきってることのはずなのに、何故だかどうしようもなく不安になった。目を少しでも逸らしたら、その一瞬で大切なものが全部消えてしまうような、そんな感覚が、恐怖が、俺を襲ってくる。
怖くなって、俺は兄さんの身体をより強く抱き締めた。
「…今日の満月は甘えん坊さんだね」
「…………」
「いいよ。ほら、こっちを向いて」
「うん……」
「ぎゅー」
「…………ぎゅー」
「暖かいでしょ?」
「…………うん、暖かい」
そう言って兄さんは正面を向いて俺の身体をぎゅっと抱き締めた。暖かくて、気持ちよくて、心地いい。このまま兄さんの中に溶けて、一つになれたのならどんなにそれは良いことなんだろう。そうなったら、きっとこの名前の付けられない不安もなくなる。なんて幸せなんだろう。それは。そう思ったら、知らず知らずのうちに涙が零れていた。
「…………泣いてるの?」
「……兄さん、俺、分からないんだ」
「……」
「……学校は楽しい。友達はいないけど、幸せだ。みんな凄くいい人ばっかりだ。……なのに」
「……なのに?」
「時々その全部を捨てて、逃げてしまいたくなる」
いつか全部消えてなくなってしまうなら。
いつか壊れると分かっているから。
それならいっそ。
自分の方から。
「…それも良いと思うよ。僕ならずっと満月と一緒にいてあげられるよ。満月に寂しい思いなんか、不安にさせたりなんか絶対しない」
「…………本当?」
「うん、絶対」
その言葉を聞いたら、酷く安心して。疲れが一気に実体化する。眠い。とても眠い。兄さんの腕に抱かれながら俺はゆっくりと目を閉じた。
「…………一人ぼっちは嫌なんだ。凄く、凄く寂しいんだ。悲しいんだ。辛いんだ。ねぇ、一人は嫌だよ。一人にしないで、俺を、一人に……」
最後に見た兄さんの顔は笑っているように見えた。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.93 )
- 日時: 2018/03/27 08:13
- 名前: 羅知 (ID: W0tUp9iA)
∮
放課後の空き教室には薄いカーテンを透過して光が差し込んでいる。中途半端に開けられた窓からは、はらはらと桜の花びらが入ってきていた。今は誰も使っていない空き教室。ほんの少し前まで此処でオレ達は一年B組の生徒として一年を過ごした。個性ある仲間達と、共に学び、共に笑い、共に泣いた。机の位置も椅子の位置も何もかも変わらないはずなのに、人気のないこの場所は、共に過ごしたあの場所とは別の場所のように見える。
そのことをオレは───尾田慶斗は、ほんの少し切なく感じる。
まだ一ヶ月も経たないけれど、アイツらも、あの頃とは変わってしまっているだろうか。もし、そうだったとしても、この場所に来てくれるのなら、きっと心は同じだろう。それにどんな風に変わっていたって、アイツらはアイツらだ。一年を共に過ごしたクラスメイトだ。それは変わらない。
(……それに)
『……ほんとうの、おれで、みんな、と、すごしたかった、いっしょに、わらいたかった』
『もし、もういちど、あえるなら、おれを……うけいれてくれ、ますか、ともだちに、なって、くれますか?』
その言葉に俺達は確かに頷いた。だけどアイツはそれを見る前に目を閉じてしまった。俺達は伝えなければならない。アイツが泣きながら言った"あの言葉"の返事をアイツに伝え直さなければならない。腫れるくらいに掴まれた、あの腕の痛みを、俺達はきっとそれをするまで、忘れることなんて出来やしないのだ。
今日、この場所でアイツらと集まろうと約束した。
大切なクラスメイト二人を取り戻すための作戦会議のために。
∮
「────つまり、シーナは可愛さと格好よさを兼ね備えた天使であり、人の理に収まる器ではないんだよ。分かるか?いや分かんないだろーな、分かってほしくない。だって分かっちまったらお前はオレの敵ということになっちまう。シーナの為なら鬼でも悪魔でも何者にだってなってやるつもりだけれど、何もオレは敵を増やしたい訳じゃないんだ。むやみやたらに血を流すのはオレの本意じゃない。じゃあ何故オレが、こうもシーナについて語るのかって言えばそれはまあアレだよ、神話は語り継がれなければならない。それを語るに相応しい者は誰か?誰よりもシーナの事を知っているのは?そうオレだ。つまりこれは信仰活動なんだ。この行為によってオレはシーナを崇拝しているんだ。あくまで信仰活動であり布教活動じゃない。オレ以外が信仰するなんて認めない。だってシーナは、オレの可愛くて、格好いい、天使のシーナは」
「────尾田君、これ以上惚気るようなら、この場から即刻立ち去って下さい。これは本当です」
ここで止めないと、あと小一時間は話し続けそうな勢いだったので、最大限の睨みを効かせて止めさせてもらった。結構言葉がキツくなってしまったような気がするけれども、このくらい言わないと彼の葵に対する愛は留まるところを知らないのだ。一年の時からそうだったので、もう慣れっこだけれども彼にはもう少し節度というものを覚えてほしい。私、菜種のそんな言葉を聞いて、彼は驚いて眉を八の字にして弁解しながらも、どこか嬉しそうに笑っていた。もしかしたら彼は不安だったのかもしれない。クラスは、ばらばらで、通りすがりに会うこともあまりない。だからこそ一年の時のようにわちゃわちゃと意味のないお喋りをしたかったのかもしれない。こういう下らない会話を楽しみたかったのかもしれない。
彼がこうして調子に乗って話している時、よくつっこんでいたのは背の小さくて可愛らしい顔をした"彼"だった。馬鹿じゃないの、そんな風に言いながらも毎回ご丁寧突っ込んでいる姿はクラスの定番だった。
今ではクラスどころか、この学校のどこにもいない、彼。
自ら命を絶とうとして飛び降りた、彼。
私達の、大切な、友達。
「ご、ごめんって。一年B組メンの久し振りの集合だから、ちょっとテンション上がっちゃってさ」
「尾田君は限度という概念をご存知ですか?」
一年の時には、こういうノリになかなかついていけなかったけれど、あの一年で鍛えられたのか、こういうことも言えるようになった。自分で言っていて性格が悪いなと思う。だけども言われた側である尾田君は、あまり悪い風には感じてないらしく、感心したようにこう言った。
「……はぁ、菜種ってば本当学年上がってから"強く"なったよなぁ。自分の意見とかもずばずば言えるようになってさ。同じクラスだった時は本当大人しい奴に見えたんだけど……今のクラスでは、級長やってんだろ?本当凄いぜ」
別に他に立候補者がいなかったので、手を挙げただけだ。まぁ、やってる内に"やりがい"とか、"楽しさ"とか、そういうのを感じないことも、なかったけれど。結果的にそうなっただけで、私が立候補した理由はそんな大層なものじゃない。内申稼ぎとか、このまま決まらないのは良くないから、とかそんな邪な理由だ。それを真顔でそういう風に言わないで欲しい。何だか急に自分が凄いことをやってるような気がして、顔が赤くなってしまう。
そんな反応を見せた私に、尾田君は顔をひきつらせた。なにかしらと思って横を見てみれば、隣に座っていたガノフ君が般若みたいな顔をして尾田君を見ている。
(私が……尾田君に誉められて、赤くなってたから?)
もしかして、これは巷でいう"ヤキモチ"という奴だろうか。そうだったら……嬉しい。余計顔が赤くなってしまう。
そんな私とガノフ君に、尾田君は呆れたようにはぁと、ためいきを吐く。
「……ああもう、そのくらいで照れないでくれよ。横にいる奴に消されちまう。オレの言えたことじゃないけど、お前ら二人も相当惚気てるって」
「……惚気て何が悪い。紆余曲折あって、ようやく!ようやく、こうして!二人で!」
からかうような尾田君の言葉にかちんときたのか、ガノフ君の言葉に熱が籠る。付き合う前の彼はこんな風に感情を表に出す感じではなかった。あくまで冷めたまま思ったことをそのままいう、そんな人だった。私のせいで、"こんな風"になってくれたのなら、それはなんて嬉しいことなんだろう。
ガノフ君のそんな様子を尾田君は、へらっと笑って受け流している。やはりあんまり堪えてないらしい。
「あーハイハイ、オレが悪ぅございました。まぁラブラブなのは悪いことじゃないと思うぜ。……今の状況は"アイツ"もきっと望んでた」
「…………」
尾田君が、その言葉を口にした瞬間、空気が変わった。騒がしかったそれが、一瞬でしんとしたものに変わる。
あの、"約束"を、私達は忘れることなんて出来ない。
その為に、今日も集まったのだから。
「だけど、オレ達だけが、幸せじゃ、駄目なんだよ。アイツも、アイツらにも、幸せになってもらわないと」
「ただいまー。ちょっと日直で遅れちゃった…………あれ?何か辛気くさい感じだねッ?」
しんとした空気を壊す、がらがらという扉を開ける音を立てて葵がくる。これで今日これるメンバーは全員来た。私と、尾田君と、椎名君と、ガノフ君。
馬場君の、"あの言葉"を聞いた、メンバーは、あと二人いた。
「あの二人は…………来なかった、ですね」
「仕方ねぇよ。アイツらも…………あの言葉を、忘れてる訳じゃない。ただ理由があって……来れてないだけだ」
きっとそうなのだろう。あの二人が夢見るみたいに、ふらふらと歩く彼を見る目は、酷く苦し気だったから。自分の中で何か問題があって、その折り合いがつくのに時間がかかってるんだろう。私達にそれを急かす権利なんてない。
一ヶ月前の終業式のあの日。
私達はあの日を忘れられない。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.94 )
- 日時: 2018/07/01 17:50
- 名前: 羅知 (ID: TxB8jyUl)
∮
愛鹿社は人気者だ。
「愛鹿さん、二年生になられてからよく音楽を聞いてらっしゃいますけど、何を聞いてますの?」
「…………あぁ。これか?」
「えぇ」
「んー……秘密」
誰もが彼女と話す際、頬を染める。彩ノ宮高校が女学校だからというのもあるだろう。学校での彼女は所謂王子様だ。おれ───中嶋観鈴としては彼女のそんな立ち位置を不服に思っているのだが。社は王子様なんて柄じゃない。むしろ童話のお姫様を夢見る、可愛らしい女の子だ。小さいときの彼女はよくふんわりとしたスカートを履いて、ピンク色を好んで着ていた。そしてお姫様の出てくる絵本を読んでは、その童話の中のお姫様を羨ましそうな目で見ていた。将来の夢は可愛いお嫁さんになること。彼女はよくそうオレに話していた。
しかし、いつからだっただろうか。彼女は極端に変わった。長かった髪は肩よりも短く切ってしまい、服の感じもボーイッシュなものを着るようになり、口調も変わった。特に人前では、まるで男のような振る舞いをとるようになった。まさに童話の中の"王子様"のような。
きっかけは今でも分からない。しかし彼女に何かあったことは確かだ。
「私は、お姫様にはなれない。それが分かったから」
理由を聞いてみても、彼女はそう答えるだけだった。意味が分からなかった。おれからしてみれば、彼女は今も昔もずっと可愛い女の子だ。だからこそ周りのキャーキャー叫んでる雌豚共の気持ちがまったく理解できない。社の可愛さも理解できないで、あんな風に頬を染める姿を気持ち悪く感じる。見る目のない下等生物は黙って、地べたに這いつくばって泥水でも啜っておけばいいと思う。
「えー?教えてくれないんですか?」
「あぁ……私のお気に入りの奴だからな。皆には秘密だ」
べたべたと汚ならしい手で社の腕に絡み付く糞女。お前の便所臭い匂いが社に移ったらどうしてくれる。身の程知らずが、弁えもせずに。
(死ねば、いいのに)
あぁ虫酸が走る。
そろそろ、我慢の限界だ。
おれは席から勢いよく立ち上がって、社に群がる糞虫共をかき分けて彼女の所へ走った。
「あーセズリぃ、おトイレ行きたくなっちゃったぁ!一人じゃ寂しくて泣いちゃうからぁ……やしろちゃん、一緒にいこ!」
「あ………あぁ」
腕を無理矢理引っ張ると、抵抗することなく彼女はオレについていった。さっきまで社に話し掛けていた強い香水を付けた女が元々醜い、その顔面を更に歪ませて、おれの方を睨んでいる。あぁお前には、その顔がお似合いだ。おれは心の中でその女の顔に唾を吐いた。誰かが「身の程知らず」「便所女」そう小声で言った。
鏡を見てから言ってくれ、そう心の底から思った。
∮
『私はお姫様には、なれない』
『それはずっと前から分かってたんだ』
『王子様は私に振り向いてくれないし』
『お姫様は、お城の外へ出れないから』
『……王子様とお姫様は一生くっつくことは、ないの』
『だから、さ。思ったの』
『私が、王子様になればいいんだ。って』
『そしたらさ、私は私の愛する人の所へ行けるの』
『大好きな、あの人の所へ』
『……だけどさ。私の愛する人は何処かへ行ってしまったみたい』
『私ね。大好きな人のことは一挙一動まで知らなきゃ気が済まないの』
『だから、今度見つけた時は』
『私のお城に閉じ込めて』
『絶対に逃がしたりしないから』
『ねぇ、ユキヤ』
『私、ユキヤが帰ってくるまで』
『ずっと、ずっと見てるから、ね』
『今度は絶対に見失ったりしないよ』
∮
「なぁ社」
「…………」
「社ってば!」
「…………ああ、何?」
最近の社は変だ。いつもぼんやりしてる。ずっと耳にイヤホンを付けて音楽を聞いて何を言っても上の空だ。辛うじて人前では、ちゃんとしているけれど、おれと二人きりの時や家にいるときは"こう"だ。まともに返事すらしないこともある。
「社……最近変だぜ」
「そう?」
「うん、病院に行ってからだ。病院に行ってから、ずっとそうだ」
「そうかな」
そう言って社は小動物のように可愛らしく小首を傾げる。本人に自覚はなく、心当たりもまったくないらしい。やはりおかしい。病院に行った時から──あの小柄な男に会った時から、ずっとだ。あの男が社にとって、どんな存在なのかは知らないが、彼女に悪影響を与えるなら、おれは容赦しない。死んでもらいたい。
おれのそんな心情も露知らず、社はあぁ!と思いついたように、おれに話しかけてくる。その姿は酷く楽しげだ。
「天使ってさ、本当にいるんだね」
そんな、すっとんきょうな事を彼女は口にした。おれは、ぽかんとしたまま彼女のことを見ていた。そんなおれを気にせず彼女は話し続ける。意味の分からないことを。
「ヒナ、飛び降りたんだって。でも死ななかったんだって。やっぱりヒナは天使だったんだよ。そうに、そうに決まってる。ヒナが私の前に現れる時はね。いつだって私とユキヤを近付けてくれるの。ヒナは、ヒナはキューピッドなんだ。私の、私の天使。やっぱりね。あんな可愛い子が人間な訳なかったんだよ。私、私分かってたんだ。えへへ。もう、もう離さないからね。ユキヤ、私ユキヤが壊れちゃっても、もう、私のことが見えなくなっても、私はずっと、ずっと見てるから。私は、私は私は私は私はわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしは私は私は私はわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしは…………ははっ!!あはははははは!!あははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
「…………やし、ろ」
「あはははははっ!!楽しくないっ!!全っ然!!楽しくない!!心が空っぽでそこから色んなモノが零れ落ちてくみたいな感じ!!…………ふふふっ、どうしてそんな顔してるの観鈴?いつも私が幸せだと嬉しいって言ってくれるだろ?私は笑顔が一番だって!!ほら私笑ってるよ!!すごく、すごくすごくすごく!!観鈴も笑おうよ!!あはははははははははははははっ!!!」
壊れたように笑いながら、社は言う。
彼女の耳からイヤホンがぽとりと落ちる。そこからは音楽なんか流れてこず、ただただ人の生活音のようなものが垂れ流されていた。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.95 )
- 日時: 2018/07/01 18:38
- 名前: 羅知 (ID: TxB8jyUl)
∮
オレ──尾田慶斗が無事腹の怪我も完治し教室に戻ってきたとき、朝のクラス内には異様な雰囲気が流れていた。聞こえてくる会話、笑い声、その全てが空々しい。何もかもがわざとらしく、上擦って聞こえる。まるでクラス全員が下手な演技をしているようだった。それを見たオレは背筋がぞわりとした。見知ったクラスメイトが喋ったことのない他人よりも遠く感じた。何だこの気持ち悪い光景は。オレは、すぐにシーナの席に走った。気持ち悪い空間の中で、唯一シーナだけが綺麗に見えた。オレが走ってくるのをシーナは分かっていたらしく、オレの目を見てバツの悪そうな顔をした。何を言えばいいのか、何から言えばいいのか分からない。そう言いたげな様子だった。
「……シーナ」
名前を呼ぶと、シーナの体がぴくりと動いた。彼の視線が曖昧にさ迷う。オレは、どうしても何が起こっているのかを知りたくて、彼の瞳をじっと見つめた。
三十秒程、彼の目を見ていただろうか。根負けしたようにようやく彼はオレの目を見た。そしてゆっくりと口を開く。それは、いつも明るいシーナには似合わない重苦しい口調だった。
「…………うん、分かってたよ。ケートがここに来ちゃえば、すぐに分かることだって、さ。だけど……言ったら、"全部認めちゃうことになっちゃう"気がして」
「………?」
「…大丈夫、説明するよ。でも今は時間がないから……昼休みまで待ってて」
シーナが、その言葉を言い終えたのと同時にチャイムの鐘が鳴り響いた。慌ただしく席につく面々は、この時間が終わったことにどこか安心しているようだった。オレも、もやもやした気持ちを抱えながら席につく。オレがいない間に一体この教室に何があったというのだろう。シーナすらオレに教えてくれなかった。そんなにも言いにくいことなのだろうか、それは。
オレは昼休みが待ち遠しかった。このままじゃ授業なんて、まともに受けられそうにない。
そして、そんなオレの疑問に答えるかのように授業の最中、このクラスの"異変"はオレの目の前で起こって、オレに全てを伝えたのだった。
∮
初めは何か虫でも鳴いているのかと思った。
(……いや、これは)
かたかた、かたかた。よく聞けば、それは人の出している物音だった。いくらなんでも虫はこんな鳴き方はしない。これは机の揺れる音だ。かたかた、かたかた。気にしなければ大した音ではないが一度気にしてしまうと、不快に感じる程度には煩いと思ってしまう。一体誰がこんな音を出しているのだろう。オレは若干イラつきながら、周りを見渡し、その音の犯人の姿を見て息を飲んだ。
(……馬場、満月)
馬場満月の身体が、小刻みに震えて、机をかたかたと揺らしている。唇を噛み締めて、震えを抑えるように自身の身体を抱きしめているが、ちっとも収まっている様子はない。目からは涙がつたっている。彼の涙が、彼の教科書をしとしとと濡らしていく。その姿はまるで何かに怯えている獣のようだった。
誰もが馬場満月の、そんな姿が見えているはずなのに、皆示し合わせたように、それから目を反らしている。普通に進んでいく授業の中で、彼だけが置いていかれていく。彼だけが浮いていく。
(なんだよ、これ)
彼の存在は、このクラスに"なかったこと"にされていた。こんなにも震えている彼を、泣いている彼を、見て見ぬふりをしている先生やクラスメイト達。そんな彼らの態度に、驚きが、だんだんと怒りへと変化していく。
オレは半分ヤケクソになって、教科書を読んでる声も無視して、先生へ言った。
「……先生!馬場が体調悪いみたいなんで、保健室連れてきます」
「……え」
教室が一瞬ざわめく。生徒も先生もオレのその行動が信じられないというような目付きで見てくる。驚くことに、一番その目でオレを見てきたのは馬場満月だった。震えはそのままに、涙もふかないままで、オレをぽかんとして見ている。
「じゃあ、行きますから」
「あ、ちょ」
オレは先生の返事も聞かずに、教室の外に出た。
∮
「あの、さ……尾田、君……」
暫くオレにされるがままに引っ張られていた馬場だったが、保健室までの道のりを半分ほど過ぎたとき急に立ち止まって、彼は震える声でオレに言った。
オレはさっきのことで大分キレていたので、少しつっけんどんに答えた。これでもただでさえ泣いている馬場を怖がらせてはいけないと感情を抑えたつもりだったけれど、大分滲み出ていたようで、馬場はびくん!と身体を大きく震わせた。
「……なんだよ」
「……えっと、な、なんか、誤解してる、みたい……だから、説明する、けど、俺は苛められてる、……訳じゃ、ないぞ?」
「…………」
あの光景を見た上でその言葉を信じられる訳がなかった。馬場が泣いてる。震えている。それを皆無視している。あんなの完全に苛めだ。どんな理由があったとしても苛めは許されない。良い奴らだと信じていただけに、オレはアイツらに失望していた。よりによってコイツを、文化祭であんなに頑張ってたコイツを、いつだって生きることを頑張ってたコイツを苛めるなんて。
オレが信じてないのが伝わったのだろう、馬場は相変わらず声は震えていたが、先ほどよりも強い口調で、オレにはっきりと言った。
「信じて……もらえない、かもしれない、けど、"あれ"は、俺が、頼んで、みんなに、やって、もらってるんだ」
「…………」
「"あの時"のことを思い出すと……どうしても、こうなっちゃって……こんなの"馬場満月"じゃ、ないだろ?こんな、"オレ"、誰にも見られたくない……だから、だから"いないこと"にしてほしい、って頼んだんだ、皆に……俺が」
「……"あの時"?」
"あの時"、とは一体いつのことなのだろう。オレが入院していた期間で何かがあったのか?そんなニュアンスを込めてオレが"あの時?"と口にした途端、馬場は堰を切れたようにもっと泣き出した。彼の目からは滝のように涙がぶわっと溢れている。彼自身そんな風になっていることに驚いているようで、落ちていく涙を袖で拭いながら、困ったように笑った。
「……あ、あれ?おかしい、な……ごめん、ごめん尾田君……驚かせた。そうだよ、な。尾田君は"知らない"よな、入院、してたんだから……」
「む、無理して笑うなよ!別に説明したくないなら、説明なんて、しなくていいから……!」
本音を言えば、今すぐに"あの時"のことを知りたい自分は確かにいた。だけど馬場をこれ以上泣かせてまで、苦しませてまで、聞きたいとは思わない。オレは馬場の顔を自分の肩にぎゅっと押し当てた。彼の身体は力がまったく入っておらず、簡単に傾いた。耳元のすぐ近くで、彼の鼻をすする音と、泣き声が聞こえてくる。
