複雑・ファジー小説

Re: 「秘密」〜奔走注意報!となりの生徒会!〜 ( No.23 )
日時: 2016/03/28 22:50
名前: すずの (ID: e.PQsiId)
参照: 第四章

 僕が人生で初めて一目ぼれをしたのは中学の入学式の時だった。
 柔らかな栗色の髪に、触れたら壊れてしまうシャボン玉のように張り詰めた瞳、形の整った顔に申し訳程度にある小さなピンク色の唇。
 きっと心奪われたのは僕だけではないだろう。隣の男子だって、その隣の男子だってみんな彼女を見つめ惚けていた。周りの視線を集めたくなくても集めてしまう、名前も知らない彼女のことを、僕は咄嗟にこれからたくさん苦労するんだろうなあと感じていた。もしかしたら、もう今までにも苦労しているかもしれない。彼女は確かに美人だったが、誰かに支えて貰わなくては立てないような雰囲気を纏っていた。守らなければ壊れてしまうのではないかと思わせてしまうような感じだ。本当に彼女自身、立てないのかどうかわからない。もしかしたら、本当は立てるのに立てない振りをしているだけかもしれないとも思った。
 僕の中で衝撃的な出会いをした彼女との接点は悲しくなるぐらい一切なかった。
 彼女は六組で僕は一組。階も違うから、物凄い美女が一組にいるというぐらいしか耳に入ってこなかったのである。
 しかし、これから徐々に彼女の噂は悪くなっていった。どうやら男をとっかえひっかえし、授業もまともに出ておらず、ほとんど欠席するらしい。みんな、彼女の第一印象がよかっただけに、一気によそよそしくなっていった。二年生に上がるころ、久しぶりに廊下ですれ違った彼女は、入学式の彼女とは別人だった。
 金髪に染められた髪に、濃い化粧、パンツが見えそうな丈のスカート、なるほど、これが俗に言う不良なのか。
 確かに僕は自分の目を疑ったが、なぜか僕が一目ぼれをした彼女に間違いはないと思った。いくら姿かたちが変わっても、彼女が纏う雰囲気は全く変わっていなかったのだ。誰かに支えて貰わなくては立てないような、あの雰囲気だけは。
 ただ廊下ですれ違っただけだが、一度目に似た衝撃は二度目にでも感じてしまったのだ。

 幼稚園の時から好きになるのはずっと女の子だったし、興味があるのも女の子だった。思い出せるのは、「僕は男の子よりも女の子の方が好き」という感情だけで、それを周りに言った記憶はない。もしかしたら言いふらしたのかもしれないけれど、言いふらしたところでそれがどういう意味なのか、あの時の僕達は全くわからなかったと思う。
 小学校四年生の時、男の子と女の子の体の変化のビデオを見た。誰しもが一度は経験しているだろう。
 男の子はこれから声変わりをし、筋肉量が多くなり、射精をするようになる。女の子はこれから丸みを帯びてきて、柔らかくなり、胸も発達し、月経をするようになる、男の子は女の子を好きになるし、女の子は男の子を好きになるとビデオの中にいる女の人の無機質な声がそう言っていた。
 僕が所属する仲良しグループで恋話になったことがある。どうして恋話の流れになったのかは覚えていない。女の子同士の会話なんてそんなものだ。
「涼ちゃんはどうなの?」とリーダー格の子に話を振られるけれど僕は正直、質問の意図がわからなかった。彼女達が一生懸命話題にしているのは、異性のことで同性ではない。それでは、彼女達の恋愛対象は異性なのか? 僕はどうだ? 僕は——異性じゃない。今、輪になって話をしている女の子のなかにいる恵子ちゃんだ。恵子ちゃんは、グループの中でも大人しい子で、あまり前に出て話をするようなタイプではない。おしとやかで、どこか影がある恵子ちゃんのことが気になっていた。恵子ちゃんは、僕に振られた話を興味がないという風に、そっぽを向いている。「ねえどうなの、教えてよ」と懸命に聞きだそうとしているリーダー格の口から出てくるのは全て異性の名前だった。僕は僕の目の前にいる恵子ちゃんだとは、答えられなかった。答えてしまえば、僕はその瞬間、目の前にいる女の子達に白い目で見られるのを、小学四年生までの経験や記憶を総動員して悟ったからだ。
 彼女達と僕にある決定的な溝みたいなものを感じてしまった僕は、何とも言えない表情で曖昧に笑うしかない。ずっとそんなもんだから、段々と仲間はずれにされる格好の餌食となってしまった。
 恵子ちゃんもそのメンバーの一人だった。僕は、告白をしてもいないのにひどい振られ方をした気分だった。

