複雑・ファジー小説

Re: 【吸血鬼】Into the DARK‐グリース戦記‐ ( No.3 )
日時: 2016/03/10 18:20
名前: ヒュー ◆.GfDNITtF2 (ID: m.v883sb)

序章 -sunset-
 †第一話 暗雲の街†

 黒く禍々しい雲が、午後の太陽を隠した。
 人々は皆、その薄気味悪い光景に眉をひそめる。まるでこの街の現状を表すかのような雲だと、ハルは思った。絶望と失望の色。

「雨、降らなきゃいいんだけどな」

 ひとりごちたハルは、抱えた荷物を一旦足下へ置く。重い荷物に悲鳴をあげる腕を宥める様に、大きく伸びをした。

 よし、と気合いを入れて荷物を再び持ち上げる。中身は義兄とハル、男二人分の一週間の食料だ。腕が疲れるのも無理はないが、この仕事はハルがやらなければいけない。

 歩き出したハルの耳に、甲高い声が届いた。

「あら、裏切り者の弟よ」
「本当だわ、見て、東の悪魔も私たちと同じものを食べるのね」
「ちょっと声が大きいんじゃなあい?聞こえてしまうわよ」
「そうよ、もっと声を潜めて。私たち鬼に売られてしまうかもしれないわ」

 嗚呼怖い怖い、というわざとらしい言葉に続き、下品な笑い声が響いた。聞こえてるぞ、という言葉が喉まで出かかったが、ハルは静かにその言葉を飲み込んだ。
 裏切り者、東から来た悪魔、鬼に魂を売った男、人間の敵……。それらは全て、ハルの義兄、ミカヅキに向けられたものだ。
 甲高い笑い声から逃げる様に、ハルは早足で帰路を辿る。
 しばらく歩くと、民家はまばらになっていく。かつて作物が植わっていたのであろう空き地には、蔦を絡ませるための棒きれだけが虚しく取り残されていた。

 ハルと義兄ミカヅキの家は、街の中心から少し離れた場所にある。おかげで利便性は悪いのだが、毎日の様に嫌がらせを受けるのは御免だ。週に一度のハルの労働も、穏やかな生活を送るために必要な事なのだと、自分に言い聞かせる。

 自宅の前でハルを迎えたのは、兄ではなく野良猫だった。みゃあみゃあと甘えた声を出し、ハルに餌をねだる。ハルが魚屋から貰ってきた魚の骨を取り出すと、早くよこせとばかりに前足をハルの足でひっかく。

「待て、痛っ、こら。待て。待て!」

 野良猫はハルの言葉などお構いなしに、強引にハルから骨を奪った。そのまま何処かへ走り去った野良猫を見送り、ハルは家の扉を開ける。金は基本的にハルが持ち歩いているため、鍵はかけていない。その前に、この家は空き家を勝手にハル達が乗っ取ったものなので、鍵は最初から持っていないのだが。
 家の中は、荒廃した街とは裏腹に清潔に保たれている。
 ハルは大きな紙袋の中から食料を取り出し、台所の隠し棚へしまう。この隠し棚はミカヅキが後からつけたもので、強く押すと壁の一部だけが可動するようになっている。なかなかの優れもので、ここは今までに数回あった空き巣狙いの被害を免れていた。
 この他にも、ミカヅキはあらゆる場所に隠し棚や隠し部屋を造っている。ハルが小さい頃は、よく隠し部屋で遊んだものだ。
 食料をすべてしまい終えると、ハルは大きな鍋の蓋を開けた。昨日作ったシチューが、こびりつくようにして残っている。

「魚、魚……っと」

 ハルは再び隠し棚を開け、干した魚を取り出した。この国は海に面していて魚介類は豊富なのだが、この街に吸血鬼が出現してからというもの、市場に並ぶのは僅かな乾物と数種の野菜だけになってしまった。とは言うものの、ハルが物心ついた時には吸血鬼の存在は国中で知られていたし、この街も既に寂れていたので、あの市場の本来の姿を見たことはない。
 干し魚の焼ける良い香りが狭い家に漂ってきたとき、古い木製の扉が静かに開いた。

「ただいま、ハル」
「お帰り、兄さん」

 ハルの唯一の家族、義兄のミカヅキは、いたわる様にそっと年季の入った扉を閉めた。
 女のような顔をした、華奢な青年だ。目鼻立ちから、東方の血を引いていることが分かる。歳はハルより10歳上だが、儚げな雰囲気のせいか、小さな少女のようにも老いて疲れ果てた男のようにも見えた。

「晩御飯、できてるから」

 ハルが言うと、ミカヅキは元々細い目をさらに細めて静かに微笑んだ。

「ああ。ありがとうね」

 室内用のサンダルに履き替えたミカヅキは、倒れ込むようにして小さな椅子に腰を下ろした。小さな窓から差し込む夕日に照らされた肌が、青白く光る。その生気の薄い肌色が、ぞっとするような美しさを引き立てていた。

「……今日も、抜かれたの?」

 ハルは目を伏せた。ミカヅキは答えないまま、テーブルにぎっしりと中身の詰まった袋を置いた。中身は大量の金貨だと、ハルは知っている。
 汚い、けれど、生きていくためには必要な、金。
 兄が自分の血と引き換えに手に入れているその金で、ハルは生きている。