「ほら……泣けよ。今ならオレも、誰も見てないから」
「…………は、はは。尾田君はかっこいい、なぁ…………でも、大丈夫だ」
抵抗することなくオレの肩に頭を預けた馬場だったが、数秒も経たない内にすぐに顔を上げた。既に彼は泣いていなかった。いや、勿論赤く目は腫れて、拭いきれていない涙はまだ痛ましく顔に残っていたけれど、それでも彼はいつもみたいに笑おうとしていた。上手く笑えなくて、大分歪んではいたけれど、自分を奮い立たせるかのように、口角を上げて、目尻を下げて、笑っている風にした。
「……馬場」
「大丈夫、大丈夫だから。……そんな不安そうな顔をしないでくれ」
そう言うと馬場は三回大きく深呼吸をした。すーはー、すーはー、すーはー。そしてそれが終わると、彼は落ち着いた声で、オレに"異変"の正体を端的に説明した。
「……濃尾日向が飛び降りた。俺と電話しながら。俺の目の前で」
「…………!」
「アイツのあの声が今でも忘れられない。落ちていくアイツの身体が今でも脳にこびりついてる」
「…………」
「……俺がすぐに救急車を呼んだからなのか、運が良かったのか。濃尾君は、助かったよ。安心した。凄く、安心した……だけど」
唇をぎゅっと噛み締める馬場。彼の顔が苦渋を飲みこむみたいに歪む。
「紅先生が、しんじゃった」
彼の止まっていた涙が、また溢れ始める。ぽろぽろ、ぽろぽろと顔中をつたっていく。拭っても、拭っても、その涙がなくなることはない。消そうとしても、忘れようとも、その事実は消えることなく彼の頭に残って、彼を苦しめているのだろう。
「……俺、濃尾日向が、助かった……って聞いて、凄い、安心して…………だけど、ヒナは死にたかったのに、オレ本当に邪魔しちゃって良かったのかなって……なって。ヒナに、言われたんだ、何で邪魔したのって。凄く、今までにないくらいに怒鳴られて、泣かれて、出てって……って言われて」
「…………そしたら、星さんに、会って。紅先生が……しんじゃったって聞いて。すてら、さん……泣いてたんだ。それで……オレに言うんだよ。どうして……どうして命を粗末にするの、って。捨てるくらい、なら…………生きたかった人に渡してって、紅先生に渡してって…………それ聞いて、オレ分からなくなっちゃったよ……オレどうすれば良かったの……ヒナを……見殺しにしろって……?そんなのは無理だよ…………でも、すてらさんの言うことも……分かるんだよ。オレも……ヒナも、自分が嫌いで……命をないがしろにして…………辛くても、死にたくても、一生懸命に生きてた、生きようとしてた……あの人はしんじゃって……」
「…………今さら気がついたんだ。オレたちの捨てようとしていた……命は……誰かの生きようとしていた命なんだ、って……」
「…………………でも、オレ、ヒナには死んでほしくないよ……生きててほしかったんだよ………………でも、どうして……?オレは、こんなにも死にたいのに……ヒナは、あんなにも死にたかったのに…………どうして生きようとしてた人が……死ななくちゃならないんだよ……殺してくれよ……死んじゃいけないなら…………誰か、殺してくれよ…………あの人が死んだのに……オレが生きてるのが……不思議で……苦しいよ……誰かの"生きたい"を背負って……生きてくのは、辛いんだよ…………」
悲しい。苦しい。辛い。消えてしまいたい。
オレには馬場の言ってることが分からなかった。先生が死んでしまったとか、馬場と濃尾の狂おしいほどの死にたい気持ちとか、それらを理解するにはオレの脳内容量が足りなすぎた。ただ、馬場自身も分からなくなりかけてるんじゃないかとらそんな風に思った。彼の言ってることは支離滅裂だ。だけど、そのぐちゃぐちゃの状態こそが今の馬場の心なんじゃないだろうか。死にたいとか、生きなきゃいけない、とか。そういったものに埋もれて、彼はもう何が何だか分からなくなってきてるのだろう。オレに、そのバラバラになってしまった心を拾うことは出来るだろうか。例え、拾えたとして、元の形と同じように戻すことなんて出来るのだろうか。不器用なオレに、そんなこと出来るのだろうか。壊れたものを、傷ひとつなく元の形になんて。そんな奇跡みたいなこと。
出来るはずが。
「…………」
ただただ泣き続ける彼に、オレは何も言ってあげることが出来なかった。どうしようもならない気がしてしまった。あんなにも馬場を救おうと思っていたのに、オレには出来ないかもしれないなんて、弱気な心が、オレに馬場に何も言えなくさせていた。仕方なく、そのあとの道は、黙ってオレは彼を保健室へ連れていった。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.96 )
- 日時: 2018/05/04 12:42
- 名前: オルドゥーヴル ◆ZEuvaRRAGA (ID: eGpZq2Kf)
どうも、いつもこの作品を読んでます。オルドゥーヴルといいます。
2年生になった馬場くん達ですが、まだ隠された何かがあるようで楽しみにしてます。
それでは、また次を楽しみにしてます
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.97 )
- 日時: 2018/06/17 23:17
- 名前: 羅知 (ID: m3TMUfpp)
∮
オレが教室から出ていったのが、四時間目も半ば過ぎた頃。オレが戻ってきたとき、既に教室は約束の昼休みの時間になっていた。少し皆と顔を合わせるのを気まずく思いながら、後ろのドアからそっと入ると、それまでざわついていた皆が一斉にこっちを見て、黙った。
「…………あの、皆」
何か言わなければいけない気がして口を開いたけれど、上手く言葉が出てこない。皆の視線が苦しい。哀しげな、煮詰めた蒼のようなそんな目だ。責められている訳でも、怒られている訳でもないのに、その瞳で見られていると息が苦しくなる。皆だって哀しいのだ。苦しいのだ。そんな感情を抑えて彼らは"日常"を演じていたのだ。オレが勘違いをして怒っていたことは皆にも伝わっているだろう。今すぐにでもオレは彼らに謝りたかった。皆の説明もろくに聞かず、勝手に怒って、彼らのことを誤解した自分の行動を詫びたかった。なのに何故だろう、声に出そうとすると唇が震えて上手く喋れない。
「…………ごめん」
かろうじて、そんな言葉が口に出たが、自分の言いたいことはもっと沢山あるような気がした。オレは何を言おうとしているのだろう。誤解に対しての謝罪?無視を貫く彼らへの労い?色んな憶測が頭の中を巡るが、そのどれもが纏まりがなく、泡沫に頭の中で浮かんでは消えていく。
「ケート」
何も言えないまま、ドアの所で立ち尽くすオレを優しく呼ぶ声がした。オレの誰よりも大切な人────シーナの声だった。
「……大丈夫だよ。分かってるから」
あんな態度を取られたというのにシーナはオレに向かって怒ることもなく、ただ悲しげに笑ってそう言った。その言葉にクラスの皆も同調して、こくりと頷く。教室のあちらこちらから声が聞こえる。
「……お前は知らなかったんだ、仕方ない」
「人の為にあんなに怒れるのが、ケート君だもんね」
「馬場から話、聞いたんだろう?……辛いよな。俺達も辛い」
「でも……馬場の方が今もっと辛いはずだからさ」
「だからね、私達待とうと思ったの。馬場君がまた元気に笑えるまで、待とうって」
「アイツが元気になったらパーティーするんだ!復活パーティー!」
「勿論……濃尾君も一緒にね」
煮詰まった蒼の奥に仄かな光が見えたような、そんな気がした。ここにいる誰もが馬場満月のことを想っていた。無理矢理作った笑顔の裏で、またアイツと本当に笑い合えることを願っていた。皆がアイツが大好きだった。アイツの作っていた"世界"が大好きだった。アイツ自身もきっと好きだったのだろう。"馬場満月"の世界が。"馬場満月"として振る舞って、皆が笑ってくれる世界が。
『……"馬場満月"、じゃないと。俺は』
本当にそうだろうか。
ここにいる皆は本当にアイツのいう"馬場満月"だけを気に入ってるのだろうか。驚異の当て馬で、馬鹿みたいに明るくて、光輝いていたアイツを。いつもニコニコ笑っていたアイツを。
オレは違うと思った。否、それだけじゃないと思った。オレ達は確かに明るいアイツが好きだった。だけどそれと同時に明るく笑おうとする、皆を笑わせようとするアイツが好きだったのだ。人の為に倒れるまで脚本を書き上げたり、良い劇を作る為に死ぬほど真剣になったり、オレ達の言葉で涙を流していたアイツのことが。
馬場満月の内側にいる"誰か"のことが。
(そこらへん……分かってるのかよ。"馬場"……)
人の感情の機微を読み取るのは得意なくせに、自分に向けられる好意を受け入れるのが死ぬほど下手くそだったアイツはきっと気付いてないんだろう。"自分"がこれほど愛されてることなんて。アイツみたいな鈍感野郎には、言葉にして、行動に表して伝えないと、伝わらないのだ。
アイツが元気になったら、濃尾日向もまた学校に来れるようになったら、はっきり言ってやろう。大好きだって。アイツが振り撒いていた愛の分だけぶつけてやろう。
オレは、そう心に決めた。
∮
「……多分満月クン本人から聞いたと思うけど、そういうコトなんだ……ずっとこうしてる訳にはいかないけど、さ……満月クンがもう少し落ち着くまではほっといてあげよう、ってクラスの皆で決めたんだ」
お弁当のウインナーをつつきながら、シーナはそうオレに説明した。 オレが帰ってくるまでシーナは弁当に手を付けていなかったらしい。彼のお弁当の中身はまだおかずでいっぱいだった。未だ弁当を一口も食べていないオレだったけれど、シーナのその優しさでお腹は満たされなくても胸いっぱいだ。
「馬場は……ずっとこうなのかな」
「分かんない…。日向クンがあんな風になっちゃって、ボク達も凄くショックだったけど、親友だった満月クンのショックは絶対ボク達以上だったはず……日に日に悪くなってるんだ。あんな風に取り乱す回数が、日が経つごとに増えてってさ……」
そこまで聞いて、オレは"ある違和感"を感じた。
「…えっと、シーナ。紅先生は───」
「紅先生?……そうだね。紅先生がいれば満月クンも相談できたかもしれない……冬休みが明けたと思ったら異動してたんだもん……びっくりしたよ……」
その言葉でオレは、その違和感が気のせいではないと確信した。もしかしてシーナは馬場の悩んでいる本当の理由を知らないのだろうか。それどころか紅先生が死亡したという事実すら知らないように見える。いや、まだそもそも"紅先生が死んだ"ということすら事実なのかどうかすらオレには分からないけれど、少なくとも馬場はあの言葉を一定の確信を持って言っていたはずだ。実際に紅先生は、この冬休みが明けた直後から学校に来ていない。冬休みに突然異動だなんて妙だ。馬場の"死んでしまった"という言葉には十分な説得力がある。だからといってオレは椎名の言葉が嘘だとも思えなかった。何はともあれ、これだけの情報じゃ結論がつけれるはずもない。オレは続けてシーナに聞いた。
「シーナ……紅先生が今どこの学校に異動したか分かる?」
「……うーん、ボクもよく分かんないんだよね。本当に突然のことだったから………あ、でも」
そこまで話して、シーナはポンと手を叩いて思い出したように言う。
「今の臨時の担任の……海原蒼先生なら知ってるかもッ!ほら、朝いたでしょ、青い髪の美人の先生。あの人紅先生の受け継ぎとして、ここに来たみたいだからさ…」
∮
というわけで。
「それで、尾田君。…………アタシに何か聞きたいことがあるって聞いたのだけど、何だったかしら?」
オレは早速その日の放課後に海原先生に話を聞くことにした。帰りのSTの時間に急いで約束を取り付けたので、今日中に約束を受け入れてもらえるか不安だったが、先生は二つ返事で快く受け入れてくれた。これはオレの考えすぎかもしれないが、もしかしたら先生はオレが今日質問してくることを分かっていたのかもしれない。
場所は、今では懐かしい紅先生に馬場のことを相談した部屋だ。掃除があまりされていないのだろうか。あの時よりも少し埃っぽくなったような気がする。
「……前任の、紅先生のことについて」
オレの言葉を聞いて、先生の肩がぴくりと震えた。やっぱり先生は何かを知ってるのだろうか。今は何でも良い。情報が欲しい。オレは情報が手に入るかもしれないと生唾を飲み込んで、先生の返事を待った。
「……その様子じゃ、もう馬場君から色々聞いてるんでしょ。じゃあ隠しても無駄ね……」
少しが間が空いて、先生は大きく溜め息を吐いた。そして困ったように笑って、そう言った。意味深な先生の言葉に、オレはじれったくなって思わず一番聞きたかったことを聞いてしまう。
「……紅先生は、本当に死んでしまったんですか」
あまりにも単刀直入すぎるオレの言葉に軽く目を見開きはしたものの、先生は大して驚かずに笑ったままの顔でオレの質問に答える。
「……正直なことを言えば、"分からない"わ。それはアタシ"達"にも」
「え?」
"分からない"?分からない、とはどういうことだろう。普通答えは、生きているか死んでいるかのどちらか一つだ。何かを知っているはずの先生が分からないとは、どういうことだろう。もしかして何か知っていると思ったのはオレの勘違いで、先生は何も知らないのだろうか。
「アタシの"分からない"は"、尾田君のとは違って"知らない"ってことじゃないわ。本当にどっちだか"分からない"のよ」
「…………」
「色々あってアタシと紅は知り合いでね。そのツテでアタシはここに来たんだけど……アタシね代わりなのよ。本当は来年ここに来る人の。だけど紅と色々あってその人は"死んじゃった"」
ぺらぺらと海原先生は話す。オレには、とてもじゃないけど受け止めきれない色々な情報を所々に混ぜながら、軽い調子で話す。
人が、死んだ?そんなのに紅先生が関わっている?
「まぁ紅の残したモノを見る限り、死んでも仕方のないような奴みたいだったんだけど。……でもそういう奴ってタダじゃ死なないのよねぇ。死ぬときに紅も巻き込んだみたいで」
「……状況だけ見れば、二人とも九割九分九厘死んだとしか考えられない」
「……だけどね。アタシは知ってるのよ。アイツは一厘の奇跡を起こす男だって。今までだって一厘の可能性で生き残ってきた奴なんだって」
「…………だから、さあ。分かんないのよ。尾田君。アタシにも。紅が死んだか、死んでないかなんて。アタシが知りたいくらいよ、そんなの」
海原先生は、そこまで話すとオレの瞳をじっと見つめた。困ったように笑ったまま、試すような目付きでオレを見ていた。
「……これがアタシの知ってる全部。アタシが言えることはこれ以上ない。で、尾田君どうするの?アタシの話を聞いて、どうするの?っていうかそもそも────」
"普通に生きていた君に"
「─────この"事実"が受け止めきれるの?」
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.98 )
- 日時: 2018/07/09 19:40
- 名前: 羅知 (ID: 3MzAN97i)
そう言われて、どきりとする。海の底の底から、そっと何かにこちらを覗きこまれたみたいだった。その言葉を放つ今の先生は、まるでオレ達とは別の世界の住人のようだ。先生とオレ達の間には決して途切れることのない長い長い水平線が広がっている。海の上と下。同じ世界に住んでいるはずなのに、海の上の人間はけして下で暮らすことは出来ない。下の人間も、また同じ。
狭い狭い教室にいるはずのオレと先生の距離は、今とても離れている。
「……ね。分かったでしょ?尾田君。同じ人間でも、同じ世界に生きていたとしても、私達は──"違う"生き物なの。生きてきた環境も、考え方も、何もかも違う」
「…………」
「アタシと紅は"人が死んだ"って聞いても、別にどうだっていいわ。そういう"世界"で生きてきたからね。理解できないでしょ?アタシ達のそんな考え方、覆そうって思える?思えないでしょ?……アタシ達と尾田君は全然"違う"───でも、そういう"溝"って案外どこにでもあるの」
「…………」
「尾田君達と、馬場君と濃尾君。勿論その間にだってある───大きな大きな"溝"がね」
「…………み、ぞ」
「うん、溝。……君はその"溝"を受け入れられる?大事な友達の為にその溝に落ちてもいい、って思える?」
笑うのを止めた先生は、厳しい口調でオレにそう言った。君には何も出来ることはない。直接言われこそはしなかったものの、言葉の節々がそう伝えていた。オレと先生の間には、大人と子供という年の差以上の大きな溝がある。理解しがたい、埋められることなどけしてない、崖のような、そんな溝が。
(……先生は、オレに何とかしてもらおうと思って真実を話したんじゃない。オレを諦めさせようと思って……)
先生の青い瞳は、濃く深い。じっと見ていると吸い込まれてしまいそうな気がして、オレは思わず目を反らした。先生の言う通り、こんなオレじゃ何も出来ることなんてないのだろう。オレが目を反らしたのを確認した先生は真面目な顔を崩して、優しく笑った。ただしその笑顔の持つ意味は、優しさなんかじゃない。現実を突き立てられて意気消沈したオレに対する、ただの同情だった。
「……ねぇ尾田君、貴方の事は紅から聞いてるわ。少し変わってるけど友達思いのとっても良い子だって。友達が二人大変な事になっちゃって心配なのも分かる。……でもね、君が進もうとしてる道は茨の道よ?二人を救えるかどうかも分からない。下手に深入りしたら、もう前みたいにはなれない。知らなければよかった、やらなければよかったって、後から後悔したって────もうどうにもならないの」
先生は優しく、優しく、言う。
「──────だから、ここで全部忘れたことにしちゃってもいいのよ。何も知らないフリして、分からないフリして、見て見ぬフリしたって─────全然いいの。それは悪いことじゃないから」
∮
『もう何も見たくなんてなかった』
『限界だった』
『目の前の現実は勝てる見込みのない怪物のようだった』
『苦しい』
『疲れた』
『自分が悪いことは分かってるんだ』
『謝っても、謝っても、もう許されない』
『誰かを助けたかった』
『誰かに助けてほしかった』
『きっともう何も叶わないんだろう』
『やること為すこと全部裏目に出てしまう俺は』
『生きてる意味なんかあるのだろうか』
『生きたいのに死んで、死にたいのに生きるなんて』
『どちらにしたって』
『…………』
『……眠りたい、今はただ眠りたいだけ』
∮
「……オレには、まだ分からない。分からないっすよ、先生……」
アタシの目を見ること出来ずに俯いたまま、尾田君はそう言った。黒々とした彼の目はきょろきょろと忙しなく動いていて落ち着かない。けれどもアタシの方を見ることは、けしてない。きっとそれが、アタシの問いに対する彼の答えそのものだろう。意地悪なことをしてしまった。だけど間違ったことをしたとは思わない。これがアタシが彼に与えることが出来る最適解だ。"現実をつきつけること"が、一番だったのだ。彼の友達を救いたいという熱意は本物だった。だからアタシもそれに見合うように誠意を持って応えた。それが彼にとってどれだけ酷なことだったとしてもアタシはそうしない訳にはいかなかった。
尾田君は馬場君達を救いたい。その為に紅の死の真相について知りたい。今の尾田君にはあまりにも情報が少なすぎるのだ。だからこそ彼は馬場君達に関係するどんな情報だって知りたいのだろう。賢い行動だと思う。無知は罪だ。何も知らないまま何かを成し遂げようとすることは愚の骨頂だ。だけど彼は分かっていない。
"知らない"からこそ、人は愚かにも自由に動けることを。
一度でも"知ってしまった"ら、たちまちに動けなくなってしまう現実を。
それでもなお行動することの過酷さを。
現実は正攻法だけではやっていけない。馬鹿が天才に勝ってしまう奇跡なんて世の中には山ほどある。常識の通用しない奇跡という名の不条理なんてありふれている。
「そう。……迷ってるなら、迷ってればいいと思うわ。決めるのは全部尾田君だから」
事実を聞いて、彼がどんな答えを出したとしても受け入れるつもりでいた。そしてすぐに答えが出せるはずがないのも分かっていた。アタシがそれを急かす権利なんてない。ただし時間はアタシ達を待ってなどくれない。迷ってる間に手遅れになってしまうことだってある。そのことをきっと尾田君だって理解している。だからこそ苦しいのだろう。どっちつかずの自分が。覚悟を決めることが出来ない自分が。アタシが尾田君と同じくらいの年だった頃。まだ幼くて、ただひたすらに、がむしゃらに、目の前のものに必死にしがみついて生きていた頃。あの頃のアタシもまた彼と同じように色んな選択を強いられては迷っていた。どちらかを選ぶということはどちらかを捨てるということで。我が儘なアタシはそのどちらもが欲しくて。
(…………そして何も選べず、何も救うことができなかった)
決断は必ず自分自身しなくてはいけない。そうじゃなければいつか必ず後悔するから。
目の前の未来ある少年に、自分のような後悔は絶対にしてほしくなかった。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.99 )
- 日時: 2018/07/16 22:39
- 名前: 羅知 (ID: F1jZpOj6)
∮
いつかの、夢を見た。
『お気の毒に』
警察のおじさんは包帯だらけで白いベッドに横たわるオレを見て、そう言った。何がなんだか分からなくて、でも自分を可哀想な風に思われてることは何となく分かったので、その言葉を否定した。
「違い、ます」「オレは、オレはそんな風に言われるような目に合ってません」「……」「もしかして、オレに、何か」そこまでオレが言ったところで、警察さんはオレの口の前に人差し指を立てた。『君は、混乱してるんだね』そして優しく笑った。『無理もない。それだけの目に合ったんだ』オレはその言葉に違和感を抱いた。そういえば何故自分は病院にいるのだろう。オレは普通に学校に通って、普通に、普通に生きてたはずなのに、なんで、なんでなんだっけ。それに何か変だ。オレが怪我をしてるなら、病院に行くような目に合うなら、側には必ずあの人がいるはずなのに。オレが大好きで、オレの大好きな、あの人が。何で、何で誰も来ないんだ。社も、セツナさんも、兄さん、も。
『……事故────いや、事件の当時のこと、話してくれるかい』
じ、こ? じけ、ん?