 周りと自分とのギャップに全然心が処理しきれていなかった。
 この世には男の子が女の子を、女の子が男の子を好きになるというのが当り前だと周りはみんな言っていた。その枠に入りきっていない僕は、じゃあこの世のものではないのか、と心底悩んだ。
 僕は家が忙しいから、常に伯父さんのスポーツジムに遊びに行っていた。その関係で、男の人の汗の臭いに慣れ、男の人の半裸は見慣れ、体重が体のどこから落ちていくのか、どこから増えていくのかわかるようになってしまった。もう彼らを異性として見ることはできなかった。女の子のほうがとても魅力的で美しいと思うようになった。だけど、女の子を好きなだけで、自分が男になりたいとは毛ほども思わない。ここが性同一性障害とは違うところ。
 僕が幼少期に育てられたこの環境は、インストラクターの目を養うばかりか、思わぬ副産物を産んでしまったのだ。

 二年生になっても彼女の悪い噂は消えることなく、接点を持つこともなかった。まずクラスが違うから階も違うし、どうやったってお近づきになんかなれない。しかしだからといって、この状況を嘆き、なんとかしようとも思わなかった。普通では考えられない関係を彼女に要求するなんて自殺行為だ。もし神様が天から舞い降りて「あなたの願いを叶えてあげよう」と言ってきても「そんなこと神様でも出来るわけがない」と追い払ってしまうくらい、ありえないと思った。僕のこの想いが知られたあかつきには「きもーい」と一蹴されていじめられるのが関の山だ。
 だから、僕は影ながら彼女のことを想っていた。それでいいと思ったのだ。彼女に僕の想いを知られてしまう方が、嫌だった。
 しかし、それは起こってしまった。いや、起こるべくして起こったのだと、今にはっては思う。全ては必然だったのだ。
 三年生、僕は彼女とようやく一緒のクラスになった。しかし、同じクラスになったのにも関わらず、彼女と会うことはほとんどなかった。彼女の方が無断遅刻や欠席が多く、学校にいること自体が珍しかったからである。
 二学期が始まってすぐだったような気がする。

Re: 「秘密」〜奔走注意報!となりの生徒会!〜 ( No.24 )
日時: 2016/03/28 22:52
名前: すずの (ID: e.PQsiId)
参照: 第四章

