複雑・ファジー小説

Re: 猫舌の死神 ( No.1 )
日時: 2016/03/27 00:54
名前: Dance (ID: E616B4Au)

◆1「彼について」


 彼が私の前に現れたのは数週間ほど前の話だ。

 何の気まぐれか、町の中でも外れにある私の家に彼は訪ねてきた。

 そして彼は語りだした。彼が経験してきた膨大な物語を。


 ここ数週間で彼から聞いた話に私は混乱してしまっている。

 今まで日記などつけたことはないのだが、私は使命感に任せて今筆を執ることにした。

 此処には私が彼から聞いた数々の物語と、彼の様子、そして私の人生最期の日々の様子を綴っていきたい。


 まずは初めて彼と会ったところから記すべきであろう。

 私は物書きをしており、家は宿を借りている。狭い部屋だが独り身の私にはちょうど良い広さである。管理人のフィトーレはよく私の部屋まで食事を持って上がってくる。

 フィトーレは年の頃七十と言ったところだろうか、綺麗に白くなった髪を後ろで一つにまとめた老婆であった。気難しい人物で最初のうちは会話さえろくに成り立たなかったのだが、部屋に住みついてしばらくすると朝の挨拶ぐらいは交わすようになり、今では食事を、こちらが何も言わずとも持って来てくれるようになった。金を要求されるかと最初は断っていたのだが、その様なこともなく、ただ彼女が私の元にやってきて一緒に食事をしたいのだと悟ると、その食事も私は受け入れた。彼女曰く私の部屋は貸家の中では一番居心地のいい場所らしく、彼女は良く窓辺近くで編み物をしている。

 その日、フィトーレは私の部屋にはいなかった。私の部屋の下にある台所で、私のための食事を作っているところだったのだろう。私は机に向かい、仕事をしていた。物書き、と言っても私は三流の三流であるがため、仕事が大量にあると言う訳ではない。二、三の雑誌に連載している細々とした小説が主な仕事であり、後は不定期な記事を書いていた。今の政治についてどうこう、あの人物についてどうこうと、つらつらと書き連ねる。私は普段から政治に強く関心を持っている訳ではなかったが、このようなことに困ることはないよう努力していた。

 机に向かっていた私は、——そう、ちょうどその不定期の記事を書いていた時だ——ふと、フィトーレに呼びかけられて目線を上げることになった。フィトーレは普段、私の仕事を邪魔しないようにと、私が机に向かっている際に声をかけることは滅多になかった。いや、彼女が私に声をかけることすら珍しいことだ。せいぜい彼女が私を呼びとめるのは、誰かが訪ねてくる場合だけであったが、私を訪ねてくる物珍しい友人を私は持ってはいなかった。

 フィトーレはおずおずとした様子で、「お客様です」、とそう言った。私が誰かと尋ねると、彼女は不思議そうに首をかしげるのだった。「若い方です」、とフィトーレは言い、ドア口から去って行ってしまった。そしてしばらくしてこちらに上がってくる足音が聞え、私を訪ねてきた人物が現れた。

 フィトーレの言うとおり、訪問者は若者であった。彼はその笑顔のまま「此処はテリー・レッドマンさんのお宅でしょうか」、と私に訪ねてきた。私は反射的に頷いた。彼はその笑顔を嬉しげに深めた。

「あぁ、良かった。間違ってはいなかったのですね。人間違いは大変な失礼になりますから」

 私は彼の様子をまじまじと眺めていた。彼は美しい容姿をしていた。子どもの頃、親戚の女の子が持っていた人形によく似ていたのだ。——絵本に出てくるような王子様、または宗教画に描かれる美しい天使のようにも見えた——。絹のような金色の髪に、海を閉じ込めたガラス玉のような目、陶器のようになめらかで白い肌、珊瑚のような艶やかな唇。その大きさ、形も、全て整っている。

 また、彼は身に纏う服、その物腰から慇懃であり、感じのよい青年だった。背は高く、すらりと脚が伸びていた。汚れのない純白の手袋をはめた指が上等な生地で作られたスーツの中をまさぐっている。

「時間もちょうど間に合いましたね……急いで来て正解でした」

 銀色の懐中時計には精密な彫り物がなされ、二頭のユニコーンが仲良く戯れている様子を花々が縁取る素晴らしいものであった。彼の微笑に私は困惑するばかりであった。

「……失礼ですが、人違いではありませんか? ……確かに、私はテリー・レッドマンですが、私は貴方を知りません」

「いえ、テリー・レッドマンさん。僕がお会いしたかった方は貴方で間違いはありませんよ」

 彼は微笑を湛えたまま、そう言いきった。彼の表情に微かな満足感と自信が見てとれた。彼は美しい瞳を私に向けて微笑みかけた。

「ご迷惑を承知の上で申し上げますが、少しの間だけ貴方とお話をさせていただけませんか? お仕事の邪魔にならない程度に……ほんの少しの間だけ」

 私は特に断る理由も見つからず、彼に椅子をすすめ、ドアの隙間から覗いていたフィトーレに何か飲み物を持ってくるよう頼んだ。すると彼は私の注文に付け加え、控えめな様子で紅茶と角砂糖をフィトーレに要求した。フィトーレは訝しそうにしながらも微かに頷いてドア口から姿を消した。