『…君と、君のお兄さん。そして愛鹿雪那。今、話を聞くことが出来る状態にあるのは君しかいない。他の二人はまだ───』
なんだって?
兄さんと、セツナさんがどうしたって?
『───君は、あの二人と比べて火傷の跡が少なかった。その代わりに頭に何処かでぶつけたみたいな傷があった。ねぇ、一体何が───』
その瞬間オレは叫んでいた。
聞きたくなかった。何も聞きたくなかった。何も"思い出したくなんて"なかった。だけどもう手遅れだった。塞いでいたはずの記憶の蓋は外れ、あの日の出来事が、記憶が、洪水みたいに次々と溢れてくる。叫んだって、耳を塞いだって意味はない。あの日の声、あの日の言葉、あの日の表情、全部全部全部覚えている。忘れようとしても、この頭に残った傷は、心に付けられた傷は、嫌でもオレにそのことを思い出させてしまう。
『─ごめ、んな。ずっと、ずっと縛り付けてて、ごめん。本当は分かってた。お前が嫌がってること、俺がおかしいこと』
『…兄、さん。オレ……は』
『いいんだ、分かってる。誤魔化さなくたっていいんだ、もう。大嫌いだろ、俺のことなんて。本当は。……やっと、やっと解放してやれる───俺の"執着"から、俺の"愛"から…………』
そう言う兄さんの顔は煙に巻かれてよく見えなかった。兄さんの声は震えていた。オレは兄さんのそんな声を初めて聞いた。何か言わなければいけない気がした。何かを伝えなければいけない気がした。だけどそれを言葉にすることは出来なかった。身体が熱い。全身から汗が滝のように流れ出る。くらくらする。意識が遠のく。何も、考えられなくなる。オレは自分の死を予感した。
『白夜』
兄さんに名前を呼ばれて、消えかけていた意識が戻る。何、そうオレが返事をする前に、兄さんは次の行動を取っていた。
『お前を、解放してあげる』
一瞬の衝撃。
途端に離れるオレと兄さんの距離。
きっと兄さんを殺したのはオレで、オレを殺したのも兄さんだ。
あの日、オレ達は互いを殺し合った。
中身こそ正反対だけれど、同じ顔の、同じ血の流れる、仲の良い双子だったオレ達。
どこから道を違えたのだろう。
いつから間違えてしまっていたんだろう。
『……やりなお、さなきゃ』
『…………オレじゃ、駄目だ。オレは、何も、出来ないから……』
『今度こそ、今度こそ、誰も傷付けない……』
『オレは、俺は、オレは、俺は、俺は、俺は俺は俺は俺は俺は俺は!!』
俺は、馬場満月だ。
そうじゃなきゃいけないんだ。
∮
結局、オレ、尾田慶斗は馬場満月を救うための"一歩"を踏み出せずにいる。
馬場の様子は日に日に悪くなっているようだった。時間は馬場の心に負った傷を癒してはくれなかったらしい。頬は痩せこけ、目元には黒々とした隈が浮かんでいる。その姿はいつかの文化祭の脚本を書き上げた時の彼のようで、いや、あの時以上に酷い状態だ。
クラスにいる時間も徐々に少なくなっていった。授業はほとんど受けられなくなった。それだけじゃない。人と話すことも極端に少なくなった。誰かと目を合わせて喋ることがなくなっていった。昼食の時間、何も食べようとしない馬場を心配して消化のいいゼリーを誰かがあげた。馬場は上手く笑えずに口元が妙に曲がったような表情をして、それを受け取った。ゆっくりと震える手で一口、一口ゆっくりとそれを口に流し込む。表向きは普通のクラスの装いながらも、クラス中がそんな馬場の様子を息を飲んで見つめていた。ゆっくりながらもゼリーの中身は順調に減っていった。ゼリーの中身は半分まで減った。このまま完食できるか──と誰もが思った時、馬場の手が止まった。うぐ、と変な声を上げて馬場は口元を両手で抑える。顔は苦渋を飲んだように歪み、そのまま教室の外に駆け出していく。「……ごめん」数分経って戻ってきた馬場は、濡れた口元をハンカチで拭いながらそう言った。哀しそうな眼をしてそう言った。オレ達は馬場にそんな顔をして欲しかった訳じゃない。でも結果的にオレ達は馬場を哀しませてしまったのだ。
(……何も出来ることはないのだろうか、オレ達には)
ないのかもしれない。何をやったって無駄なのかもしれない。逆効果なのかもしれない。心の中のオレの一部分がそう囁く。
(じゃあ、オレ達は馬場が苦しんでるのをただ見ているしかないのか?オレ達が馬場を"助けたい"って思う気持ちは、ただのエゴなのか?)
エゴなんかじゃない。そう信じたい。そう思いたいのに、オレの心の何処かがそのことを否定する。お前のやっていることは無駄なのだと、お前達が何かやったところでアイツが救われることなど一生ないのだと、そんな耳障りな言葉は日に日にオレの心で増殖し続け、"馬場を助けたい"──当初のそんな思いを少しずつ陰らせていった。
「それでも、それでもオレは……」
最早それはただの意地だった。アイツを救いたい─だなんて善意な願いじゃない。アイツを救わなきゃいけない。アイツを救わなきゃ、アイツを救わなきゃ、もう───誰も救われない。脅迫的にオレ達はアイツを救うことに捕らわれていた。そしてオレ達のそんな願いとは裏腹に、馬場の瞳や心は光を失っていった。
∮
オレ達の願いが歪に変質していくのと同時に、馬場とオレ達の世界には明確な"溝"が出来るようになった。
「なぁ」
「…………」
「なぁ、聞こえてる?」
「…………」
「?……もしかして、気付いてないのか?この至近距離で?」
「…………あ」
「……やっと気付いたのかよ」
「…………ごめん」
馬場はオレ達の姿がたまに見えなくなるようになった。見えないだけじゃない、声も、匂いも、何もかも認知出来なくなるときさえあった。その時に話し掛けても馬場がオレ達を見ることはない。気付くことはない。身体を大きく揺すると流石に存在を認識することが出来るようだったが、逆に言えばそうまでしないとオレ達に気付けないのだ。馬場がそんな状態になってきていると気付いた時、オレ達は言葉を失った。"馬場の世界"にオレ達は存在することが出来なくなりつつある。馬場は、もしかしてオレ達なんていらなくなってしまったのだろうか。やっぱりオレ達のやってきたことは、無駄でしかなくて、むしろ馬場の負担でしかなかったのだろうか。
きっと"馬場がオレ達を見えない"からだけじゃない、オレ達のそんな気持ちが、あの時の馬場とオレ達の間に大きな溝を生んでいたのだろう。
色んな意味で隔たりつつあったオレ達と馬場は、ある日を境に完全に世界を別つことになる。
そして、その日はやってくる。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.100 )
- 日時: 2018/08/14 11:06
- 名前: 羅知 (ID: f2zlL8Mb)
『ねぇ、どうして』
ねぇ、どうして。
『どうして助けたりなんてしたの』
どうして泣いているの。哀しそうな顔をしているの。
『……"馬場満月"はそんなことしないだろ』
僕のせい。……そうか、僕のせいで君はそんな顔に。
『僕達はヒナとユキだった。だけど馬場と濃尾がいなくなる訳じゃない』
やっぱりはユキは優しすぎるんだ。こんなになっても、僕の汚い所全部知ってても、それでも僕をヒナだっていうなんて。
『……馬場は、今でもヒナを見てるんだね』
覚えてくれてたんだね、ありがとう。あの時のこと忘れないでくれたんだね。
『…………あの頃のヒナはいない。いるけど、いない。もうどこにもいない。消えてしまった、汚れて、溶けて、どろどろになって』
そうだ、いない。どこにもいない。君と仲良くしていた、君の好きだったヒナはもういない。残ってるのは汚ならしい僕だけだ。
『ねぇ、死にたいよ』
本当だよ。
『どうして、どうしてなの。どうして助けたりなんてしたんだよ。馬場なら分かったはずだよね』
優しすぎるからだよね。ごめわね。本当にごめん。君は優しすぎるから……大丈夫。ちゃんと嫌えるように、引導を渡すから。
『……今の僕が最低で最悪な人間だって』
君がそのことを認められられるように。
『ヒナじゃないんだよ、僕は。僕は……"僕"だ。ただの濃尾日向だ。馬場満月の"親友"で───そして君の大嫌いだった濃尾日向だ』
楽しかったよ。大好きだったよ。ごめんね、ごめんねごめんねごめんね。本当にごめんなさい。泣かないで。そんな顔して泣かないでよ、ねぇ。
『嫌えよ、僕を』
お願い、嫌いになってくれ。僕なんか好きになる価値なんてない。嫌われるべき人間なんだから。
『……失望した。二度と顔も見たくない。どこか遠くに行ってくれ。もう二度と逢わないように』
合わせる顔がないんだ。こんな自分に失望しっぱなしなんだ。僕のことなんか忘れて、君は僕のいない世界で幸せに生きてくれ。もう二度と逢わないように。
『……ばいばい』
……ばいばい、僕の親友。
∮
あぁ苦しい。
水の中にいるような、そんな気分だった。勿論ぶくぶく泡の音も聞こえないし、そこら中を泳ぐ魚だっていやしない。けれども今の自分はまるで水の中で溺れてるみたいだ。ここは確かに地上のはずなのに、息を吸ったり吐いたりするのが上手く出来ない。酸素が足りない。頭がくらくらする。誰かに助けを呼ぼうとも、水の中ではただただ口から泡が出るだけで何も届かない。むしろ出した分だけ色んなものが減ってしまって余計苦しくなった。苦しくて、苦しくて。胸をぎゅっと掴む。まだ、とくとくと自分の心臓は静かに音をたてていた。そんな自分に違和感を覚える。どうしてまだ俺は生き続けているんだろう。こんなにも苦しいのに、どうして俺の心臓は止まってくれないのだろう。
眼を開けた。
何もなかった。
誰もいなかった。
何も残っていなかった。
前にも、後ろにも、何も、何も何も何も何も何も。
俺には何もなかった。
何もない俺は一体何のために生きていたのだろう。生きてきたのだろう。
涙が出てくる。
涙すら、塩辛い透明の中で溶けて消えていく。
上を見上げれば、海面が太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
それは救いのように思えた。
俺はそれを掴もうと手を伸ばし──────そして、ゆっくりと下ろした。
海の上は、きっととても良い場所なのだろう。暖かくて、騒がしさが妙に心地よくて、キラキラしてて、寂しくなくて。俺みたいなどうしようもない奴でもきっと受け入れられて、そして幸せになれるに違いない。光は痛いくらいに眩しく、俺なんか一瞬で飲み込めそうだった。
だからこそ俺は、それを絶対に手にしてはいけないと思った。
甘んじてはいけないと思った。そんな簡単に許されてはいけないと思った。例え他の誰かが許してくれたとしても、俺だけは、俺自身を許してはいけないと思った。生きている意味も分からないこの俺が、生きている意義も見出だせないこの俺が、のうのうと幸せになって生きるなんて絶対に許されてはいけないことだ。
俺は眼を閉じる。
苦しい。悲しい。寂しい。ぐるぐるとそんな感情が頭の中で蠢いている。涙は止まらず、口からは泡が零れ、悲しみも苦しみも終わることを知らない。
まだ心臓はとくとくと音をたてている。俺は早くこの音が止んでしまうことを心の底から強く願った。
∮
終業式。その日は終業式だった。まぁだからといって何かある訳がない。通知表やら何やら色々なものを返されて、何の感慨も沸くことなく、何事もなく、その日は普通に終わろうとしていた。
STが終わり、先生が明日の連絡を話し終わるまでと黙っていた生徒達も口々に喋り始める。静かだった教室はあっという間に騒がしくなった。仲の良かったクラスメイトと二年生になっても同じクラスになれるといいね、とかそういったことを話しているようだ。それに便乗するかのように、痛いくらいに冷たい風がぴゅうぴゅうと若干空いている窓から入り込む。そのあまりの寒さに身体がぶるりと震え、そそくさと私は──菜種知は自前の橙色のマフラーを手にする。季節はもう三月の上旬を迎えていた。冬は終わり、もうすぐ季節は春へと変わる。そうだというのにどうしてこんなにも寒いのだろうか。去年よりも寒いだろう、これは───なんて受験生だった昨年の冬を思い返していると、ふと私以上に紺色のマフラーをぐるぐるに巻いてる男─馬場満月が目に入った。
(もこもこだ……)
周りなんて目もくれず、馬場君はひたすらマフラーをもこもこになってしまうくらいに首にぐるぐると巻いている。よく見れば手もがちがちと震えているようだった。多分、寒がりなのだろう。多分。
転校してきた当初より彼の髪は全体的に伸びて、目は隠れており、たまに覗くその目も仄暗く、以前より陰鬱としたイメージが強くなった彼の姿。太陽のように明るかった頃の彼の面影は今では微塵もない。無理もないと思う。あんなことがあったのだ────親友が自殺未遂だなんて並大抵の衝撃じゃなかったはずだ。ショックを受けて、性格が一変してしまっても仕方のないことだと思う。私も入院生活から復帰して、そのことを他の皆から聞いたとき、世界がぐらりと揺らいだような衝撃を受けた。まさか。だって彼は。そんなことするような人じゃ。
しかし事実は事実に変わりない。
私の場合その実感は馬場君の尋常ではない様子を見て沸いた────自分よりパニックな人を見ていると落ち着くという話はどうやら本当らしい。きっと他の人もそうだったのだろう。クラスメイトが一人自殺未遂を起こしたクラスにしては私達は落ち着きすぎていた。異常な程に。
∮
「……満月の気持ちは俺もよく分かる。俺だって……もしトモがまだ目覚めてなかったら……満月の立場が俺で、濃尾の立場がトモなら……とても正気じゃいられてなかった」
これは私が学校に復帰して、一日目の帰り道でのガノフ君の言葉だ。今日は一緒に帰らないか、意味深な面持ちで彼は言った。私はそれにこくりと頷きで返した。何だかやけに胸がどきどきしてしまって、体が、頬が熱くなってしまって、手に汗が滲む。
「お前が───菜種知のことが、俺は好きだ。出来れば恋人になりたいと思っている」
歩く足が止まった。愚かな程に真っ直ぐに伝えられる告白の言葉。汗に滲んだ手をぎゅっと力強く握られて、そのまま私の手がガノフ君の顔の前に持っていかれる。ばくばくと煩いくらいに鳴り響く胸の音。重なる、音。私か、彼か。どちらがどちらの音なのかも分からないくらいに、混じりあう音と音。
「トモは……俺のこと、どう思ってる?」
返事をしようと思ったけれど、胸が痛くて、苦しくて。それでもやっぱりこの想いを伝えようと思って、掴まれてない方の手で自分の胸のあたりをぎゅっと押さえて、勇気を出して口を開く。
「私も……私も、好きです。大好きです。ガノフ君のこと……これは、本当です。嘘なんて、つきません。嘘なわけないです……」
かろうじて、そんな台詞が言葉になった。私の言葉を聞いた目を見開いて、まるで時が止まってしまったみたいに私の顔を見ている。すぐに分かった。彼は私の言葉を信じてくれてないのだ。日頃嘘ばかりついてたのが仇になった。狼少年ならぬ狼少女って奴だ。私は後悔した。恥ずかしい、あんなに緊張して答えたのに、もう一回言わないといけないなんて。
身体中が、熱くなる。
それでも、それでも伝えたいから、息を大きく吸った。
「…だ、だから!ガノフ君のことが好き!大好き!嘘じゃない……本当に、本当。信じ─────!」
ちゅっ。
「───へ?」
最初、理解が追い付かなかった。私は今何をされたのだろうと思った。ぐるぐる、ぐるぐる。上手く頭が回らない。結局、私が"私の掌にガノフ君が口づけをした"のだという事実に辿り着くまでに二分を用いた。理解できても、受け止めきれない。私はまるで機械になってしまったみたいに首をぎぎぎぎ、がががが、と動かして、ガノフ君の方を見た。彼は一体どんな気持ちで、これをしたのだろう。
彼と、目が合う。
「…………」
「…………」
「……ありがとう、トモ」
彼は微笑んだ。
ふにゃりと、今まで見たことのないくらい幸せそうな顔をして。
「…………」
「…………トモ?」
「…………」
「……なぁ、トモ」
「…………」
「……おーい?」
こんな恥ずかしさ、耐えきれない。
色々限界になった私の脳内は、そこで考えるのを放棄した。身体中が熱い。特に顔が熱い。きっと今の私の顔は林檎みたいに真っ赤なんだろう。今なら身体中から溢れるこの熱でお湯を沸かせそうな気がする。あぁ幸せだ。幸せで、幸せで仕方ない。
(嘘も、本当も、どうだっていい…………)
あまりにも幸せすぎて涙がぽろぽろと溢れる。そんな私を見て、ガノフ君が慌てている。もう、何もかもが幸せだった。
私は今、世界一幸せだった。そう思えてしまうくらいに。
∮
大好きな人と両思いになれる、ってことは凄く幸せなことだと思う。だからこそ私達は大好きな人を失ったとき壊れてしまうくらいに苦しいのだ。忘れてしまいたくなるくらいに苦しいのだ。
(私達が、馬場君に出来ることって、なんだろう)
虚ろな目をして毎日を過ごしている彼を見ていると、彼の憂いはどんなことをしたって取り除くことなんて出来やしないんじゃないか───そんな弱気なことを考えてしまう。
そんなんじゃ駄目だ。絶対に。確かに彼の負った傷は深くて、治る余地なんかないかもしれない。だけど、だけど諦めるのだけは絶対にしちゃいけないと思った。二年生になったら私達はクラスがばらばらになるだろう。でもだからってこのクラスで起こったことがなくなる訳じゃない。馬場君と、濃尾君と、皆で過ごしたあの日々が偽りな訳がないのだ。なくなるはず、ないのだ。
(馬場君も、濃尾君も…………二人とも救うんだ。もう一度このクラスの皆で笑い合うために)
今日は終業式。
一年生であった私達は終わって、二年生の私達がまた始まる。
だけどこのままじゃ終わらせない。
こんな悲しいまま、苦しいまま、終わらせていいはずがない。私達の一年B組を、こんな風に終わらせちゃいけないんだ。
「ねぇ」
私は馬場君に話しかけた。
もこもこのマフラーを着けた彼が不思議そうに私の方を見る。
「"私達"と、今日一緒に帰りませんか?」
彼の目が見開いて────そして、ゆっくりと首が縦にふられた。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.101 )
- 日時: 2018/10/08 23:43
- 名前: 羅知 (ID: PSM/zF.z)
∮
最後だから。
これで一年生として皆で過ごすのは最後になるから。だから、しっかりと話をしたかった。馬場君や濃尾君と強く関わりのあったこのメンバーで、落ち着いて、ゆっくりと話してみたかった。
馬場君も、もしかしてそう思っていたのだろうか。思ってくれていたのだろうか。私達としっかりと話したいと、そう思ってくれたのだろうか。だから頷いてくれたのだろうか。
だとしたらそれは嬉しいことだと思った。
馬場君が私達と話したいと思ってくれている限りは、馬場君はまだ救われる、そんな気がしたから。
∮
現在、私達は馬場君、尾田君、葵、雪さん、小鳥さん、ガノフ君の総勢七名で終業式後の時間を過ごしている。場所は学校から離れた人気のあまりないカフェ。人こそいないが雰囲気をはなかなか良い。落ち着いて話をしたかった私達にとっては都合のいい場所だった。
元々私は馬場君、濃尾君と仲の良かった、雪さん、小鳥さんを除いた五人で帰る予定だったのだけれど、雪さんと小鳥さんの強い希望によって、彼女達も一緒に帰ることとなった。
「……満月君と話したいんだよ。忘れちゃいけないことを思い出すために」
「……あやつには、まぁ世話になっておったからな。菓子の礼じゃ。……それに話したいこともあるからの」
そういえば雪さんは濃尾君と馬場君によくお菓子を貰っていた。他人にあまり関心のあるようには見えない彼女でも一応恩は感じていたらしい。失礼だけど少し意外だった。一年同じクラスだったけれど彼女については分からないことだらけだ。いや実際は彼女のことだけじゃない、私達は一年過ごしていたってお互いについて知らないことだらけだ。このクラスにいなかった頃の私を知る人はきっと多くはないし、その逆もまた然り。私だって皆のことを全然知らない。一年という期間では、私達は誰かの一割も満たない程度の何かしか知ることができない。それほどまでに一年は短い。ましてや馬場君は私達のクラスに来てからまだ半年も経っていないのだ。あれだけ密接とした時間を過ごしていながら、私達は何も知らない。彼のことを、何も知らない。このまま終わっていいはずがない。私達が彼のことを知らないまま、ちゃんと話し合えないままな、そんな最後にしちゃいけない。そんなの、あまりにも悲しすぎる。
(今から、話して、少しでも知れればいいな……)
まだ遅くないはず、だよね。
そう信じながら、私はゆっくりと窓際の席についた。
∮
「転校前の、俺の──友達の話をしてもいいか」
集まった全員が席に座ると、馬場がどこか神妙な面持ちでそう口にする。馬場が自分のことを───ましてや転校前のことを"正気の状態"で──今を"正気"といっていいのかは怪しいところだが──話すのは初めてのことだ。オレ尾田慶斗を含む集まっていた面々は驚きの表情を見せた。しかしオレ達のそんな反応をどう勘違いしたのか、馬場は申し訳なさそうにぼそりぼそりと下を向きながら呟く。
「……やっぱり、俺の話なんて聞くの嫌か?」
「いや違う違う!!そうじゃなくてさ……」
オレは焦った。濃尾が飛び降りてからの馬場は驚くくらいネガティブだ。オレ達の何気ない言葉で馬場は傷付き、自分を責める。責めて、責めて、それはもう今すぐにでも死んでしまいそうな程に、だ。
馬場満月という男が、他人に頼ることの苦手な自分に厳しいストイックな奴であるということは分かっていた。そしてそんな自分自身の性格すら、この男は周りに隠していた。裏で色々なものを抱えながら、"驚異の当て馬"で、周りのことが何も分かっていないみたいな笑顔で道化を演じ続けていたのだ。
「お前が……友達のことでもさ、こうやって自分のことを話してくれるなんて珍しいことだから……驚いただけだよ」
自分を責める馬場に、そう声をかけながらオレは悲しくなる。文化祭準備の辺りから馬場満月という男の本質には気が付き始めていた。その頃から馬場は体調を崩しがちになり、"道化"の仮面に隙を見せるようになっていたからだ。あの頃には、もう馬場は、"無理"が"限界"を迎えようとしていたのだろう。
(あの時に、もっと声をかけていれたら……コイツの悩みを聞けていれば……馬場はここまでボロボロにならなかったんじゃないか?)