 体育の時間だった。少し気分が悪い僕は見学を申し出て一階のトイレに向かった。体育館の一階には、大きなトイレの他、障害者用のトイレ、そして男子共に更衣室があるのと、柔道に使われる畳部屋なんかもある。その女子トイレに入った瞬間、あの独特な臭いを察知し、ゆっくり歩を進ませる。すっぱくてどろっとしているあの臭い……彼女は洋式の便器に顔を突っ伏し——吐いていた。胃液から何から全て吐いていた。
 どうして彼女だとわかったのか、と問われれば個室の扉を開けっ広げにしていたからだ、と答えるだろう。周りには彼女の吐瀉物と思われるそれが床にぽつぽつ散らばっている。もしかしたら吐きながらトイレに入ったのかもしれない。
 当初の用をたすという目的がすっかり吹っ飛んでしまった。考える暇など皆無だった。僕はとりあえず彼女が吐いている個室にゆっくり近づいてみる。
 怖いもの見たさというやつだ。この行為は普通、彼女に対する気持ちが一瞬にして消え去ってしまうかもしれないが、そんなこと僕は考えられなかった。彼女の気持ちが消え去るなんてことはまずありえないし、心の中に一瞬で出来た怪物のような好奇心をなんとか沈めたかったんだと思う。
 どうやら吐き終えたみたいで便器にまだ顔を突っ伏したまま、ぜえぜえと荒い息を繰り返していた。
 僕は彼女を刺激させないように、掃除道具入れのロッカーからぞうきんをとってくると、水でしぼり床を拭き始める。
 今思えばどうして自分がそんな行動に出たのか不思議でたまらない。物凄くタイミングの悪い時に居合わせ、衝撃的な彼女の姿に、気が動転してとりあえず床を拭こうと思ったのかもしれない。正直「想っているだけでいい。僕は行動になんか移さない」という僕の誓いは完璧に消し飛んでしまった。
 荒い呼吸が段々おさまり、周りの状況が判断出来るようになると彼女は、口元にまだ涎が残ったまま、困惑と疑問が入り混じったような瞳でせっせと吐瀉物を拭いている僕をじっと見つめてきた。
 僕が何者なのかきっと自分の記憶から掘り下げようとしているのだろうが、残念、彼女の中に僕の記憶なんてないのは僕が一番よく知っている。だって、記憶させた覚えなんてないから。
 床に散らばっている全ての吐瀉物を拭き終えると僕は彼女がさっき吐いたばかりの個室に入って行く。便器の中で水に浮いている吐瀉物に目を当てないよう、代わりに洋式のレバーを引いて流してやる。
「あんた、誰」
 これが、僕と彼女が初めて言葉を交わした瞬間だった。彼女の声は、もう蠟(ろう)がつきる寸前のろうそくのように頼りなく、か細い声だった。
 ずっと見ているだけだった彼女が今、僕の目の前で喋っている。僕は息を呑んだ。
「瀬戸さんは僕のこと、知らないと思う」
 必死に冷静を装いながら、声が震えないように気を付ける。
「なんであたしの名前、知ってるの?」
 心臓の心拍数が大きく跳ね上がる。
 ここでずっとあなたのことを見ていましたと告白できる勇気があれば、どれほど苦労しなかっただろう。
 何の躊躇いもなくじっと見つめてくる瞳に耐えかねて、僕は視線をそらす。
「有名だしね、瀬戸さん」
「悪い意味で、でしょ? わかってるわよ、そんなこと」
 瀬戸さんは唇の端だけで笑った。
 彼女がどうして下呂をしているのか、もうそんなことはどうでもよかった。
 問題は、目の前で彼女が僕の目を見つめ、僕と話をしていることだった。例えこの下呂の原因が人には言えないとしても、それでも僕は彼女と喋れるというだけで、嬉しく思ってしまったのだ。それくらい彼女と話したかった。この時間で、このタイミングで授業から抜けていないとだめだったのだ。
「まだ吐く?」
 個室の壁にだらしなく体を預けている瀬戸美桜を、見下ろし問うた。初めて視線と視線が交り合った瞬間だった。だけど、その名の通りそれは一瞬の出来事ですぐに彼女は視線をそらし、すくっと立ち上がってしまった。
「もう吐かない」
 僕を押しのけるようにして個室から出ようとする。彼女の金髪が僕の肩よりも上でなびいていた。
 彼女は僕がどう声を掛けようか、迷っている間に何回も口をゆすいだ。しかし、僕の視界から彼女の体が消えるのと、彼女がトイレから出て行くのはほぼ同時だった。
 片膝をつき、今度は扉付近でお腹を押さえうずくまる。
も う四の五の言っている場合ではなかった、僕は急いで彼女の元に駆け寄り、背中をさする。そして、背中をさすっている間、僕は咄嗟の出来ごとであっても彼女の体に躊躇なく触れていることに、驚いていた。そしてもう一つ、驚いてしまったことがある。
 彼女の背中を撫でようと、彼女と同じように屈んだ時だった。確かに見えた。制服の襟の隙間から、背中に大きな一本傷が。こんなところを自分自身で傷つけることは出来ない。ということは、誰かに乱暴されているのか——そこまで考えたところで、「水、水」と訴えかけていることに気付いた。
 僕ははっとしてこの恐ろしい考えを振り払い、靴もそのまま体育館の入り口から外へ出ると、右にある給水機で備え付けの紙コップに水を入れた。
 零さないように速足でまた戻ると、彼女の姿はなかった。一体、どこへ行ったのか、まさかあの状態のままどこかへ行ったのか、と頭の中で処理しきれないほどの膨大な思念が次々に飛び交ったが、しかし、その心配は杞憂に終わった。女子更衣室から手招きが見えたのだ。
 トイレの奥にある、誰にも使われていない女子更衣室だった。トイレの前を通り過ぎると、まだ彼女の吐瀉物が残っていた。後で片付けてあげよう。
 僕は、慎重に紙コップをうなだれている彼女に渡すと、彼女は一瞬で飲み干してしまった。
「まだいる?」
 と、思っていたよりもぶっきらぼうに聞くと、
「もういらない」
 案外、しっかりとした口調で彼女は答えた。
 僕はその様子に少しだけほっとした。
 普通、人が吐いているところを見ると自分も吐き気が催されるとか言うけれど、それは本当にその人が大事な人では断じてないと認識しているからに違いないな、と僕は彼女の吐瀉物を始末しながら思う。
 更衣室に戻ると、彼女はうなだれていた体を起こし、体育座りをしていた。手持無沙汰になった僕は彼女の隣へ、静かに、慎重に、腰を下ろした。
 シミ一つない、白い壁に視線を投げる。濃い霧のような沈黙が二人を包みこんでいった。
 何も喋らない彼女を横目に、僕は小さくため息をつく。先ほどの張りつめた緊張感から解放された、安堵のため息だった。
 トイレに行くと断ってから、既に何分が経過しているだろう、先生は怒っていないだろうか、と他のことにも意識が向いた時、
「もういいよ、吐かないから」
 唐突に、霧が破られたかと思うと、彼女のくぐもった声が僕の耳にゆっくりと届いた。しかし、その声と共にまた、嘔吐をする時の、あの特有の声が一緒に聞こえてきた。彼女の意思とは無関係に、体は喋らせまいとしていた。
「二度も吐く人を、放ってはおけないよ」
 真実だった。人として当たり前の選択、無難な選択だと思った。僕が、彼女のことを好きだから、そういう下心が一切なかったとは言い難いけれど、「もう吐かない」と言っておきながらすぐに二度目の嘔吐をするような彼女を僕は放ってはおけなかった。
 また背中をさすってやる。
「もう何も言わなくていいから」
 僕はまたぶっきらぼうな口調で、彼女にそう告げた。本当はもっと優しい声で言ってあげたいけれど、この状況でそんな器用なことが出来る程、出来た人間ではなかった。
「……いわないの」
 ぜえぜえと荒い息の中、彼女の声が聞こえた。
「ん? なんだって?」
 僕は彼女の口元があるであろうところに顔を寄せていく。まるで心臓の音を聞き洩らさないよう、神経を研ぎ澄ます医者のような気分だった。
「……先生に言わないの? 私がここにいるって」
 なんだそんなことか、と少し拍子抜けしてしまった。彼女が荒い息の中で聞きたいことはそんなことなのか。愚問だ。例え想っている彼女ではなくても、こんなことになっていたら言わないと思う。保健室に行かないということはそれなりに理由があるだろうし、他人が嫌がるようなことをしてはいけないと学校で習ったことがある。体調不良の人を無理に動かすこともない。余計、面倒になるだけだ。先生というものは、事を大きくすることにだけ関しては専売特許みたいなものだから。
「言わない」
 今度は少しゆっくりと言葉を発音してみた。ぶっきらぼうな口調が少しは改善されたはずだった。

Re: 「秘密」〜奔走注意報!となりの生徒会!〜 ( No.25 )
日時: 2016/03/29 20:58
名前: すずの (ID: e.PQsiId)

「一番知らされたくない相手は、きっと先生だろうし、そんなこと率先してやらないよ」
 彼女の息が段々と静かになっていく。
 確かに、学年一のヤンキー中学生、瀬戸美桜が体育の授業も受けずに、ましてやこの健康状態で、先生に何も言わないのはきっと常人から考えれば間違っているのかもしれない。しかし、僕にとっては、大切な時間なのだ。例え彼女が僕に対して「親切な人」としか思っていなかったとしても。
 彼女は僅か数分前の質問を再度繰り返した。
「あんた、誰」
 数分前と違うところと言えば、彼女がしっかりとした口調で僕の目を見つめて言っていたことだった。本当はもっと聞きたいことがあるけど、この状態じゃ多く喋るのはままならないから最重要事項だけを聞いたという感じが、彼女の表情で見てとれた。
 僕はゆっくりと息を吐くと、これ以上はないという程に忌み嫌う自分の名前を告げた。
「——橘涼」
 この名前を聞いた最初の人の、次の言葉はもうわかっている。これは僕が実際に経験した経験則から基づくものであり、外れたことはない。きっと彼女はこう言う——男子みたいな名前ね。僕の周りの人は、十人中十人はそう言う。だから彼女もそう言うんだろうと、思っていた——。
「ふうん。なんだか噛みそうな名前」
 自然と目が大きく見開くのがわかった。
「——何を驚いてんの」
 違った。
「ねえ」
 彼女だけは違った。
「ねえ、聞いてんの?」
 彼女だけは——。
「何をそんなに驚いてんの?」
「……初めてなんだよ。『男子みたいな名前』って最初に言わない人は」
 彼女はさっきの僕と同じような、なんだそんなことか、と言いたげな表情で僕をまた見つめ返してきた。
「何を言ってんの。そこらへんと一緒にしないでよね」
 彼女の頬が、少し弛んだ気がした。僕は、その時の彼女の表情、今でも覚えている。