過ぎた時間は戻らない。そんなことは分かっている。たらればでモノを語ったって仕方ないことだった。だけどそんな理屈で考えることの出来ないのが"後悔"というものだった。
馬場に相談したあの時、椎名を助けようと喫茶店に走ったあの時、思ったことは、すぐに行動に移そう。絶対に後悔だけはするものか、そう決めたのに。
オレは口の中で頬の肉を血が出るほど噛んだ。じわじわと痺れるような痛みが広がって、口内が血の味に包まれる。
心の痛みも、口の痛みも、誤魔化すようにオレは馬場に笑った。
「────で、さ。教えてくれよ、お前の"友達"の話」
「…………あぁ」
俺の笑みを見て、馬場は複雑そうな面持ちをしたまま、こくりと頷いた。
∮
「突然だけど……尾田君達にとって"満足"ってどんな状態のことだ?」
馬場の話は、まずそんな一つの質問から始まった。自分にとって"満足"とは何か。まさかそんなことを言われるとは思っておらず、オレ達は面食らった。満足。完全なこと。十分なこと。満ち足りていること。意味合いで言えば"そういうこと"になるけれど、馬場が言っているのはそういうことではない気がした。
「……まぁその反応が当たり前だよな。考えたこともないって感じだ。……普通に暮らしてたら、そんなこと、考えないもんな」
「…………」
「……俺の"友人"にとって、"満足"は……たった一人の兄と、仲の良い幼馴染とその姉と……自分。その四人で送る"日常"が"満足"だった」
何かを思い出しているような、何かを懐かしんでいるような優しい目をして、馬場はそう言う。馬場のこんなにも優しい表情を初めて見た。朗らかで、落ち着いていて────なのに何故だろう。とても優しいその顔は、今すぐに泣き出してしまいそうな顔にも見えた。優しくて、哀しくて、その顔を見ているだけで心がぎゅっと痛くなる。
「……でも、人間って欲張りだからさ。気付けないんだ。今が"満足"なんだ、って。"幸せ"なんだ、って。……分からないんだ。……あんなにも、幸せ、だった、のに」
「…………」
「……求めすぎて……全てを失って、大切な人達を自分自身で傷付けて……やっと気付く。あれが"満足"だったんだって。幸せだったんだって……!」
馬場の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。その魂の込もった語り口から、馬場の話す"友人の話"が、けして"友人の話"じゃないなんてことは誰の目から見ても明らかだった。
これは"彼自身"の話だ。"馬場満月"になる前の"カンナミ"という名前の"彼"の話だ。
「……身の程知らずが、欲張るから、こんな風になるんだ……!好きな人に好きになって貰えるなんて……勘違いをするから……こんな風に、なるんだ……!」
「…………馬場」
「……最初から、諦めてれば、良かったんだ。自分が誰かと結ばれるなんて幻想、あるはずなかったんだ。……俺に出来ることは、せいぜい誰かと誰かのキューピッド……そんな"役"に、徹せれれば、良かったのに……!」
馬場のその言葉で、その場の全員が勘づいた。
(……だから、だったのか?)
"馬場満月"が異常なまでに"当て馬"であり続けようとした、その理由。
"馬場満月"が"当て馬"をしたカップルが必ず結ばれていた、その理由。
"あれ"は、彼が自分のことを諦めて、諦め続けて、その上で自分の存在意義を見出だす為に導き出した方法で──けして偶然なんかじゃない。彼の執念で作り上げられた"伝説"だったのだ。
「なんだよ、それ……」
思わずそんな言葉が口に出た。
オレと椎名を結んでくれたお前が、誰かと誰かの縁を結んでくれたお前が、オレに遠回しに"諦めるな"と伝えたお前が!
そのお前が、"諦めればよかった"なんて、そんな悲しいことを、言うのか?
いつだって誰かの幸せを願って、誰かの諦めを拾い上げてきたお前が、諦めて、不幸になるのか?
そんなの、おかしい。
間違っている。
「……おかしいだろ!そんなの!なんで、なんで!!諦めるんだよ!!……オレは、オレ達は……!!お前にも、幸せになってほしいよ……!!」
オレは馬場に向かって叫んだ。悲しみと怒りを込めて叫んだ。オレだけじゃない。皆だって同じ気持ちのはずだ。
なぁ、馬場。
オレ達の声、お前にはもう、届かないのか?
「…………尾田君、これは"友人"の…………いや、もう、バレバレ、だな」
感情的なオレに対して、馬場は妙に落ち着いていた。言いたいことを言ったからなのかもしれない。さっきまで泣きながら叫んでいたとは思えないくらい、馬場の顔は憑き物の落ちたように爽やかだった。
「……尾田君、皆、オレ、幸せだよ」
「……何も望むものなんてない。濃尾君だって、生きている。クラスメイト全員、何とか無事に、二年生になれるじゃないか」
「……"満足"さ。"足りない"ものなんて、何もない」
自分自身に言い聞かせるように、馬場は笑ってオレ達にそう言った。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.102 )
- 日時: 2018/10/18 01:26
- 名前: 羅知 (ID: zMzpDovM)
∮
「……!」
「……どうした、嬢ちゃん?」
「……ううん、なんでもない。きっと、気のせい」
白夜とヒナの声が聞こえたような気がして、辺りを見渡した。誰もいなかった。当たり前だ。白夜はともかくとして、ヒナがこんなところにいるはずがない。あの子は今、白い部屋の中の、白いベッドの上で眠っている。出会ったときと、同じように。
(まるで、悪い夢みたい。……本当に、夢だったらよかったのに)
濃尾日向と馬場満月は"親友"で、濃尾日向はヒナで、馬場満月は白夜だった。短い期間で、色んなことがありすぎて、色んなことを知りすぎて、頭がおかしくなってしまいそうだ。ほんの少し前のことのはずなのに、ヒナが──いや、濃尾日向が私の学校に劇の特訓をしにきたあの日が随分前のことのように感じる。そうだ。あれから、たった三ヶ月しか経ってないのだ。なのに、なのにどうして。
(ヒナは……"飛び降り"なんてしたの?)
そんな自ら命を絶つような真似、する子じゃなかった。ヒナも、濃尾日向も。"彼女"は未来を夢見る素敵な女の子だったし、"彼"は女顔で頭が良いけど─でもどこか詰めの甘いところのある普通の男子高校生だった。だったはずだった。
私も、白夜も、ヒナだって、日常を──変わるはずのない日常を歩んでいた。こんな日々がずっと続けばいいのに──そんな風にも思わないくらいに身近な場所に"日常"は存在していた。変わる訳ないって信じるまでもなく信じていたのだ。愛しい愛しい、あの日々を。
だけどそんな日常は崩れ去った。
『────愛鹿雪那さん──事故に合って───目覚めない───火事が──』
『……なんで?なんで起きないの?いつもウザいくらいに私のこと馬鹿にするのに。……いつもみたいに笑えばいいじゃない、私のこと』
『……答えてよ。私が独り言言ってる変な奴みたいでしょ……それとも、私をこんな風にさせて、笑ってるの?そうだとしたら……本当、最低』
『…………白夜も、満月さんも、アンタが目覚めないから何処かにいっちゃった……全部、アンタのせい……私、一人ぼっちだよ……』
『………………大嫌い。本当に、本当に大嫌い。馬鹿姉貴』
……嫌なことを思い出した。ただでさえ最近気分が悪くて、体調が悪いのに、最悪だ。頭がぐるぐるとまわって、身体がふらふらとする。歩くこともままならなくなって、私はその場にしゃがみこんだ。
「……おい、嬢ちゃん。………ああクソ。ちょっと散歩すれば、気分転換になると思ったんだけど……ちょっと近くで休むぞ。……歩けるか?」
「……うん。ごめん、観鈴」
観鈴に肩を支えられて、ゆっくりと歩く。足元はおぼつかず、自分がどこに立っているのかもよく分からない。頭は相変わらずぐるぐるとして、目の前の景色は歪んでいた。
∮
「───嘘つき」
最初、その声が誰の者なのか分からなかった。
その声の持ち主が岸波小鳥だということにオレ達が気が付いたのは、岸波が言葉を発してから五秒程経った後だ。小さいけれど、確かな怒りを感じる低い声。誰だろうと戸惑いの表情を見せ、辺りを見渡す面々の中で一人微動だにせず俯く岸波は、この場においてとても異質な存在になっていた。
「……ど、どうしたの?小鳥ちゃん」
突然のことでどぎまぎしながらもシーナが隣に座っている岸波へ、そう訪ねるがその問いに対して彼女が答える気配はない。黙ったまま俯く岸波の表情はよく見えない。
確かに"幸せ"といった馬場の言葉は、とてもじゃないけど本心から言っているように思えなかった。けれども岸波の言った"嘘つき"はそういった意味を込めているようには聞こえない。
表情は見えない。けれども彼女の言葉に込められた"感情"は手に取るように分かる。彼女は"怒って"いる。彼女の言葉には明確な"怒り"を感じる。相手の"嘘"を責めるようなそんな"怒り"を。
普段、彼女は"怒る"ということをあまりしない。そもそもいつも宙にふわふわ浮いているような気の抜けた言動が多く、はっきり感情を出すこと自体ほとんどないのだ。
そんな彼女が怒っている。強く、強く。
(……)
分からない。何故彼女はこんなにも怒っているのだろう。
馬場の方を見れば、彼はオレ達以上に戸惑っているようだった。戸惑うどころか怯えているようにさえ見える。けれども馬場のその反応にもどこかを違和感を覚えた。戸惑うならともかく何故馬場は"怯えて"いるのだろう。相手は────理由は分からないが────怒ってはいるものの只のクラスメイトの女子だ。怯える必要なんてない。彼女が怒っていたところで、彼に何か被害がある訳でもない。
それなのに、何故?
「……嘘なんて、ついてない」
消え入りそうな、震えた声で馬場は岸波にそう返す。彼が声を上げて、ようやく岸波が顔を上げた。その目は真っ直ぐに馬場を睨んでいた。
「……君にとっては、そうかもね。嘘なんて吐いてない。誰にも好いてもらえない。自分が全部悪い。自分が幸せになる資格なんてない。……君にとってはそれが全てで真実なんだろうね」
怒っている割に、その声は落ち着いている。ただ彼女の膝の上に乗せられた拳は痛そうなくらいに握り締められ、震えていた。
「そうやって……そうやって可哀想ぶって、被害者ぶってる姿を見ると、苛々する……!
…………"君"はいつもそうだ……全てを手に入れられる立場にいる癖に、逃げて、何も手に入らないと嘆くんだ……!ボクを……何回惨めな気分にさせれば気が済むんだよ!」
「そんな────」
「──じゃあ聞くけど!どうして当て馬としての"君"はその"性格"なのさ!?それは"君"のものじゃない!!……あまりにも下手すぎて、吐きそうだよ……君はあまりにも"別人"だ!君は"あの人"にはなれない!それなのに"君"が"馬場満月"であり続けようとしたのは!!」
彼と彼女以外もう誰も話についていくことなんて出来ていない。彼女だってそんなことは気付いていた。それでも彼女は叫んだ。目の前のたった一人に、大切なクラスメイトに、大事な友達の好きだった人に、恋してたあの人と同じ顔を持つ双子の弟に。
「まだ…………まだ!"期待"してたからなんだろ!」
∮
"嘘つき"、と考えるよりも先に気が付いたら言葉に出ていて。
そして一言出てしまえば、あとの言葉は滝のように続けて溢れてきた。
自分はこんなキャラだったかと喋っている自分ではない自分が首を捻っているけれど、"恋"は心が変になると書くのだし、きっと自分は気がおかしくなっているのだ。そう考えることにした。
ぼやけていた空白の時間が瞬く間に色彩を持って形になっていく。あの人に恋をしたあの日のこと。社ちゃんと同じクラスになったあの日のこと。二人で恋の話をしたあの日のこと。あの人に気持ちを伝えたあの日のこと。あの人に────フラれたあの日のこと。
心の中に全部残ってた。楽しかったことも、悲しかったことも、全部、全部。自分の中に残っていた。
あまりにも辛くて、悲しくて、逃げ出してしまったあの時。今なら分かる。嫌なことから逃げるために楽しかったことも忘れてしまうなんて、なんて馬鹿なことをしたんだろう。
自分は向き合わなきゃいけなかった。そうじゃなきゃ前に進めなかった。
───君も同じだ。
「"満月"であれば、誰かに愛してもらえるかもしれない。上手く出来るかもしれない。幸せになれるのかもしれない。……君は諦めきれずに、期待してたんだろ」
「……ぅ……」
「でも君は"満月"じゃない。あの人にはなれない。……そんなこと、分かってるだろ。もう、止めなよ。そんなこと。君は何者にもなれない。……君は、君以外の何者でもないんだから」
「……そんなこと、ない……そんなわけ、ない……おれは、おれは……」
"自分"じゃ何も成し遂げられないとでも思っているのだろうか、愛されないとでも思っているのだろうか、もしそうだというのならちゃんちゃらおかしい話だ。
あの日、ボクは君のせいでフラれたのに。
君が憧れ焦がれるあの人が、恋してやまない君のせいで。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.103 )
- 日時: 2019/01/18 18:39
- 名前: 羅知 (ID: KNtP0BV.)
∮
う そ つ き ?