 それから僕達は、週一でトイレのとなりにある女子更衣室でさぼるようになった。普通、体育は二クラス同時に展開されるから、教室を男女交換して着替えている。ここの女子更衣室を使うことはほぼなかったのだ。そして秘密の雑談が始まる。秘密の雑談と言っても、大抵は彼女が保健室に行きたくない程の傷をつけた時や、また体調が悪くなった時にここに来るといった、偶然的なものだった。僕もそれでいいと思っていた。こんな曖昧な関係しか保てないと思っていたし、もうここから僕と彼女が親密になるということはないだろうとも思っていた。僕が一方的な片想いだけで、彼女が近寄ってくるということはないはずだ。こんなにも世界が違う僕と彼女を、たった一度の偶然が引き合わせてくれただけでも有難いことなのだ。
 非行少女と言われるだけあって、大抵の悪は全てあらかたやってしまっていた後だった。お酒、たばこ、不純異性交遊……両手では数えきれないほどの、事件を、まるで昨日の晩御飯の献立を言うみたいに喋ってくれた。僕にとってそれは壮絶な過去と言わざるを得ないのだが、彼女にとってしまえば常人とあまり変わらないのかもしれない。
 それから、彼女は自分の生い立ちについての話を聞かせてくれたこともあった。
 彼女は、大きな不動産屋の社長の娘として、厳しい教育を幼少のころから受けていた。彼女は姿形がよく、頭の回転もはやかったため、叔母や叔父、祖母や母や父といった家族にこれでもか、と愛されて——つまりはわがまま放題に育ってしまった。
 人は自分が頑張らなくても寄ってくるし、何不自由ない生活をしていた。世界は自分中心に回っていると本気で思っていたらしい。彼女はこの時、純真無垢な幼い少女だったのだ。いつしかその幸福な日々が崩れ去り、厳しい現実が現れ、牙をくことも知らずに。
 彼女に集まってくるのは、何も母や父に選ばれた由緒正しき家柄のお友達ばかりではない、悪い奴らもいるのだ。それを何もしらない彼女は、小学校五年生にして、その悪い奴らにそそのかされて、たばことお酒を口にしてしまった。その瞬間、親戚中から、おじやおば、祖母まで彼女のことをまるで化け物のような目つきで見るようになったのである。
 その瞬間、彼女はショックというか、衝撃を受けたらしい。
 今まで優しくしていた友や家族や親戚までもが、掌を返すように態度が変わり孤独感を覚えた。人生初めての孤独感だったという。

「星回りなのよ」
彼女の口から聞き慣れない言葉が飛び出した。
「星回り?」
「そう、星回り。もうどこにも逃げられない運命なのよ。私がこうなることは全て仕組まれていたの」
彼女は、まるで怒る風もなく淡々と事実だけを述べていくように、淡々と口から言葉を発した。
「私がどうしてこんなことをするのかって思うでしょう? 不毛だとも思うし、何度もやめたいって思った。今度こそ、もう好きじゃない人とセックスをするのはやめようとか、お酒はやめようとか。でももうどうにもならないの。どうにもならないから、どうすることも出来ないのよ。私はね、あの時からなんだかおかしくなったのよ」
「あの時って……たばことお酒?」
「……ううん、もしかしたら私が生まれた瞬間にもう仕組まれていたのかもしれない」
 僕は、彼女の背中に刻まれている一本傷を思い出した。
 こんな突飛な話を、きっと誰しもが笑い飛ばすだろう。そんなことはあり得ない、と。どこにも逃げられない運命をもし信じてしまえば、それは自身で決定してきた全てを否定していることになる。星回りという言葉で、人生の決定を放棄しているのと同義なのだ。しかし、僕は頭ごなしにこんなことを言うつもりは毛ほどもなかった。
 彼女の「星回り」という言葉を聞いた瞬間、何かが腹の中ですとんと落ちたような気がした。腑に落ちたと言った感じだった。何故、今まで気がつかなかったのだろう。自身の選択とは全く関係のない所で、どこにも逃げられない、自然とそうなっていた、いや、そうなってしまっていた——星回り。僕は彼女の瞳に自信を投影させた。きっと、僕の瞳にも彼女が映っているのだろうと思った。
「僕も星回りなのかもしれない……」
「え?」
 彼女がなんて言ったの? と再度問いかける。しかし、その問いかけに僕が答えることはなかった。
 僕の運命が、星回りが、忌み嫌い、憎み、妬むものだったとしても、彼女に出会えたからそれでいいのかもしれない。
 僕は、ただ彼女の問いに笑みを返した。
 彼女は何かを感じ取ったのか、何も言わず、同じようにまた笑みを返してくれた。