俺が?まさか。彼女は何を言っているのだろう。俺は嘘なんてついていない。少なくとも俺は自分の言葉を"嘘"だなんて思っていない。真実だ。俺が信じ続けている限り、"これ"は本当であり続ける。けれども彼女は俺に言う。お前は間違っている。お前は嘘つきなのだと。彼女の言葉一つ一つが突き刺さり胸が鈍く痛む。今までも彼女の言葉で心が乱れることはあったとしても、ここまで痛み、苦しくなることなんてなかったのに。迷うような口振りだった彼女はもういない。彼女はもう逃げない。そんな彼女の言葉で、弱い俺は既にもうボロボロだ。
あぁ、なのに何故だろう。胸はこんなにも傷んで死にそうなくらいなのに、心臓は五月蝿いくらいにバクバクと動く。
「どうして、そんなにも幸せになることを拒もうとするの?」
(…………もう、もう止めてくれ)
俺のそんな願いは彼女には届かない。あぁ、彼女がまだ何かを言っている。五月蝿い。静かにしてくれ。勝手なことを、言わないでくれ。知ったような口をきかないでくれ。
「……君は、君の人生を生きても良いんだよ」
どうして"君"が"オレ"達のことを知っているのか分からないけど、お願いです。もう、もうどうか止めてください。これがオレの本当で、オレは本当に、本当に本当にそれでいいんだ。もう満足なんだ。何も言わないで下さい。オレが、全部、全部悪い。それで良いんです。それがきっと一番良いんです。
「……ボクは君にも幸せになって欲しいよ、だって」
だから、だからもう止めて。
"俺"の"物語"を壊さないで。
「ボクは"あの人"が好きだったから。……だから、あの人が愛していた君にも幸せになってほしい」
"あの人が好きだったから"
ぽきり、と。
その"言葉"で、自分の中の何かが壊れる音がした。
∮
「───うなのか」
「……え」
「───"お前も"、そうなのか」
"お前も"、結局、あの人に惑わされて、俺から全てを奪っていくのか。
「勝手なことを、言うなよ」
「あの人は、お前が思ってるより、ずっとずっと」
「────汚くて、狡くて、愚かな、頭のおかしい人だ」
そう言う俺の顔はきっと童話の中の魔女みたいに醜く歪んでいることだろう。対する彼女は言っていることがまるで信じられないみたいな目で俺を見る。あんなにも息苦しかったのが嘘みたいに、胸はもう痛まない。身体が震えるくらい恐ろしかった彼女が、もう何も怖くない。目の前の彼女は、ただあの人に踊らされていただけの純情な生娘、そう分かってしまえば恐ろしいものなんて何もなかった。
「はははははははっ!!!」
笑いが止まらない。
彼女は震え、周りの人間は何もついていけずにポカンと口を開けている。滑稽な空間だ。そう自覚したら余計におかしくなってしまった。
久し振りに笑いすぎて、涙が出てきてしまう。
『……あの人が好きだから』
『……諦めきれないから』
『……あの人が大事にしてる、貴方を、こうすれば、そうすればきっと』
『……あの人は、私を嫌ってくれる……こっちをやっと見てくれる……』
『……ねぇ、"ミズキ"。とっても愛してる……』
とっくの昔に心は壊れていた。
それを無理矢理継ぎ合わせてなんとか今まで生きてきた。
だけど、もう駄目だ。
直しようがないくらいに、この心はもう粉々だった。
「なぁ知らないだろ」
「あの人、放課後に、突然俺を呼び出したと思ったらさ」
「全身ひんむいて、手足縛って、俺に、自分を好いてる女の相手させたんだ」
「……普通、大事な大事な愛しい弟に、こんなことするか?しないよ」
「……でも、俺が悪いんだ」
「……完璧な兄さんは、俺を愛してしまったから、あんなにも歪んでしまったんだ」
俺が悪い。全部俺が悪いのだ。あの人達に事の責任を求めるより、俺が悪いことにしてしまえば全てがきっと上手くいく。そうだ。兄さんは悪くない。悪いのは全部俺だ。完璧な兄さん。優しい兄さん。大好き"だった"、尊敬"していた"兄さんを否定してしまったら、俺はもう生きられない。月を失った夜は暗い。何も見えない。恐ろしい。そんな中で俺が生きていける訳がない。だから俺には兄さんが必要だった。完璧な、理想の兄が。
「兄さん、雪那さん、社と過ごす日々は余すことなんてないくらいに満ち足りて、完璧だった」
「……俺だけが欠けていた。完璧さからは程遠い存在だった。あの人達といると、惨めな自分が余計惨めに感じた」
だからこそ、俺は。
「あの"満ち足りた日々"が大好きで……"大嫌い"だった!!」
どさり。
俺がそう言い終わるのと同時に多分店の入り口の方で、そんな音がした。
「え」
嫌な予感がした。
「……や、し、ろ」
入り口で持っていた荷物を全部取り落として、目を見開いてこちらを見ている彼女が、そこにはいた。
「…………や、しろ。違う、違うんだ」
「…………」
「オレは、社が、社のことが……」
「……気付け、なくて、ごめ、んね」
その言葉を言い終わらない内に、落ちた荷物を素早く拾うと、彼女はその場から走り去る。
「……待ってよ!社!!」
遠く、離れていく彼女を追いかける。ごめんねと言った彼女の、光を失った黒々とした瞳は、絶望しきっていて、そのまま死んでしまいそうだった。
『君を解放してあげる』
二度と、あんな目になんて、絶対に合いたくなかった。
∮
事態を何も掴めず、私達は呆然とその場に取り残された。
「本当に、本当に、何なんですか……どういうことなんですか……?」
いつもの口調をする余裕なんてあるはずもなく、誰に言うわけでもなくそう呟く。
私と同じようになっているガノフ君、葵、尾田君。
今にも倒れそうな青い顔で震えている小鳥さん。
入り口の方を見れば、社さんの連れだろうか。華奢で可愛らしい見た目をした女の子が私達と同じように呆然としている。
そして、気が付く。
「……雪、さん?どうされたんですか?」
いつも他人のことなんてどうでもいいといった態度の彼女が、額に汗を浮かべて、怯えきった表情をしていることに。
私が声をかけると、彼女はすぐに反応する。けれどもそれはいつもの彼女の態度とはまったく違っていた。
「……早く、追いかけて」
低く、焦りながらも落ち着いた声で彼女は私にそう言った。
「お前だけじゃない、全員。早く、追いかけて!!」
「…………え、え?」
「妾が言ってること分かんないの!?早く行って!!女神命令!!」
「……大切なクラスメイトを失いたくないなら、早く追いかけて!!」
普段と違う普通の口調で、けれども妙にその言葉には気迫があって。気が付けば全員が、その言葉に聞き入っていた。
「……分かりました。追いかけます」
その言葉に従って、私は、私達は彼らを追いかけた。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.104 )
- 日時: 2018/12/16 18:42
- 名前: 羅知 (ID: iLRtPlK2)
∮
「ま、……って……待っ、てよ、やしろ」
どれだけ走っただろうか。いや、どれだけだって走るしかない。彼女を追いかけるしかない。オレは無力で、不出来で、出来損ないだ。オレに出来ることなんて何もないのかもしれない。だけど、あんな死にそうな目をした彼女を放っておくことなんて出来るはずがなかった。もう、嫌なのだ。大切な人が目の前で消えようとするのを、見ていることしか出来ないなんて、絶対に。
それなのに。追いかけなきゃ、追い付かなきゃいけないのに。彼女の姿はオレからどんどん離れていく。走る。彼女を追いかけて、走る。喉が痛い。寒さの為に厚着してきたのが仇になった。暑い。熱い。身体から汗が滝のように出てくる。身体中が熱く、頭が朦朧とする。この数ヶ月間まともに食事を摂ることの出来なかった不健康な身体は脆く、身体全体が重く感じた。それでもオレは彼女を追いかける。追いかけるしかない。どれだけ不恰好でも無様でもそれでも。兄さんのように、雪那さんのように、そして────濃尾日向のように。彼女を同じように、失う訳にはいかないのだ。
なのに、なのに。
(オレは…………いつも、こうだ)
彼女の横に並べる男になりたくて、彼女に追い付きたくて、彼女を追いかけて、追いかけて、追いかけて、追いかけて、追いかけて、追いかけて追いかけて追いかけて追いかけて追いかけて追いかけて追いかけて追いかけて────それでもなお、追い付けない。
そんな自身の不甲斐なさに何度も絶望して、死にたくなった。
兄さんに裏切られて、汚されて、心をぐちゃぐちゃにされたとき、全てがどうでもよくなった。自分の全てが嫌に思えて、この世から消えてしまいたいと思った。
それでも、死ねなかったのは、彼女がいたからだった。
死のうとする度に、彼女の顔がちらついて、彼女の笑顔を思い出して、それで────刃物を持つ手の力が緩んだ。そんなことが何度もあって。致命傷にならなかった傷達は、大小様々な形で、オレの腕に残った。
死んだら、彼女の姿を見ることは、もう、一生出来なくなる。
そう思ったら、どうしても死ねなかった。
汚れてしまったオレは、もう彼女の横に立つ資格なんてない。彼女の綺麗で純粋な瞳をまっすぐに見ることなんて出来ない。だけど、観客席からでいい。観客席からでいいから、彼女の姿を、スポットに当てられて光輝く彼女の姿を観ていたかった。
今も、昔も、オレは彼女の為に生きている。彼女を中心にオレのセカイは廻っている。オレにとってまさに彼女は太陽で、なくてはならない存在で、同時に────近付きすぎてはいけない人だ。もし少しでも"幼なじみ"の一線を越えるような行動をしたら、オレは瞬く間に自己憎悪の業火によって燃やし尽くされてしまうだろう。
あぁ。
考えれば、考えるほど、彼女とオレには何をしたって覆せない程の差がある。もし幼なじみという関係性ではなかったら、彼女はオレになど見向きもしない。確信を持ってそう思えた。
こんな自分が嫌いだ。
女々しくて、情けなくて、好きな女の子の前ですら格好いいところを見せれない、ましてや物語の王子様のようになんか絶対なれっこない────そんな自分が大嫌いだ。
もしオレが兄さんのようになれたなら────きっと、こんなことはなかっただろう。オレはオレを愛することが出来ただろうし、彼女の横に堂々と立つことだって出来たはずだ。
(本当にそうだ。もしオレが兄さんみたいに……いや兄さんそのものになれたなら)
オレはきっと、彼女の恋人にだってなれたはずなのに。
∮
彼から逃げるように走って数分。彼が追い付く気配はない。ずっと、ずっと追いかけてきてはくれているようだけど────まだまだ、ここから見た彼は豆粒のように小さく見えた。
私が本当に幸せだったあの時間を彼が憎らしく思っていると分かった、その瞬間、私はもういてもたってもいられなくてその場から逃げ出した。
『────大嫌いだった』
耐えられなかった。あれ以上、彼のあの憎悪の込もった眼を見ていたら叫びだしてしまいそうだった。
(……なんて、酷い奴だったんだろう。私は)
どうして気付けなかったのだろう。彼の隣で私が幸せに感じていたとき、彼は私の隣にいることが苦痛で苦痛で仕方なかったというのに。私は自分のことばかりで、彼の本当の気持ちを分かってあげることも出来なくて。なんて、なんて酷い女なんだろう。彼に嫌われていると分かって、鈍く痛むこの胸すら抉ってしまいたい程に自分が嫌になる。酷くて、恥ずかしい女。相手に嫌われてることも分からずに、せめて隣にいられたらなんて馬鹿らしいことを思って。会いたいなんて、戻ってきてほしいなんて願って。
彼は逃げたのだ。
大嫌いな、私から。
自分の馬鹿らしさに涙より反吐が出そうだった。苦しむ彼に気付けなかったどころか、やっとのことで私から逃げた彼をまた追いかけて、逃げられて、そのことを酷く身勝手に悲しんで。あぁ愚かしい。馬鹿な女の一人劇なんて喜劇にも悲劇にもなりはしない。ましてやこれは物語の中の話ではなく現実の話だ。だから余計にタチが悪い。笑えない。
(……私が、お姫様になれないことなんて、ずっと前から分かってた)
女の子は誰でもお姫様になれるなんて嘘っぱちだ。お姫様になれるのは王子様に選ばれる価値のある愛らしい女の子だけ。私と同じ顔をした童話の中の"お姫様"を体現したかのような彼女は、口で言うでもなくそのことを私に教えてくれた。私と同じ顔のはずなのに、私とほとんど変わらないはずなのに、彼女は誰よりもお姫様だった。私のなりたかったお姫様は、私と同じ顔をした双子の姉で、それが私には許せなかった。手の届く位置にいるはずなのに、けして私はそれになることは出来ない。それが悔しくて、もどかしくて────私は姉のことが大嫌いになった。
お姫様に私はなれない。
生まれたとき、私と彼女はほとんど同じだった。だけど成長していくにつれて私と彼女は少しずつ変わっていった。私の身体は次第に何処か筋肉質な身体になっていったし、身長も小さめな男の子なら軽々と抜かしてしまうくらいに伸びた。対して彼女はまさに可愛らしい女の子そのものだった。きっと元々の体質的なものだったのだろう。このことについて誰かを責めることなんて出来るわけがない。だけど隣で女の子らしくしている彼女を見ると、どうにも胸がムカムカして仕方なかった。昔から妙に頭がよくて、よく意地悪で言い負かされていたので、あまり好きではなかった姉のことが、そのことをきっかけに一気に嫌いになった。大嫌いになった。
いつだってそうなのだ。
あの姉は、私が求めてやまないものを全て奪っていく。
勿論これは私が勝手に思っていることで、姉を恨むのは筋違いなことで、そしてみっともないことだということは理解している。こんなことを思う自分がとてつもなくしょうもない女だということも。
だけど、抑えようがなかった。
姉は持っていて、私は持っていなかった。その変えようがない事実が私はどうしようもなく憎らしいのだ。
あぁ本当に。
私はなんて愚かなんだろう。
こんなだから、こんな醜い女だから、彼の愛も彼女に奪われてしまうのだ。嫌われてしまうのだ。
∮
歯車は歪な音をたてて。
事態は、ねじ曲がって、修復不可能なほどに壊れていく。
嘘つきが一人。
嘘つきが二人。
愚者のパレードが行き着く先は。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.105 )
- 日時: 2018/12/23 12:50
- 名前: 羅知 (ID: r5XOKg3d)
∮
体調の悪そうだった社を、少し店で休ませてあげようと思っただけなのに。
「…………」
休ませてあげるはずだった彼女は、店に入るや否や何があったのか何故か逃げるように何処かへ行ってしまうし。店にいた陰気臭そうな男もそれを追いかけて何処かへ行くし。残っていた客も全員ソイツの連れだったのか、それを追いかけていくし。少ないながらも人が数人は入ってるように見えた喫茶店の中はもうすっからかんだ。訳が分からない。誰かに、この事態についてこと細やかに説明をしてほしい。だけど聞ける人もいなかった。誰かに何かを聞く暇なんてないうちに、皆どこかへ行ってしまった。
タイミングを失った。
どうすればいいのかも分からず、おれはその場に立ち尽くす。
「取り残されちゃいましたねー」
誰もいない、はずだった。
それなのに後ろから声がして。反射的に振り返ると、ひょろりとした背の高いニコニコした男が立っていた。
「そんなオバケでも見たような顔しないでくださいよー、酷いなぁ」
「…………!」
「オバケじゃないですよ。僕は、ずっとここにいました。皆さんが自分のことばかりで気付けなかっただけですよー」
おれの驚いた様子を見て、男は手をひらひらと振ってそう弁解する。笑顔を崩さないまま。まさに『人畜無害』を貼り付けたような、そんな様子で。
コイツの言っていることが嘘か本当かはともかくとして、突然殴りかかってくるような危険人物には見えないし、もし殴りかかってきたとしてもナヨナヨしてとても弱そうだった。ほんの少しだけ警戒を解き、おれは相手に名を尋ねる。
「……お前、誰だよ」
「誰、っていうか。この店の店員ですよー、普通に。まぁ臨時アルバイトなんで本職じゃないんですけど」
「…………」
「笹藤直って言います、今後会うことはないかもしれないですけどよろしくですー」
自分でも相当不躾な声の掛け方であったと思うが、それに対して男は一切不快そうな顔をせずにへらっと笑ってそんな風に自己紹介した。元々の顔の作りがそうなのか随分とその笑顔は幼く見える。もし、コイツの身長がさほど高くなかったら中学生くらいだと思ったかもしれない。まぁ実際の年齢がいくつなのかは知らないが。
「まぁとりあえず僕は掃除始めちゃいますねー、仕事なので」
おれが名前を尋ねたので、名前を聞き返されるかと思ったが、予想に反して男はそれだけ言うと、無人の席に残されたコップや皿達を手慣れた様子で片付け始める。相変わらず表情は気の抜けた笑顔のままだ。なんだか掴み所のない男だ。見るからに平凡そうであるのに、どこか妙な不気味さを感じる。
だが、この店の店員というからにはさっきまで起こっていた事態については多少なりとも分かっているのではないだろうか。少なくとも今さっきこの店に来たおれよりは事態の展開を目の前で見ていたのだから知っているはずだ。そう見込んでおれは、鼻歌混じりに掃除をしているヤツに話を聞く。
「店員なら見てたんだから、分かるよな。……一体何があったんだよ、さっきの奴ら」
「そうですねー、凄い修羅場でしたよ。」
「……修羅場?」
「多分色恋沙汰とかじゃないですか?なんとなくそんな雰囲気がしましたねー」
それを聞いて、おれは驚く。
修羅場?ましてや色恋沙汰?ありえない。
これはけして社がモテないとかそういったことを言っている訳じゃない。むしろ社はモテる。男からも女からも。特に女からの好かれ様は凄まじい。たまに変なストーカーが付くくらいだ。勿論そのストーカーは、おれが然るべき所に追い込んでやったけど。
まぁその話は今は置いとこう。
社はモテる。だけど色恋沙汰なんかに発展したことは一度もない。どれだけ他人に好意を寄せられたとしても、彼女はそれを相手にしていないからだ。下手すれば、その好意は相手の勘違いや思い込みだとさえ彼女は考えているかもしれない。自分に恋愛的好意が向けられる可能性を彼女は一ミリも考えていない。恋愛的な面の彼女は自分を卑下する傾向にある。理由は分からないけれど、いつからか彼女はまるで呪いのように好意という好意を否定するようになった。
『……私に告白とか色々してくる子達はいるけどさ。あの子達は皆騙されてるだけなんだよ、私に。そこに理想の王子様みたいな役を演じてる私がいたから、ステータスがそこそこ高い私がいたから、なんとなく"好き"な気がしちゃっただけなんだよ』
『……全部、勘違いで、偽物なのに。私みたいなのに騙されて、本当に、皆、可哀想』
これは、以前彼女が言った言葉だ。確か中学三年生くらいの時だった。
その時の彼女の目は、本当に哀しげで、切なくて───そして、自嘲的だった。諦めきった顔だった。
だから、そんな彼女が色恋沙汰なんかに巻き込まれるはずがない。彼女は恋を望まない。彼女が誰かを恋愛的な意味で好きになることなんてない。昔はあったのかもしれないけど、少なくとも今は、ない。
だって、それじゃ、おれは。
おれの、気持ちは。
社が誰も好きになることはないって、分かってたから、抑えることが出来てた、おれの気持ちは。
「だって、逃げた彼女────貴女の連れですかねー。あれは恋してる目でしたよ?いやー青春ですねぇ」
信じたくないおれの気持ちをポキリと折るように、男が続けてそう言う。
彼女が恋する気持ちを取り戻したというなら、それは喜ぶべきことなのかもしれない。おれの気持ちなど抑え込んで、誰よりも応援してやるべきなのかもしれない。だけど素直にそれが出来るほど、おれは出来た人間じゃない。相手に対する嫉妬のような何かで唇が歪む。
「……お前の勘違いじゃないのか、そんなアイツが恋なんて──」
「そうですねー、僕の勘違いかもしれません」
苦し紛れに出たそんな言葉は、案外あっさりと肯定される。あまりの呆気なさに、おれは戸惑った。別に否定してほしかった訳でもないし、言い争いがしたかった訳でもないけれど、あまりにもこの男、適当すぎではないだろうか。主体というものがなさすぎる。
本当なんなんだ、この男。
凄く、凄く────気持ち悪い。
「……お前、本当、なんなんだよ……」
思わず出てしまったそんな言葉にも男は不気味な程変わらない笑顔で答える。
「だーかーら、笹藤直という名前のただのどこにでもいる奴ですよ、僕は。それ以外の何者でもありません」
∮
「じゃあ、もう店じまいなので。帰ってくれると嬉しいですねー」
自分がそう言うと、彼女はまるで逃げるようにこの店から出ていった。喋っている最中もそうだったけど、僕の何をそんなに怯えているのか。僕は"どこにでもいる"だけの、ただの一般人だっていうのに。
(あーあ、あんな悲しそうな顔しちゃって)
確か今話題のアイドルか何かだったか。多くのファンを持ち、沢山の人々から愛される彼女のこのような顔を、もし世間の人々が見たら、きっと大きなショックを受けるだろう。
(超人気アイドルが男装の麗人にお熱、ゴシップ誌の良いネタになりそうだなぁ)
色恋沙汰と聞いて、彼女は大層驚いていたし、否定していたけれど本当は彼女だって気が付いていただろうに。愛鹿社のことをずっと見ていたというのなら。愛鹿社のことを愛していたというのなら。
彼女のたった一人に向けるあの熱っぽい視線に気付かないはずがないのに。
彼女は信じたくないだけだ。本当は気付いているけれど、それを認めてしまったら、自分が自分でいられなくなってしまうから。
(愛鹿社があんな風になったっていうのに、追いかけなかったのが良い証拠だよねー)
あの熱っぽい視線を見ていられなかったのだろう、彼女は。まさに神並白夜の、あの憎々しげな目を見ていられなかった愛鹿社と同じように。彼女をあのまま追いかけてしまったら、何を見てしまうのか、それが彼女は怖くて怖くてたまらなかったのだ。
彼女がどうしようもなく"その事実"を受け止めなければいけなくなったとき、彼女がどうなってしまうのか──────それは僕の預り知らぬところだ。
誰かの恋が叶わなくたって、誰かが傷付いたって。それは僕には関係のないことなんだから。
僕はただ、それなりに、なんとなく生きていければいい。
(まぁ、"彼"の"お願い"くらいはちょっとくらいお手伝いしてあげるつもりだけど)
『笹藤さん』
『……お願いがあるんだ。いつか、必ず、お礼はするからさ』
笹藤直は、ただどこにでもいるだけの奴だ。何気なく。然り気無く。
『……もし、俺に何かあったらさ。俺の"代行"を頼まれてくれないか』
『俺、今、色々調べてることがあるんだけど……それの手伝いと、あと』
『弟の、ことを』
彼の行動に大して理由なんてない。意味なんてない。まぁ、なんというか興味が沸いたのだ。"彼"という人間に。
ちょっとくらい、何かを手伝ってあげてもいいんじゃないかってくらいには。
『……もう、兄なんて呼んでもらえる資格、ないけどさ。本当に、許されないことをしたから』
『でも、守りたいんだ。白夜のこと。……俺のせいで傷付けたからこそ。エゴイスティックな願いかもしれないけど』
彼の、愚かで、あまりにも人間らしい、あの表情はなんというか──"好き"だった。それは自分が持たないものだったから。
(それじゃあ、万が一に備えて────僕も向かおうとしようか。彼のところへ)
そんなことを考えながら、彼は店の看板を『close』に変えて、店を出ていった。
出ていく彼の表情は、無表情で、空っぽで、冷え冷えとした夜の風景とよく似ていた。
∮
『あー、救急なんですけどー、馬場満月って子が、部屋で血だらけになって倒れてるって濃尾彩斗先生に言って貰えますか?多分自殺未遂だと思うんですけど』
『僕の名前は────いや、匿名で。名乗るほどの者じゃないですよー、ただのどこにでもいる奴なので』
『────さて、止血するか』
『ねぇ、白夜くん。覚えてる?』
『君が馬場満月として、用務員の僕に言ったこと』
『"笹藤さんのいる場所は何だか落ち着く"って──それ、満月くんも言ったことなんだよ?』
『本当似てるよ、君達。心から笑えるくらいに』
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.106 )
- 日時: 2019/01/07 21:42
- 名前: 羅知 (ID: 6U1pqX0Z)
∮
小さい頃から、お姫様になるのが夢だった。
ちょっぴり気弱で、不器用だけど、いざって時には私を全力で守ってくれる貴方は私の王子様だった。
貴方はいつだって私の側にいた。愛してくれているとまではいわない、ただ友人として好かれてはいる、そう思っていた。そう信じていた。
だけどそれは違った。大間違いだった。貴方は私を嫌っていた。大嫌いだった。
本物のお姫様にはなれなくても、せめて貴方にとってのお姫様でありたかった。もう叶わない夢だけれど。
こんな惨めな姿じゃ、お姫様はおろか王子様にだってなれっこない。無理矢理作り上げた私の"王子様"としての仮面は剥がれてしまって、もうボロボロだ。
だけど貴方は優しいから。いつだって、誰にだって優しいから。
きっとこんな私にさえ、手を差し伸べてくれるのだろう。今だって身勝手にも逃げ出した私を追いかけてきてくれている。本当は大嫌いであるはずの私にでさえ。
あぁ、それはなんて残酷なことなんだろう。私は貴方の怖いくらいの優しさが恐ろしい。いつかそれが貴方を狂わして、壊してしまうんじゃないかって。そう思うと怖くて怖くてたまらなくなる。
貴方は捕らわれている。私達に。貴方自身のその優しさに。
お姫様になれず、王子様にもなりきれなかった私が貴方の為に出来ることはなんだろう。行き着く先は一体何処だというのだろう。
逃げながら、考えて、考えて、考えて、考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて────────そして、決めた。
(白夜、大嫌いな私の言葉、ちょっとの間でいいから、聞いてね)
私は、愛鹿社は、この物語の"悪役"になる。
「ねぇ、白夜」
貴方に自由になってもらう為に。
私は貴方を解放する。
「────私、もう貴方がいなくても大丈夫みたい」
∮
先程まで逃げていた彼女が足を止めた。
何か理由があるのか、それとも単に疲れてしまったからか。それは分からないけれど、これはチャンスだ。オレは最後の力を振り絞って足を踏み出す。一歩、二歩、三歩。足がもつれて転びそうになり、不恰好になりながらも前へ進む。ぼやけていた彼女の輪郭が進めば進むほどにはっきりと形になっていく。この位置までくれば、オレの声は、彼女に届いてくれるだろうか。どうか届いてほしい。届いてくれ。オレは彼女の名前を呼んだ。社。オレは、神並白夜は、君のことが、愛鹿社のことが。
「やし、ろ」
オレの呼び掛けで彼女が振り向き、彼女の瞳がオレを捉える。一瞬哀しげに揺れる瞳は、次の瞬間には何か決意したようなそんなものに変わっていた。
オレが何かを言う前に彼女の口が素早く開き、オレの言葉をかき消す。
「ねぇ、白夜」
投げかけられるのは。
投げつけられたのは。
信じられないような言葉。
「────私、もう貴方がいなくても大丈夫みたい」
「え……」
否、分かっていた。
彼女にはオレなんか必要ない。そう、だから"この言葉"はオレにふさわしい。そうか、ようやくその言葉を言われてしまうのか。哀しいけれど、いつか必ずそう言われてしまうことは分かっていた。だから、信じられないのはそれではない。
信じられないのは。
彼女が言うその言葉が"嘘"だったことだ。
「……だからね、白夜。もう私に関わらないで。邪魔だから」
刺々しく彼女はオレにそう言う。
彼女は明らかに嘘をついている。これで彼女は演技をしているつもりなのだろうか、だというのなら彼女は完全に動揺しているに違いない。本来の彼女の演技は、まさにその役そのもの真実さながらといった感じで見抜けるようなものではないのだ。こんな嘘ではオレはおろか素人ですら騙すことは出来はしない。
「……嘘、だよね。それ」
「嘘じゃない」
「…………それこそ嘘だよ。社ちゃんは、嘘をついてる。社ちゃんが嘘をついてるなら、オレに分からないはずがない」
ずっと一緒にいた。
ずっと彼女を見ていた。
だからこそ彼女の"嘘"は、"本当"は、絶対に分かる。
「……"本当"のことを、言ってよ」
「………………"本当"、ね」
「…………」
「……本当に…………本当に、伝わってほしいことは何も伝わらないのに。白夜は、変なところで鋭いよね。昔から」
暫くの間の後、そう言って彼女は苦笑いする。表情は歪んだような笑顔だったけれど、今度の言葉は嘘を吐いてるようには聞こえない。無理な演技を止めて、今の彼女はありのままの彼女のように見える。
おかしな笑顔のまま、彼女は続ける。それは、オレの求めていた"本当"のことだった。けしてオレにとって嬉しい内容ではなかったけれど。
「……さっき言ったのは、確かに嘘だよ。でもね、私達やっぱり距離を置くべきだと思うの」
「…………」
「っていうか、白夜が"新しい自分"になって、変わっていってたのを、私が邪魔しちゃったんだよね。……白夜は私から離れたかったのに」
「それは──」
違う、と言いたかった。
でもオレが社から離れたかったことは事実だ。だからはっきりと彼女の言葉を否定することはできない。
オレは社から離れたかった。だけどそれは社が嫌いだからとか、社のせいとかではなくて、オレの問題だ。社が邪魔だったとかそんな訳がない。今も昔もオレにとって社は光のような存在なのだ。眩しくて、ほんのり温かくて、側にいるとオレの心もキラキラして。
だからこそ離れたかった。
相応しくない、と感じてしまったから。
社のせいじゃない。全部オレのせいだ。
社が好きだ。社のことが大好きだ。
そう胸を張って言えたなら、言えるような自分なら、どれほど良かっただろう。
「────それは社ちゃんのせいじゃない。オレの問題だから……だから、だからえっと……」
口が、頭が、上手く回らない。彼女の視線が痛い。目を合わせられない。心臓が五月蝿い。声が震える。泣きそうだ。上手く言おうとすればするほど頭がぐるぐるして何も分からなくなる。いつもそうだ。大事な時にオレはいつだって上手くできない。
何処まで行っても、変わらない、変われない自分が心底憎らしい。こんな自分が嫌だ。嫌いだ。消えてしまいたい。
そんな感情が自分の中に濁流のように満ちて、溢れて、涙となって零れていく。
「…………おねがい、だから……逃げ、ないで。やしろちゃん……」
辛うじて、そんな言葉だけが嗚咽と共に口から出る。
巫山戯たことを言っているのは分かっている。初めに彼女から逃げたのは自分だ。今更何を言うのだろう。でもこれが本音だった。逃げていく、自分から離れていく彼女を見た瞬間、自覚した。側にいさせてほしいなんて大層なことを願っているわけじゃない。ただ突き放すことだけは止めてほしかった。壁一枚挟んだ世界の向こうでもいいから彼女の存在をオレは感じていたいのだ。
「…………」
長い、永い静寂。
逃げないで、そう言ったオレをじっと見つめる彼女。
どんな気持ちで、どんな顔をしているかは分からない。
顔をあげることなんて出来るはずがない。
ただただ嗚咽を溢しながら、俯き、オレは待ち続けた。彼女の言葉を。
∮
優しいものが、とても怖くて。
けれども"本当"に向き合う勇気もなくて。
意気地無しの私達はいつも優しい嘘に逃げてしまう。
けれども。
いつかは夢から覚めるように。
私達も"本当"を見なきゃいけないの?
それなら私は一生眠ったままでいい。
二度と目覚めないように、もう誰も起こさないで。
∮
いつまでも続くかと思われた静寂は突然終わりを告げた。
「……白夜はさ、優しいよね。本当に」
淡々と彼女は言う。
息を吸うこともなく、ぽつりとまるで息するみたいに、零れるみたいに、一人言みたいに、淡々と。
怖いくらいに抑揚はない。
「私なんかに同情しなくていいのに気を使わなくたっていいのに」
「本当に、本当に本当に本当に嫌になっちゃうくらい優しいんだから」
「でもさ」
「それじゃ白夜が壊れちゃうよ」
「そんな"泣くほど無理して"嘘なんかつかなくたっていいんだよ、別に」
「本当に、本当に本当に」
「本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に」
────白夜は優しいんだから。
異変を感じて、ようやく顔を上げれば、いつの間に持っていたのか彼女はぎらりと鈍色に光る鋏をどくどくと脈打っているだろう首元に沿えていて。
そうして、この世の誰よりも美しく笑った。
「あなたを解放してあげる」
『お前を、解放してあげる』
『君を解放してあげる』
その言葉がかつての二人の言葉と重なって、オレは反射的に彼女に飛びかかった。
なんとか身体全体で彼女の身体を押さえ込むけれど、腕の中で暴れる彼女の力は強い。少しでも気を抜いたら、彼女はきっとその手に持ったモノで彼女自身の首をかっ切るだろう。オレは死にもの狂いで彼女を押さえた。オレはどうなったっていい。でもどうか彼女だけは。彼女の命だけは。奪わせない。誰にも。それが彼女自身であってさえも。
(どうすればいい?)
彼女は鋏をしっかりと握り込んでいて絶対にそれを離そうとしない。言葉での説得も無理だ。彼女は狂乱している。今はまだ押さえ込めているけれど、じきに体力の限界が来る。食事もまともに取れず弱りきっているオレと、きっと今でも演劇の為に稽古を続けてる彼女。どちらの体力が上回っているか。それは明らかだった。
ならばどうすればいい?
時間がない。
手っ取り早く彼女の持っているモノを無力化するためには。
どうすれば。
どうすれば。
「…………」
あぁ。
こうすれば。
彼女の腕を強く引き寄せて、オレは迷いなく彼女の持つ鋏を自分の脇腹に深く突き刺した。
絶対に彼女が抜けないように、深く深く。
「────っツ!!」
死ぬほど痛い。悲鳴すらあげれないくらい痛い。
そりゃそうだ。死んでもいいつもりでやったのだから。痛いに決まってる。何回やったって慣れるものじゃない。刺したところから血がどくどくと溢れて、身体の中から血がなくなっていく感覚がする。最早自立して立つことすら出来なくなるくらい血が減ってしまったのか、糸の切れたマリオネットのように倒れる。地面にそのまま頭をぶつけたけれど、脇腹が痛すぎて頭の痛みは分からなかった。
「……??……???」
突飛な行動をとったオレに彼女は完全に呆気に取られたらしく、目を見開いて声も出せずに座り込んで震えながらこっちを見ている。どうやら腰が抜けてしまったらしい。
良かった。これでも暴れられて、自殺を謀られたら、もうどうしようもなかったから。
だんだんと景色が霞んできた。あんなに外は寒かったのに、走ってるときは熱かったのに、もう何も感じない。全身の感覚がだんだんと鈍くなっていく。刺されたところも、もう痛くはない。
「────馬場ッ!!」
「馬場君!?」
「……満月、クン」
「馬場さんッ!!」
「…………!!」
「うそ、だろ……!?」
尾田君や菜種さん達もオレを追いかけてきてくれてたらしい。倒れ込んだオレの姿を見て、皆の表情が絶望的なものに変わる。あぁそんな顔しないでいいのに。皆の悲しい顔は見たくない。嬉しい顔が一番だ。笑ってくれまでとはいわないけど、悲しい顔なんかよしてくれ。
あぁ振り返ってみれば。
文化祭の時の皆の笑顔、あれは本当に良かったなぁ。皆楽しそうで。幸せそうで。ヒナだってあんなに笑ってて。
あんな風に大切な人達と一緒にまた演劇が出来るなんて思ってなかった。
沢山の人々を演劇の力で笑顔にすることができるなんて。
「……本当に、本当に、楽しかった、なぁ」
皆の心配そうな顔が目の前にある。何か言っているようだけど上手く聞こえない。もう大分身体が限界らしい。
(……こんなに心配してくれるんだなぁ、皆。"馬場満月"のこと)
どうせ聞こえないなら、まだ喋れる内に彼らに何か言っておこう。これが最後かもしれないし。
「……ほんとうの、おれで、みんな、と、すごしたかった、いっしょに、わらいたかった」
心のずっと底に封じ込んでいた願い。
「もし、もういちど、あえるなら、おれを……うけいれてくれ、ますか、ともだちに、なって、くれますか?」
これが、正直な、馬場満月でもなんでもない神並白夜の本当の気持ち。願い。
何か返事してくれているようだけど、やっぱり何も聞こえない。それでいい。返事なんか聞きたくない。
目を開けていることも億劫になって、ゆっくりと目を閉じる。
きっと何もかも足りないはずなのに、オレの心は何故だか幸せに満ちていた。
***********************
第八話【既知の道】→【未知の基地】
見覚えのある通りを歩いていた。だけども俺は此処を知らない。
家だと教えられた場所は、何故だかピンとこなくて。
何かがおかしい?俺は何かを忘れている?
夢のような、現実のようなこの世界で俺は今日も生きている。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.107 )
- 日時: 2019/01/19 08:17
- 名前: お洒の鬼 (ID: T4clHayF)
う-ん
なんか初期の設定とキャラの行動があっていないような?