 彼女は本当に、誰かに守って貰わなければ立てないような、そんな弱さを常に抱えていた。
 そんな彼女を、僕が守りたいと思ったことだって一度や二度ではない。そうすることが出来れば、とも。きっと今の彼女に必要なことは、守ってくれる「誰か」なのだ。しかし、心の奥底でそうは思っているものの、行動に移すことは絶対に出来なかった。彼女は僕の心の中にあるどろどろとした執着心と嫉妬心が内在しているなんて——僕が友達以上の感情を抱いていることなんて——これっぽっちも考えはしないだろう。当り前だ、表の方に出すまい、出すまいとずっと気張ってきた努力の甲斐がある。僕は彼女と数十分だけでも笑っていられればそれでよかったのだ。
 しかし、彼女に対する想いは日に日に強くなり、僕自身もう抑えきれなくなっていた。爆発寸前だった。四六時中彼女のことを考えてしまう。中途半端に関係を保ち続けているから、尚更独占欲が湧く。もっと、もっと欲しくなってしまう。だが結局は毎回、同じ所に帰結する。
 僕のこの気持ちを受け止めてくれる訳なんかない。
 彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ度に、今にも押しつぶされそうになっていた。

 体育大会の練習が佳境に入る頃、三年生はこれで中学校生活最後ということもあって、本番間近の熱気は高まっていた。
 しかし僕達は周りがどうだろうと相変わらず、いつのもように体育の時間をさぼるために嘘をついた。仮病の嘘ももうそろそろ底をついてきた。どうしようかと思いながらまたトイレの隣にある更衣室に向かう。僕は普段真面目に授業を受けているから、ただ体育が苦手としか見られていなかった。まさか、この学年一の不良とさぼっているだなんて、夢にも思わないだろう。

Re: 「秘密」〜奔走注意報!となりの生徒会!〜 ( No.26 )
日時: 2016/03/29 21:00
名前: すずの (ID: e.PQsiId)

 しかし、全く予想だにしなかった出来ごとが、僕を待ちうけていた。
 嬌声や肌と肌がぶつかる音、服がこすれる音で、例えどんなものかあまりよくわからなくても、見たことがなくても、あれは目の前をぱっと通りかかっただけなのにわかってしまったのだ。そして、その声の主が、瀬戸美桜だということもわかってしまったのだ。
 扉の奥から聞えてくるのは嬌声というよりうめき声に近かった。
 僕は一瞬で彼女が乱暴な扱いを受けていると悟った。嫌でも想像してしまう。裸で組み敷かれた彼女、それに圧し掛かる男子生徒。そうとも限らない。もしかしたら、教師かもしれない。ただわかっていることは、幼い彼女に乱暴する下衆野郎が中にいるということだけ。
 手と脇にじわじわと汗が噴き出すのを感じる。
 誰だ、そんなことをやっているのは。僕達の秘密の雑談タイムを邪魔するのは一体誰だ。よりにもよって今——僕の目の前で。
 瞬間、僕は頭で考えるよりも先に行動していた。
 いきなり扉を開け放ち、ずんずんと奥に進む。
 びっくりして行為をやめた名前もしらない男子生徒が、勢いよく振り向き、目を見開く。
「先生、呼ぶよ?」
 自分が予想していた声とは全く違う声が聞こえた。ひどく冷たさを含んだ声だった。我に帰った男子生徒は、挿れる寸前だったそれを抜き出しパンツと制服を中途半端に着て、こそこそと出て行った。
 彼は、きっと明日にでも消されるのではないかという不安が波のように押し寄せてくるかもしれないが、そんなことはしない。こちらまでめんどくさいことになるし、まず体育の時間にさぼっている事実から話し始めなければいけない。
 別にその時の男子の顔なんて今はさっぱり覚えていない。覚えるに値しないからだ。それよりも僕は、その後に見た彼女の姿のほうが鮮明に覚えている。
 彼女は、汗で金髪の前髪が額に張り付き、だらしなく口と足を広げ、はあはあと荒い呼吸を繰り返していた。そして、周りにはあの男子生徒が使う予定だったゴムがこれみよがしに投げ捨てられている。もしかしたら使う予定なんかなかったかもしれない。とりあえず、踵を返し、扉をしめ、ゆっくり彼女に近づき、そっと顔色を窺うように、覗きこんだ。
 僕は既に彼女の下呂を見ている。正直、これしきのことでは驚かなくなっていた。出ている体液がどこからのものなのか、その違いだけだ。だから冷静に今の状況を分析することが出来る。
 彼女は、焦点のあっていない目で僕を見ると、この状況を恥ずかしがる様子もなく、隠そうとする様子もなく、まるで僕がそこらへんに転がっている石ころのように認識し、何も反応しなかった。
 笑うでもなく、睨むでもなく、ただ呼吸を繰り返している。
彼女の体は物凄くスタイルが良いという訳ではなかった。体は少し小さいし、胸もある方ではない、おしりだってそんなに出ていない。だけど、彼女は、内面から溢れ出る、守って欲しいと必死に訴えかけるか弱さや不安定さが、そのまま形容されたかのように、一つ一つのパーツが、完璧ではなかった。未完成だったのだ。きっと一度でも彼女に触れてしまえば、その手触りに病みつきになるだろう。庇護欲を掻きたてられるのだ。今ここで、とても弱っている彼女を強く、強く抱きしめて、その首筋に痕をつけることは容易だ。
 だけど、僕がそうしなかったのは——さっき更衣室から出ていった男子生徒のすることと変わりがないからだ。僕は、肉欲の塊でしかない男共になり下がりたくはなかった。僕の中にあるまだまともな精神が必死に繋ぎとめてくれている。
何も言わない、まだ落ちついていない彼女に代わって服を集めてくる。
「風邪ひくよ。裸で寝転がっていたら」
 下着も制服もすべてどさっと置いてやる。
 僕の言葉を無視して、顔を反対側に向く。白い眩しいうなじ。綺麗な後れ毛。しかし、その隙間から見える大きな一本傷。その一本傷が、まるで耳まで裂けた怪物の口のように見えた。嘲笑っている。こちらを見て嘲笑っている。星回り——僕は彼女の言葉を思い出した。
 これがお前達のいう星回りだ。お前達はこれに一生を縛られ、生きていかなくてはならないのだ。それに対抗しうる力も、守る力も何も持っていない。お前達がそれを望んだからだ。考えることを放棄し、変えようとする努力もしなかった。それでいいんだろう? 自分の力ではどうしようもない、星回りに全てを委ねるんだろう? 
 彼女はまた仰向けになり、腕で顔を覆うと、涙声で呟いた。
「あいつ、むしゃくしゃしてるからってたまに乱暴にすることがあるの。まさか——学校でされるなんて思ってもみなかったわ」
 鼻をすする音が聞こえた。唇を強く噛みしめ、泣くまいとしている彼女を見つめる。
「馬鹿だよね。あなたには吐くところも見せちゃったし、こんなところも見せちゃったし。更衣室で会うのはもうなしね。私がどういう人か、これでもうわかったでしょ? いや、もう既にわかってた?」
 声が震えている。また唇を噛みしめている。
 彼女はこのままだと、きっと何回だってこういう目に遭ってしまうんだろう。きっとあの一本傷も、乱暴されて出来た傷なのだろう。彼女の体に、烙印のように押されていくのだろう。そして、僕が来ていなかったらどうなっていたかわからない。そう何回も丁度いいタイミングに何回も現れることなんて出来ないのだから、今度は、本当に何をされるかわからない。
 僕の唇が勝手に動いて言葉を発していた。
「ねえ」
 僕の声とは思えない、ひどく低い声が更衣室内に響いた。
「これが本当に星回りだって、言うの?」
 顔の表情はわからないけれど、彼女の体が強張ったのがわかった。
瞬間、うううとうめき声が聞こえた。「ううう」とか「おおお」と小さい声が聞こえる。僕はすぐにはわからなかった。この声の正体が何なのか。
 ——泣いているのだ。これは彼女の泣き声だ。あまり美しくなく、醜い泣き声だと思った。そして段々、声が大きくなり激しい慟哭に変わっていった。
 耳を塞いでも頭にガンガン鳴り響くような、悲痛な叫び声が更衣室に響き渡り、腕の間から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。
 時々、彼女の嗚咽に合わせてしなやかな肢体が小刻みに震える。
こんなにも哀れで悲しい彼女を、ただ僕が女だからという理由で、守れないのか、力になってあげられないのか——そう思うと、気がつけば、僕は彼女の手首を掴み、抱き起こすと、彼女の綺麗な卵型の顔を両手で挟み、荒々しく口づけをしていた。
 彼女が絡んでくると、自分で立てた誓いなんて簡単に消し飛んでしまう。今回も同じだ。
 だけどもう我慢なんて出来なかった。
 口づけをしながらも、幾度となく流れる涙は止まる気配を知らない。
 赤く蒸気する頬に、唇から洩れる熱い艶のある吐息、それとは対象的に小刻みに震える冷たい小さな肩。全てが僕を煽っていた。もうこのまま溶けてしまうのではないかと思うくらい、強く、強く抱きしめる。
「こんなのってないよ、おかしいよ……もう終わりにしよう。僕が終わらせるよ。僕がちゃんと守る。瀬戸さんのこと、ちゃんと守るから。だから、もう泣かないでよ」
 息が苦しいのか、掌で僕の胸を叩き、逃れようともがいている。慌てて力を緩めてやると、彼女は眉間にしわを寄せ、乱れた息を整えようと胸に手を当てた。僕の腕の中にいる彼女を、今度は優しく抱きしめた。時々、しゃっくりが口から飛び出す。涙で頬にへばりついている髪の毛を、優しくとっていく。俯きがちに伏せられた瞳から、まだ涙が溢れていた。
「僕に求めたらいい。全部、受け止めるから。だからもう泣かないで」
 自分でも驚くくらい穏やかな声で形のいい耳に囁くと、彼女は僕の首にかぶりつくように、またわんわん泣いた。
 泣かないでよ、と、大丈夫しか言えない自分に腹が立つ。このまま泣きやまないんじゃないかと心配するほど、疲れ果てるまで僕の腕の中で泣き続けた。
 