期待していたのに少し残念かな?78点
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.108 )
- 日時: 2019/01/19 12:54
- 名前: 羅知 (ID: IhKpDlGJ)
幕間【In my heart】
ばらばら。
ぱらぱら。
∮
あまりに幼すぎて、断片的にしか思い出せないけど。両親との生活は確かに幸せなものだったということはなんとなく覚えている。
「日向はママ似だね」
「んー?」
「とっても可愛いけど、強くて格好良いってことだよ」
「あー?」
「……分かんないか」
パパは────いや、父は優しい人だった。
父はいつも仕事で帰ってくるのが遅かった。帰ってきたときにはいつもヘトヘトな様子だった。けれども、たまの休日には、仕事で疲れているだろうに僕や母の前では元気に振る舞って、いつも笑っていた。近所の公園だけど、暖かい日には三人でピクニックをした。僕が何かするたびに「良い子だね」「すごいね」って言って。そうして僕の頭を優しく撫でる。僕はそんな優しい父が大好きだった。
「……パパ、遅いね」
「うー?」
「……日向も、寂しい?」
「あー!」
「眠たかったら日向は寝てもいいよ。ママはパパが帰ってくるまで起きて、日向の分までおかえりってパパに言うから」
母は強い人だった。
どれだけ父が帰ってくるのが遅くなったって、母は起きて父の帰りを待っていた。たまに待ちくたびれて玄関で毛布にくるまってそのまま寝てしまうこともあったけれど、そんな時は帰って来た父が布団まで母を運んでいた。父はそんな母を心配して、母に玄関で自分を待つのは止めるように言った。けれども母は父がどれだけ言っても待つことを止めなかった。父が帰ってきたら、笑顔でおかえりと言って、冷えた晩御飯を暖めて、父をぎゅっと抱き締めた。冷えきって帰ってくるパパに暖まってほしいからって、母は父をいつも待っていた。僕はそんな強い母が大好きだった。
∮
ばらばら。
ぱらぱら。
∮
実は、"その日"、何があったのか僕はあまりよく分かっていない。目の前で起こっていた惨状を理解するには僕はあまりにも幼すぎた。
嫌と言う母の叫び声が、聞こえたような気がする。
苦しくて呻いている母の声が、聞こえたような気がする。
知らない男の人の声が、聞こえたような気がする。
「まま」
母の様子が気になって、呼んだけれど、一瞬がたがたがた、と大きな音がしたあと、パタンとドアが閉められた音がしただけで母の返事はない。
「まま?」
もう一度呼ぶ。
返事はなかった。
∮
「ボウヤ、起きなよ」
知らない誰かのそんな言葉で僕は目を覚ました。部屋の中で母を探し回っている間に、疲れて眠ってしまったらしい。
目を開ければ、目の前には見覚えのない顔の若い男の人がいた。
「おにさん、だぁれ」
「お兄さんかい?お兄さんはね……アクツっていうんだ。よろしくね」
「おにさん」
「呼ばないのかい?別にそれでもいいけど」
男の人はそう言ってにっこりと笑った。開いた口の隙間から獣みたいな八重歯が見えて、少し不気味だった。
「なんじ?あさ?」
「今はまだ夜だよ」
「ねる」
「寝ちゃダメだよ。お兄さんはボウヤを迎えにきたんだからさ」
そう言いながら男の人は僕の腕を掴んで、無理矢理立たせる。掴まれた腕が痛くて、僕は涙が出そうになった。男の人は笑顔のままだった。むしろ僕が痛がって泣きそうになってるのを見て、もっと嬉しそうになった風にさえ見えた。
「可愛いねぇ」
ねっとりした口調で彼は言う。悪意のないはずのその言葉を酷く気持ち悪く感じて、背筋がぞくりと震える。
「寝ている君も可愛かったけど、起きてると尚更可愛いね」
そんなことを言いながら男の人は僕の腕を掴んだまま、僕を僕の知らない場所に連れていく。母も側におらず、何がなんだか分からない僕は、それに大した抵抗もせずに着いていった。今の僕なら流石におかしいと気付いて抵抗したんだろうけど、幼い僕はあまりにも幼すぎて、あまりにも愚かだったのだ。
だからこそ、僕は生き残ったのだろう。
あの時、少しでも不信感を抱き、少しでも抵抗しようものなら、あの男の人は僕を殺していた。彼はそういう人間だった。あの場にだって本当は残った僕を殺すために戻ってきたに違いない。僕は彼の気まぐれで生き残らされたに過ぎないのだ。
その時、生き残ったことが良いことなのか、悪いことなのか、それは今でも僕には分からない。
∮
「ボウヤ、名前は?」
「ひなた」
「そう、ヒナタ君か。略してヒナ君だね」
「ひな……」
特に抵抗することもなく車に乗せられ、連れてこられた先は見知らぬ薄汚れたマンションだった。大通りから少し離れた場所にあるらしく人の気配はほとんどない。なんだかお化けでも出そうな雰囲気もあって、僕は少し怖くなった。
「逃げちゃ駄目だよ」
別に逃げようとしたわけではなかった。
けれども彼は僕の怯えた様子を『逃げようとした』そう解釈したらしい。ニコニコと笑っていた顔が突然無表情になり、腕を掴む力が余計に強くなる。笑ってる時は半開き程度だった目がカッと見開いて僕を見つめる。その目はどこか蛇が獲物を捕らえる時にするものとよく似ていた。恐怖で体の力が抜けてしまって、まさに蛇に睨まれた蛙のようになる僕をなかば引き摺って彼は僕をどこかへ連れていく。何かがおかしい。いくら僕が幼く愚かでも流石にもう気が付いていた。けれども反抗することも、抵抗することも出来るわけなんてなくて。無力な僕はただ彼に逆らわず着いていくことしか出来なかった。
∮
「ミケ」
最終的に僕は古びたマンションの三階の一番奥の部屋に連れてこられた。彼が部屋のドアを開けると、彼より少し年下くらいに見える女の人が体操座りで玄関に座り込んでいた。初めは顔を伏せていたが、彼が呼んだのに反応してゆっくりと顔を上げ、そして彼のそばにいる僕に気が付く。まるで珍獣でも見るような目付きで数秒僕の顔を覗くと、きょとんとした顔で彼に聞く。
「アクツさん、誰ですか、その子」
「ヒナ君。ほら、例の家の子だよ。駄目だった?」
「……あぁ、あの家の。ミケは別に構いません。アクツさんが望んでいるのなら」
短く話を終えると、ミケと呼ばれた女の人は立ち上がり、僕の方を見て、うっすらと笑った。
「ヒナ君、でしたっけ。ミケはミケ。どうぞよろしく」
何だか拍子抜けしてしまいそうなほどに優しい笑顔だ。僕はさっきまでの恐怖を忘れて、よろしくという言葉に、こくんと頷く。頷いた頭を優しく撫でられる。それは父や母がよく僕にしてくる撫で方ととてもよく似ていて、僕は自分の心が落ち着いていくのを感じた。
あぁ、そういえば母はどこに行ってしまったのだろう。
そんなことを一瞬考えたけど、まぁきっと大丈夫だろう。少したったらすぐに迎えに来てくれる。能天気にもそんな風に思った。思っていた。愚かにも、そんなことを。
∮
「みけ?って、がいこくのひと?」
「……どういうことです?」
この部屋に連れてこられて数日が経過した。相変わらず母はどこにいるかも分からず、父とも連絡が取れない日々。でもあまり寂しくはない。アクツさんは最初の日以来顔を見ていないけど、僕の側にはいつもミケさんがいる。表情は乏しいけれど、僕が遊んでと言ったら遊んでくれるし、お腹すいたと言えばご飯やお菓子を出してくれる。思ってることがあまり顔に出ないだけなのだろう、きっと。ミケさんは優しい人だ。
「……あぁ、この目と髪の色を見て、そう思ったんですね。違いますよ」
ミケさんの髪と目の色は綺麗な亜麻色だ。顔立ちも目鼻立ちがはっきりとしていて日本人離れしている。だから僕はてっきりミケさんは外国の人なのだと思っていた。でもミケさんが言うにはどうやらそうではないらしい。
「ミケの両親は、分かりません。だからもしかしたら外国の血も入ってるのかもしれません。でも日本育ちです。外国なんか行ったこともありません」
「……パパママ、いない?」
「はい。でも寂しくはないですよ。アクツさんがずっと一緒にいてくれましたから」
そう言うとミケさんは自分の縛っている髪の毛の片方を触った。ミケさんはいつも髪の毛を綺麗なお下げの三つ編みにしている。
「小さいとき、孤児院にいたとき、アクツさんが言ってくれました。三つ編み可愛いね、綺麗な髪だね、って。それからずっとこれなんです」
そう言うミケさんはとても嬉しそうに笑っている。アクツさんの話をするとき、表情の乏しい彼女はよく笑う。きっと彼が大好きなのだろう。彼のためなら何でもしたいとそう思えるくらいに。それは母の父に対する思いに似ていた。純粋な、一点の曇りのない愛だった。けれども彼らの愛は誰かを犠牲にしないと成り立たないようなもので。愛は尊いものだというけれど、そんな愛でも尊いと言えるのだろうか。
そんな難しいこと、この時の僕には分からなかったけれど。
少なくとも、この時の僕は二人の幸せが続いてほしい。そう思っていたのだ。それが何によって成り立っているなんて分からずに。
それからまた数日が経った。
父と母の行方は未だ分からず、僕はミケさんと共にこの部屋にい続けた。
∮
ある日のことだった。
見知らぬ男の人が部屋の中にいた。作業服のような格好をして、部屋の掃除をしているようだ。
「だぁれ」
僕の言葉に彼は一瞬こちらを一瞥したけれど、すぐさま作業に戻った。
「…………」
気のせいかもしれないけれど、一瞬見えた目は僕を哀れんでいるように見えた。可哀想なものを見るような、そんな目に。
「それは……多分、熊猫さんですね」
あとからミケさんにその人のことについて尋ねると、どうやらあの男の人もミケさんやアクツさんの仲間だったらしい。
「今は別のお名前があるみたいですけど……ミケは少なくともそう呼んでいます。お掃除してくれたり、庭仕事してくれたり……呼べばどこにでも来る方ですよ」
もっと詳しい話を聞いてみたいと思ったけれど、ミケさんはパンダさんという人についてはあまり知らないらしい。
「アクツさんの知り合いですから、あの人は。……よく分からない方で、ミケはあまり好きではありません。何考えるか分かんないし……多分何も考えていないんでしょうけど」
そうだろうか、一瞬見ただけだけれども、そんな人には見えない。何も考えていないような人に、あんな目はできるのだろうか。むしろ彼は色んな感情を無理矢理抑え込んでいるのではないだろうか、洪水しそうな感情を無理矢理。
出来ることならもう一度あの人と会って、聞いてみたい。きっと彼は全てを分かっていて、だからこそあんな目を僕に向けていたのだろうから。
∮
某所にて。
「あーあ、お気の毒に。酷い目に合っちゃって。…………まぁ命じたのは俺なんだけど」
「怖い?もう怖くない?……はは震えないでよぉ……もう怖いことなんかしないから」
「もうすぐ会わせてあげる。大丈夫。ボウヤには酷いことなんてしてないからさぁ」
「なんでこんなことするか、って?楽しいからに決まってるだろ?わざわざつまらないことなんてしないさ」
「……つまんねぇなぁ。ただただ怯えて反抗しなくなった獲物は」
「まぁ、お前を餌にあと二人は釣れる予定だからさ。せいぜい俺を楽しませてくれよ」
「なぁ、陽子サン?」
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.109 )
- 日時: 2019/02/03 17:16
- 名前: 羅知 (ID: r5KTv1Fp)
∮
「ねぇ、ヒナ君。これ着てみませんか」
そう言ってミケさんが取り出したのは、可愛らしいフリルがあしらわれた白色のロリィタワンピースだった。まだ幼く、自身の性別をしっかり理解も出来ていなかった僕は特に抵抗せずに、着せられるままにその服を着た。普段着ている服と違って、なんだかごわごわとして少し動きにくい。
「ふふ、似合ってますよ」
僕がその服を着ているのを見て、ミケさんは嬉しそうににっこりと笑った。いつもと同じ優しい笑顔だ。だけど何故だろう。いつもと同じなのに、優しい普通の笑顔なのに────なんだかその笑顔はいつもより深い意味があるように思えて、僕はその時だけ少しだけミケさんの笑顔を怖く感じた。でもほんの一瞬だった。だから僕はそんな考えをすぐに忘れた。ミケさんは優しい。それは僕にとって揺るぎない事実だった。
「今日はこれを着て下さい」
それからというものミケさんは、僕に過度に女の子らしい服装を着せるようになった。僕を呼ぶ呼び方も『ヒナ君 』から『ヒナちゃん』に変わった。二人でする遊びも、おままごとや人形遊びなど女の子のするような遊びをすることが多くなった。だんだんと変わっていく環境に僕は大きな不満こそはなかったけれど、少しだけ、ほんの少しだけ嫌に思うようになってきた。たまには外で走り回って暴れまわりたい。泥だらけになって遊びたい。しかし、この可愛い服では動きにくく、そうすることが出来ないのだ。
僕はその旨をミケさんに伝えた。ミケさんは一瞬考えるような素振りをしたけれど、すぐにまたいつものように優しい笑顔に戻った。
「……そう、ですか。いいですよ。着替えても、別に」
そして続けて、こう言った。
「……ところでヒナちゃん。お母さんに、会いたくないですか?」
答えは勿論イエスだった。
今思えば、あまりにもこの時の彼女の言動はおかしかった。今までまったく出すことのなかった母の話題を何の脈絡もなく突然出すなんて。
でも僕は母に会えることが嬉しくて、そんなこと気にもしなかった。母が姿を消す前に聞こえたような気がした呻き声や叫び声のことなんかもうすっかり忘れてしまっていたのだ。
∮
「こない、で」
「だれ?だれ、だれだれだれだれだれ、やめて、こないでしらない、し、しししらないしらないおとこのひと、いや、いやいや、やめてこないで、」
「だれ?ちがうあなたはちがうひなはおんなのこひなはどこひなをどこにやったの?」
「はる、き……?」
「だれ、それ……わからない…………わたし、わからない……ひなは……?わたしの、ひなは……?」
∮
母は僕がミケさんと過ごしているマンションにさほど遠くはない、古くて小さな木製の小屋
にいた。
結論から言えば、多分母は僕が母に再会したその時には既に精神崩壊してしまっていたのだろう。
小屋の戸を開けて、写った母の目は酷く淀んでいて、僕のことなんか見ていなかった。ただ部屋の隅で手負いの獣のように怯えて、震えて、"ヒナ"ではない僕を警戒して、"ヒナ"というけして僕ではない何かだけを信じて、生きていた。
どうして母の思考がそんな厄介なものになってしまったのかは分からない。けれども壊れた母の思考を彼らの都合のいいように歪に弄くりまわすことはきっと彼らにとって簡単なことだったはずだ。
父も僕も何も分からなくなってしまった母はとても弱い人だった。大事な人の為に、ただそれだけの為に、母は強くいられた。全てを失った母は剥き出しで、ボロボロで、今すぐにでも砕け散ってしまいそうだった。
「ママ、どうしたの……?」
母に拒絶され、伸ばした手を払いのけられたあの日、僕は悲しくて悲しくて沢山泣いた。何故あんなことをされたのか理由がまったく分からなかった。
その後も何度も何度も母のところへ行った。けれども結果は同じだった。僕は母に拒絶された。近付きすぎて暴力を振るわれる日もあった。ぶたれたところが痛かった。だけど一番痛かったのは母に拒絶された心だった。
だんだんと僕は上手く笑うことができなくなった。涙すら出ないようになってきた。ただただ悲しい気持ちだけが心に満ちていく。僕の心もその頃にはきっと相当壊れていた。
そしてそうなることを見越していたかのように、ミケさんが僕に言った。ずっと変わらない優しい笑顔で言ったけれども、それは悪魔の囁きだった。
「ヒナちゃん、ヒナちゃんは女の子なんです。だからそれを認めれればお母さんはヒナちゃんを愛してくれますよ」
愚かな僕はその言葉を受け入れた。
明らかに間違っていると分かりきっている道を、母に会いたい、母に受け入れてもらいたい、という願いのために盲目的に進んでいったのだった。
∮
その日から母と僕は、ミケさんと僕が過ごしていたマンションの部屋で生活することになった。ミケさんは、たまに様子を見に来るけれど、ほとんど部屋に訪れることはなくなり、僕と母の二人で過ごす日々が始まった。
"ヒナ"になった僕を母は受け入れてくれた。それはけして母から子に向けるようなものではなく、溺れそうになってすがりつかれてるも同然だったけれど、それでも僕は嬉しかった。どんな形であろうとも母に僕を見ていてほしかった。"ヒナ"でいれば僕は母に受け入れてもらえる。以前のように母に愛してもらえる。だから、これでいい。これでいいのだ。母にとって都合の"良い子"であれば、僕は、ずっとずっと母と一緒にいることができる。
(……"ヒナ"は、"いいこ"……)
そうでなければいけないのだ。
馬鹿みたいに、そう、信じ続けた。
∮
「ごめんね、日向」
それが僕が聞いた母の最期の言葉だった。真夜中にフラフラと母は起き上がったかと思うと、うつらうつらとしている僕にそれだけ言って、母は首を吊って死んでしまった。最後の最期に母は"僕"を見た。僕という存在を認識し、ごめんね、と謝った。何故、何故謝られたのだろう。何に対して謝られたのだろう。謝罪の言葉を述べる母の瞳は酷く悲しげで沈んでいた。
謝ってほしくなんかなかった。謝ってもらう理由なんてなかった。僕は幸せだった。ただ、母と一緒にいられれば僕はそれがどんな形であったとしても幸せだったのに。それともあの謝罪は、そういう意味だったのだろうか。これから一緒にいられなくなることへの謝罪だったのだろうか?それならなおさら謝ってほしくなんかなかった。生きていてほしかった。生きて僕と一緒にいてほしかった。
けれども母はその道を選ばなかった。
今なら分かる。母はもう限界で、完全に精神という精神が壊れていて、壊されていて、あの時正気に戻ることができたのだって奇跡のようなもので。そして僕も相当に壊れていて、一緒に死ぬことはできても、生きていくことなんて、長くは持つはずがなくて。
正気に戻った時、母は覚悟したのだろう。自分を切り捨てて、僕を救う覚悟を。僕や父を遺して命を断つ覚悟を。母は強い人だ。大切な誰かの為に、自分を簡単に犠牲に出来る、本来こういう強さを持った人だった。
強い母は最期まで強い人だった。最後の最期に強い人であろうとした。
母の自殺した翌日、僕は母が最後に母の弟にした電話により居場所を発見され、保護された。保護された僕は前後不覚の状態で、けして話を聞けるようなものではなく、メンタルケアの為に病院内でその後の日々を過ごすことになった。
幕間【In my heart】前編終了。後編へ続く。
- Re: 当たる馬には鹿が足りない≪更新再開≫ ( No.110 )
- 日時: 2019/02/21 23:58
- 名前: 羅知 (ID: r5VGwxxq)
九話【絶望】
オレ達が駆け付けた時には遅かった。事態は既に終わっていて、馬場が死んでしまうことが一番の最悪だとすると、最悪の二番目くらいに今の状態は酷かった。終わっていた。二重の意味で、終わってしまっていた。
「……どうして、こう、なったの?」
オレ達が混乱しながら馬場の怪我の処置や救急車の手配をしてる間も、馬場が救急車に運ばれていく時も、愛鹿社は最初の位置からまるで魂が抜かれてしまったかのようにへたりこんだままぴくりとも動くことはなかった。ただただ呆然と何もない虚空を見つめるだけ。そうして突然彼女の口から零れたその言葉にオレ達は何と言っていいのか分からなかった。むしろその台詞はオレ達が言いたいくらいなのだ。彼女にオレ達がそう問い詰めたいくらいなのだ。でもそんなこと出来るはずがない。彼女も分からないのだ。何も分からなくて、不安と、混乱で、いっぱいいっぱいなのだ。少しつついたら崩壊してしまういそうな危うさが今の彼女にはあった。それは最近の馬場の雰囲気とよく似ていた。
「…………」
そおっと横目で見るようにして、彼女の姿を確認する。不躾に堂々と見ることは憚られるような気がしたからだ。相変わらず彼女はまるで魂が抜けたように動かない。どこを見つめてるかも分からないような目で、何かを見ている。オレは彼女の視線の先を探った。
そうしてあることに気が付く。
(……あ)
瞳だ。
彼女の目は、そっくりだった。久し振りに学校に復帰したあの日、オレに確かに助けを求めていた馬場の瞳に。
彼女は、どことも分からないような場所にいる、誰かに、助けを求めているのだ。きっと彼女にそうしている自覚はない。彼女はただ無意識に救われたいと、そう願っているのだ。目を凝らさなければ見つけられないような小さなSOS。それでもそれは確かに誰かに助けを求めていた。そして、それに気が付いてしまったらオレに彼女を助けないなんて選択肢があるはずがなかった。愛鹿社は馬場の幼馴染だ。馬場と彼女に一体何があったのかは分からない。正直心の何処かでは混乱していた彼女が馬場を刺したのでは?なんて疑っている自分がいる。でも、オレは信じる。だって気を失う前の馬場の瞳は彼女への愛に満たされていたじゃないか。もし、馬場がこの状況を見ているのなら、あの自己犠牲の精神の塊のようなあの男は彼女を身を呈してでも守るだろう。
だから、助けたい。
そして、信じたい。馬場を。彼女を。助けるという選択を選んだ自分自身を。
「……あの、愛鹿サン」
おずおずとオレは彼女に声を掛けた。オレと同じように彼女をどういう風に扱えばいいのか分からずに戸惑っていたシーナや菜種達がごくりと息を飲む。
「……オレ達は、今から病院に向かうんスよ。だから、その……愛鹿サンも一緒に行きません?」
「…………」
「……楽観的だとか思われるかもしれないスけど、馬場なら大丈夫スよ。きっと……きっと!けろっとした感じでまた……」
本心からの言葉ではない。でも、今は彼女の心を落ち着かせることが最優先だった。彼女の心を刺激しないように、ゆっくりと、慎重に言葉を選ぶ。
「……だから、あの、一緒に──」
「────遠慮、します」
消え入りそうな声で、それでいてはっきりした冷たい口調で彼女はそう口にした。
「遠慮します。……貴方達は、貴方達だけで向かって下さい。私は、私一人で行きます」
「どう、して……」
彼女が倒れてしまいそうになりながら、ゆらりと立ち上がる。顔は青白く、こちらを恨みがましそうに見つめるその姿は、どこかの怪談に出てくる幽霊を彷彿とさせた。
「……私は、何も分かってなかったんですね。彼のことを。あんなに小さな頃から一緒にいたのに、なんにも。貴方達の方がよっぽどか彼のことを分かってて、彼を幸せにしてあげれてた……」
「……え?」