 彼女の泣き声が段々小さくなり、更衣室に久しぶりの静寂が訪れる。
 僕の腕の中で、呼吸を整える彼女の頭を優しく撫でる。
 さっきまで泣きじゃくる彼女をなだめるのに必死だったけれど、今は幾分か冷静に判断出来るようになっていた。
 彼女にばれないようにため息をつく。
 さっき僕はなんて言ったんだ。肉欲のまま、本能で動く男共を軽蔑したんじゃないのか。さっき僕は……彼女に何をしたんだ。
 彼女はまるで小動物のように体を震わせ、くっついてくる。
その時、僕は初めてまだ彼女が靴下だけ履いていて、素っ裸のままだということを知った。
 僕は思わず苦笑して、衣服の塊に手を伸ばし、引き寄せ、とりあえずブラウスを肩にかけてやる。
 あれほど恋い焦がれた彼女が今、僕の腕の中にいるというのに。
さっきこそこそと出ていったあの男子生徒と、同じにしか見えない。
「抱きしめてくれないの?」
 動きが止まった。うさぎのように目を赤くさせた彼女が中途半端に止まった僕の腕を不思議そうに見つめ、鼻声で問う。
「もっと強く抱きしめてよ。さっきみたいに」
 彼女の吐息混じりの鼻声が、僕の耳に囁かれる。
 言う通りに強く抱きしめると安心したように小さく息が漏れた。
「……痛くない?」
「ううん、全然痛くない。むしろ温かい」
 久しく聞いていない言葉だった。
「温かい?」
「うん、温かい」
 そうか、僕の腕の中は——温かいのか。
 少しの間、更衣室に沈黙が流れる。

Re: 「秘密」〜奔走注意報!となりの生徒会!〜 ( No.27 )
日時: 2016/04/01 12:35
名前: すずの (ID: e.PQsiId)

少しの間、更衣室に沈黙が流れる。
「……あなたが男でも女でもどっちでもいいからさ」
すうと息を吸う音が聞こえた。
「あたし、あなたのこと好きよ」
 僕の肩に顔を沈め、声がくぐもっていたけど、確かに聞こえた。僕がこの世で一番聞きたかった台詞……彼女の口から一番聞きたかった台詞。確かに、僕の耳の鼓膜が揺れて、脳に伝わり、理解出来た。
僕は小さくくるまっている彼女を、強く強く抱きしめ、大きく息を吸い込む。
「この状況でこんなこと言うのもおかしいけどさ」
 声が震える。口がぱくぱく動くだけで次の言葉が上手く出てこない。
「僕と付き合って欲しい」
 彼女の目が一瞬見開く。だが、すぐにいつもの眼差しに戻り、口元が緩んだ。
「あたしも同じ事思っていた」
 彼女の目は僕しか映っていなかった。瞳の中の僕とも目が合う。もう意識はしっかりとしているようだった。息も整い、一定のリズムで胸が上下している。
 入学して以来、初めて彼女に穴があくほど見つめられた。彼女に見つめられるなんて、やっぱりそれだけでも心臓が止まってしまいそうだった。
「あなたとなら起き上がれるような気がするの」
 彼女は僕が見たこともないような朗らな笑みを浮かべていた。
 あの時、この笑顔を独占出来るのはずっと僕だけだと思っていた。
 僕しか、ありえないと思っていたのに。