「……貴方達を見てると、ドロドロした感情が、溢れて、なりふり構わず貴方達に向かって、投げつけたくなります。貴方達が、羨ましいんです。あぁ、憎い、憎い、憎い」
ぶつぶつと怨嗟の言葉を呟きながら、ふらふらと、彼女はオレ達に背を向けて病院へと歩いていく。今にも倒れてしまいそうな彼女に待ってくれと呼び止めると、彼女は一瞬だけこちらを振り返った。
「私の姿が見えなくなってから、病院へは、向かって下さい。……共に行けば、私は、貴方達に酷いことを言います。彼の友人だった貴方達に、そんなこと、本当は言いたくありません」
「…………」
「…………ごめんなさい」
小さく謝罪の言葉を告げて、ふらふらと、それでいて足早に彼女は先へ進んだ。オレ達はまるで彼女の言葉に呪われてしまったかのように、彼女の姿が見えなくなるまで、そこから離れることが出来なかった。
∮
病院へ辿り着き、受付で事情を説明すると、すぐに別室に案内された。内装は普通の病院の待合室によく似ているが、こじんまりとしている。その部屋の角の辺りにある椅子に彼女は膝に顔を埋めるようにして座っていた。
呼吸することすら憚られるような雰囲気がそこにはあった。ましてや、声を上げることなんて出来るはずもない。どうしようか、と思いながら、シーナの方を見ると、どうしようね、というような顔をした彼が苦笑いをオレに返す。シーナを挟んだ向こう側では菜種が心配そうに愛鹿社を見つめていた。そう言えば菜種は文化祭の時に愛鹿に演技の教えを乞いにいっていたのだっけ。オレ達以上に色々と思うことがあるのだろう。菜種の憂いを帯びた表情を見て、オレは菜種から目を逸らした。
どれだけ待っただろうか。時計は既に夜の12時近くを指していた。ここに来たのが夕方だと考えると、八時間近く待ったことになるだろう。その間、何度か看護師のような人が来て、食事や、飲み物などを提供してくれたが、オレ達はとてもじゃないけど食べる気にはなれなくて、一口二口食べて、残した。もう遅いから帰ってもいい、と言われたが帰る人間はいなかった。愛鹿社は、たまに体勢を変えることこそあれど、ほとんど初めの体勢から動くことはなかった。
あまりに時間が遅すぎて、メンバーがうつらうつらとし始めた頃、白衣を着た男の人が部屋に来た。
「……お待たせしたね。準備が出来たよ」
馬場のことを診てくれた先生だろう、そう思いながらゆっくりとその先生の顔を確認した瞬間、オレ達は転げてしまいそうなくらいに驚いた。
「……初めまして、馬場君の友人諸君。私は濃尾彩斗、この病院で精神科医として働いている。ちなみに濃尾日向の叔父だ、宜しく」
その人の顔が濃尾そっくりで、それでいて濃尾の絶対にしないような爽やかな笑顔をしていたからだ。
∮
「はは、驚いたかな?いつも日向と仲良くしてくれてたんだよね?ありがとう」
そう言いながら彼は、オレ達座っている近くの椅子に座って足を組んだ。何だか妙に緊張してしまってオレ達は身を縮めた。そんなオレ達に、緊張しなくてもいいよ、と優しく彼は微笑む。
「先にこれだけ言っておこうか。……馬場君の意識は既に戻ったよ。刺し所がよかったのかな……大事には至らなかったみたいだ」
何でもないことのようにさらりと彼はそう言ってのけた。あまりの自然さにオレ達は最初その言葉に現実味が沸かず、ぽかんとアホ面で口を開けていた。数十秒経ってだんだんと言葉の意味が理解できてくると、開いていた口がわなわなと震えてきた。
「……ま、マジですか、それ」
「うん、本当。……でも、ね……」
馬場は目が覚めた。それはとても嬉しいことだし良いことであるはずなのに、そこまで言って彩斗先生はもごもごと口を動かして何かを言い淀んだ。表情もどこか浮かない顔だ。何か問題でも起こったのだろうか……。オレ達は先生の次の言葉を待った。
数秒間の逡巡の後に、先生は意を決したように、馬場の現状を口にした。
「……一言で言えばね。目覚めた馬場君は君達の知ってる馬場君じゃなかった。かといって彼の本来の性格でもない。そうだね────馬場満月の器だけ残されて中身は切り取られた、みたいな、そんな状態だったんだ」
∮
「……脳に損傷は見られなかった。だから、これはつまり精神的な問題だ」
「君達の話によれば、馬場君はあの騒動以前から相当限界状態にあったようだから……遅かれ早かれこうはなっていただろうが、今回の騒動がきっかけになったことは確かだね」
「気に病むことはないよ。さっきも言った通り、遅かれ早かれこうなっていた可能性が高いのさ。……それに今の状況は馬場君にとって天国のようなものだろう」
「馬場君は現状に苦しんでた。自らの持つ過去に苦しんでた。これからの選択に苦しんでた。……それらを丸々リセットして初めからやり直せるんだ。願ったり叶ったりじゃないか」
「君達にとっては不服かもしれないが、私はこれからの馬場君への干渉を止めることをお勧めするよ。下手に彼を刺激したら、今度こそ彼はどうにかなってしまうかもしれない」
「冷たいと思うかもしれないが……君達が馬場君と過ごした期間は半年にも満たない。そんな短い時間だ。そして、君達は若く、これからの人生はとても長い。……馬場君が君達を忘れたところで、君達が馬場君のことをなかったことにしたところで、君達の人生にも馬場君の人生にも何の支障もない」
「…………"なかったこと"にした方が、お互い幸せなんだよ」
∮
信じられない、とそう思った。
何か証拠を見せてくれ。自分の目で見なきゃ納得なんてできない。馬場がオレ達を忘れたなんて。それどころかオレ達の姿が見えなくなったなんて。短い間だとしても馬場とオレ達が作った思い出はけして忘れられるようなものじゃなかった。楽しいことだって、辛いことだって、色々あった。忘れたくなるような酷いことだってあったかもしれない。でも、それでも本当に、本当に忘れるなんて。そんなおかしなことあるのか?いや、あってたまるか。
周りの目も気にせず、オレは感情に任せてそう叫んだ。そんなオレに対して濃尾先生は冷静そのもので、オレの言葉をどことなく冷えた目のまま受け止めると、その表情のまま、いつの間に部屋に入ってきていた助手のような人にこう命令した。
「……君達がこのことを信じられないだろうことは分かっていた。照君、彼らをあそこに連れていきなさい」
「はい、分かりました」
助手のような人は、濃尾先生の命令にこくりと頷くと、オレ達の方を見て、にこりと笑った。
「濃尾先生の代わりに今回の事故に関しての馬場君の担当医をしています、テルと申します。どうぞ宜しく」
「……?」
真正面で見た彼の顔に何故か既視感を覚える。けれどその既視感をどこで味わったのかははっきりと思い出すことがは出来なかった。
∮
連れてこられた先は、狭くて、暗くて、壁の一面だけが擦りガラスになっているという奇妙な部屋だった。テルさんが何かのスイッチを押すと擦りガラスがただの透明なものに切り替わり、ガラスの向こうが見えるようになる。
「馬場……!」
ガラスの向こうは普通の入院部屋のようになっていて、そこには白いベッドに横たわった入院服を着た馬場がいた。顔は青白く、体調は悪そうではあるが、意識はあるようでキョロキョロと周りを見ている。
「馬場君、調子はどうですか」
『……あぁ、先生。どうも……調子……まずまずってところだろうか』
どうやらこちらの部屋とあちらの部屋の声はお互いに聞こえるらしい。テルさんがそうやって声を掛けると、元気こそないが馬場はそうやって言葉を返した。その様子にいたっておかしな点はない。
「馬場さん。先程のものに加えて質問宜しいでしょうか」
『……あぁ、いいぞ』
「何度も何度も申し訳ありませんが……貴方のことをもう一度教えて下さい」
『……また、その質問か?先生。さっきから言ってるだろう。俺は馬場満月。十六才。貴氏高校一年。"両親は海外に赴任していて、一人っ子"』
「細かいことは思い出せますか。例えば────過去の思い出のようなものとか」
『……昔の思い出?そういうのはないな。高校に上がってから特に仲の良い友達もいなかったし、クラスでも目立たない方だったし。中学、小学もそんな感じだ』
「最後にもう一つ。ワタクシのいる部屋には何人いるように見えるでしょうか」
『?……何言ってるんだ、先生。先生のいる部屋には"先生一人しかいない"だろう』
「長々と質問にお答え頂き、ありがとうございました。どうぞごゆっくりとお休み下さい」
『あぁ、お休み』
そこで会話は終了して、テルさんがスイッチを押すことで、透明なガラスは擦りガラスに戻った。
「…………」
全員が黙りこんだ。
馬場がオレ達のことを覚えておらず、見えてさえもいないという事実をこうして実際に体験して理解すると、胸を大きな杭で打たれたようなそんな衝撃があった。
一番ショックだったのは、その事実そのものよりも、オレ達のことを見えても覚えてもいない馬場の方が、最近の馬場よりよっぽど幸せそうに見えたことだ。
オレ達は馬場に必要ない。馬場を助けたいだなんて願いは、オレ達のただのエゴなのだと、そう突き付けられたような気がした。
「う……」
岸波が声を押し殺すようにして、泣いている。それに続いて、一人、また一人と涙を流す。隣を見れば、シーナが可愛い顔をぐしゃぐしゃに崩して泣いていた。それに気が付くのと同時に自分の頬が濡れていることに今更気付く。オレも泣いていた。泣けば泣くほど悲しさというものがオレの中で形を持っていき、余計に悲しくなる。悲しくなって、また泣いて、それで余計に悲しくなる。その繰り返しだった。
皆、自分のことで精一杯で、自分の悲しみを受け止めるのに精一杯で、だから気付けなかった。
「あは」
泣き声の中に不似合いな笑い声が混じる。
「あは、あはははっ、あはははははははは!あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!!!!!あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!!!!!!!!」
オレ達は、少なくともこの事実を受け入れていた。受け入れていたからこそ、泣くことが出来た。
でも、彼女には無理だった。
もう限界寸前で、壊れる寸前だった彼女に、この事実が受けとめきれるわけなかった。彼とずっと一緒にいて、誰よりも彼を必要としていて、誰よりも彼を愛していた彼女に、こんな惨い事実、受けとめきれるはず、なかった。
暗くて、狭い、部屋の中、沈んだ泣き声と歪な笑い声が響く。
それは、奇しくも満月の日の夜のことだった。
- 当たる馬には鹿が足りない ( No.111 )
- 日時: 2019/02/23 16:58
- 名前: 羅知 (ID: yWjGmkI2)
∮
俺の名前は馬場満月。
自分で言うのもなんだが、どこにでもいる普通の男子高校生だ。
人並みに恋したり、誰かと友情を育んだり、そういうのに憧れることもあるけれど、タイミングが悪いのか────巷でいう"青春"みたいなものを味わえたことはない。
劇的なことは何もない、平凡な人生。まぁ人生なんて実際はこんなものだ。物語の中みたいな突飛なことなんて、なかなか起こらない。
でも、きっとそんな人生を人は幸せだなんてそんな風に言うのだろう。
∮
目が覚めると、病院のような場所のベッドで俺は寝かされていた。いつの間に着替えさせられたのか入院服のような服を着ている。一体何故、何がどうなってこうなったのか。事態の把握をしようと大きく体を動かすと、腹の辺りがずきりと傷んだ。
「何だよ、これ……」
服をめくって傷んだ部分を確認すると、包帯やらガーゼやらで厳重に傷の処置がされていた。他にも何かあるかもしれない。そう思って、体を大きく動かさないようにしながら自身の体をぺたぺたと触ってチェックすると、腕の辺りに切り裂かれたような傷が多数、太腿の辺りに大小様々な刺されたような傷が多数あった。それ以外は特に大きな傷は見当たらない。体は多少怠いが、見た目の割にあまり酷い傷ではないようで、少し痛む以外はあまり症状といった症状はない。
(俺に、何があった?)
こんな傷、負った記憶はない。それにこんな所に来させられる理由も分からない。見た目の様子から、きっとここは病院なのだろう。それは分かる。ただ、今自分が病院にいる理由。それが、全くもって見当がつかない。
俺は普通の、ごくありふれた日常を送っていた。
それがどうしてこんなことに?こんな傷を?理由を求めて記憶を探るが、正解の記憶を見つけることは俺にはどうしても出来なかった。
∮
「あぁ、目覚めたようですね」
暫くすると白衣を着た若い男性が、部屋に入ってくる。そうして驚いている俺を見て、にこりと優しく笑った。
「どうも。貴方の"担当"の荒樹土照と申します」
彼の名前は荒樹土照と言い、俺の担当医だそうだ。彼によれば、どうやら俺は事故にあって、そのショックで意識を失っていたらしい。ただ傷自体はあまり酷いものではなく、数日の入院で退院出来るだろうと言われた。常々俺は人並みの人間だと思っていたけれど、運だけは人並み以上にあったようだ。
入院している間は、やることもないので適当な時間を過ごした。お見舞いに来てくれるほど親しい人も俺にはいない。幸い歩けないような怪我をしている訳ではなかったので病院内の散策などをしたりして、それなりに楽しい時間を過ごした。
入院三日目の朝、俺がいつものように病院散策に行こうとすると病室の扉を叩く音が響く。誰だろうと思いながら、病室の扉を開くと、そこには見覚えのない綺麗な女性が立っていた。
「ふふ、どうも」
女の人は、そう言って俺に軽く会釈した。ちょっとした動き全てがなんというか──妖艶だ。大人の女性ってきっとこういう人のことを言うのだろう。ずっと見ていたくなるような、そんな魅力のある人だ。でも見つめすぎて、こんなに綺麗な人に変な人だと思われるのも恥ずかしい。見ていたい。でも、見てられない。そんな相反した感情に苛まれて俺は上を見たり下を見たりときょろきょろと挙動不審に視線を動かしてしまう。呆れられても仕方のないような狼狽っぷりだと自分でも思うのだが、彼女はそんな俺を見て「慌てなくても良いですよ」とくすくすと微笑んだ。
「突然訪問してしまって、申し訳ありません。お加減は宜しいですか?」
「あ、あぁ……ところで、あの……」
「何でしょう?」
「貴女は誰なんだ?」
俺のそう言った瞬間、彼女はぷっ、と吹き出して、大爆笑した。上品そうな人なのに腹を抱えて破顔してしまうくらいに笑っている。俺は何かおかしなことでも言ったのだろうか。
「ふふっ、ははっ!!……んふ……あぁ、すみませんね……貴方のことを笑っているのではないのです。こっちの事情で……お気を悪くされましたか?」
「……い、いや。それで、貴女は……」
俺が改めてそう尋ねると、彼女はこほんと咳払いをして、入ってきた時の落ち着いた様子に戻る。そして真面目な顔をして、こう答えた。
「名乗るほどの者ではないのです。ワタクシはあくまで"代理"ですので」
「代理……?」
「えぇ。本来は貴方のお見舞いには別の方が来られる予定でした。ただ、ある事情で来られなくなってしまったので、ワタクシが来た、という訳です」
「そうなのか……それで一体誰の代理なんだ?」
「ふふ!それは秘密です。彼は匿名を希望しているようなので……案外恥ずかしがり屋なんですよ、彼」
お見舞いに来たのに名乗りたくないなんておかしな話だ。そうは思ったけれど、もしかしたら俺が知らないだけで今時のお見舞いというのはこういうものなのかもしれない。
彼、というからには本来来る予定だった人というのは男性なのだろう。男性、恥ずかしがり屋……誰だろう。分からない。そもそもお見舞いに来てくれそうな人がいない。
そんなことを考えていると、また彼女はにこりと笑った。今度は彼女の雰囲気にあった上品な笑みだった。
「とっても、心配してました。彼、貴方のことを」
「そ、そうか……誰だかは分からないが、心配ありがとうと伝えておいてくれ」
「えぇ、しっかりと。……長居も失礼ですのでワタクシは帰ります。また機会があったらお会いしましょう」
初めに部屋に入ってきた時と同じように会釈をして、彼女は部屋から出ていった。部屋には彼女の付けていた香水の匂いなのかなんとも言えない独特な香りが残っている。綺麗な人だった。本当に。また会いたいと思った。そしてまたきっと会えるだろうと何故かどこかで予感していた。
∮
「ただ今帰りました、"マスター"」
任されていたお使いを終えて、ワタクシは満足した気分でマスターの待つ家に戻りました。返事はありません。いつものことなので、ワタクシは特に気にすることなくそのまま奥の部屋に入っていきました。返事がない時、彼はここで"メンテナンス"の作業をしています。そしてワタクシの予想通り彼は奥の部屋で"メンテナンス"をしておりました。今は"両足"の調整をしているのでしょう。彼は自身の精巧に出来た義足を片腕で抱えながら、もう片方の手で調整作業をしていました。
義足は大変リアルな造りをしているので、端から見たらこのメンテナンス風景は卒倒モノのような光景だったでしょう。
「……あ?帰ってンなら、ただいまくらい言えよ、テル」
「お言葉ですが、マスター。ワタクシは"ただいま"と申したのですが」
「オレ様が聞こえなきゃ言ってねェのと同じなンだよ。ちゃんとはっきり言えや」
「…………」
マスターの横暴はいつものことなので、ワタクシはノーコメントでスルーすることにいたしました。彼の横暴は彼にとっての親しみの挨拶なのです。彼と長年の間付き合っている人々はそのことをしっかりと理解しております。そしてそのことは勿論ワタクシも理解しています。
「で?……"そっちのガワ"で、あのガキンチョに会いに行った反応はどうだった?」
「思春期の少年らしい初な反応をされましたね。大変可愛らしい様子でした」
「ま、そーだろうな。……今のアイツは正真正銘普通の男子高校生だし、お前の今"着てる"ガワはオレ様が魅力的に作ってやったワケだし。普通の男ならベタ惚れだろーよ」
自慢するようなニュアンスでもなく当たり前のように、彼は彼の作った"ワタクシ"をそう評価しました。そして彼の言っていることは事実でした。マスターは大変横暴で傲慢な方ではありますが、自分の能力に対する評価はいつだって的確なのです。
彼の力、彼の作ったワタクシのような"作品"を見て、人は彼のことを"天才"と言います。しかし彼はその言葉を受け入れません。断固として彼はその言葉に反発します。ワタクシは彼がそうする理由を知っています。彼はワタクシのマスターであるし、ワタクシは彼の最高傑作の作品であり家族であるからです。
∮
マスターこと荒樹土光は機械人間で、ワタクシこと荒樹土照はそんな彼に作られた自立型思考傀儡です。
ワタクシは彼に作られた一番初めの作品でした。そして彼の家族でした。
彼が十いくつかの頃、ワタクシは彼に作られました。まだ幼かった彼は今以上に暴力的で横暴で傲慢な人間でした。そして人間という人間を心の底から憎んでいました。誰彼構わず殺してやりたいという願望が彼の平生からは滲んでいました。
彼は生まれて間もない頃、親に売られて、その場所で起こった人災的な事故によって身体のほとんどを失いました。両手両足はなくなり、身体中は焼け爛れて、それが元は人間の形をしていたということが分からない程に彼は壊されました。彼にとって不幸だったのはそんな状態になってしまっても生きてしまっていたことで、幸運だったのはそんな状態から今の彼になるまで彼を支えてくれた人々がいたことです。
現在彼の体を構成しているのは、人工皮膚と機械で出来た義手と義足。人間として"本物"である部分はごくわずかしか残っておりません。偽物の顔。偽物の名前。偽物の体。唯一本当なのは彼の、自分をそんな目に合わした人間に対する憎しみと、彼の類い稀なる才能のみです。
彼はこう言います。自分は"選ばれなかった"のだと。"テンサイ"であり"天才"であるのは選ばれた"彼ら"の方なのだと。その事実がある限り、彼は人から言われる"天才"という名誉の称号を受け入れることは出来ないのです。
普段の彼の横暴や傲慢は元々の性格もあるのでしょうが、そんな彼の自嘲の裏返しなのでしょう。彼は嘘をついて、嘘だらけの自分で、虚勢を張りながらではないと生きていくことが出来ないのです。天の邪鬼で嘘つきな彼はそうして出来上がりました。
そして、そんな彼だからこそ、彼────馬場満月のことが気になってしまうのでしょう。自信がなくて、自身がなくて、嘘つきで、虚勢を張って、偽物の自分を演じ続ける彼を他人事のようには思えないのでしょう。口にこそ出しませんが、きっと腹の底から心配しているのです。今回のお見舞いだってきっと馬場満月を元気づける為だったのでしょうし、そもそもワタクシを彼の専門医として濃尾先生に貸し出したのも彼が心配で、動向を詳しく知りたかったからなのでしょう。意地っ張りで恥ずかしがり屋なので絶対に心配だ、なんてそんなこと本人には絶対言わないのでしょうが。
∮
馬場満月のお見舞いに行ってこい、というお使いを果たしたその日の夜。ワタクシは馬場満月の専門医としてのガワを"着て"おりました。ワタクシにはマスターからいくつかの"ガワ"を与えられております。なにぶん、アンドロイドですので、データさえ移せば、男の体にも女にも若者にも老人にも、マスターが作った"ガワ"の数だけ"ワタクシ"は存在します。とりわけワタクシが好んで"着て"いるのは、専門医としての"ガワ"です。このガワはマスターよりいくつか上の年齢の設定で、作られており、顔立ちもマスターに似せて作られています。このガワで二人で一緒にいると、よく兄弟だと勘違いされるくらいです。ワタクシはその"勘違い"がとても愛しいです。彼と本当の家族になれたような、そんな気がするからです。
「なぁ、テル」
部屋でぼおっとテレビを見ながら、彼はぽつりと呟きました。まるで一人言のような呟きでした。もしかすると癖でワタクシの名前を呼んでしまっただけなのかもしれません。
「偽物の人生なんて、つまらねェよな」
「苦しくたって、辛くたって、本当の人生を歩んだ方が良いに決まってる」
「アイツには仲間がいる。愛してる女がいる。失いたくない親友がいる」
「それを忘れちまって生きるなんて……ありえねェよ」
「オレだって、もし、"アイツら"を忘れて生きていくなんて、そんなの────」
そこまで言って、自分が何を言っているのか気付いたらしく、マスターは慌てた様子で顔を耳まで真っ赤にして、ぐるんとワタクシの方に振り返り、ヤケクソになって叫ぶようにワタクシへ言いました。
「今のナシ!!!忘れろよ!!!」
…………ワタクシはあえて返事をいたしませんでした。