複雑・ファジー小説

空色 ( No.3 )
日時: 2016/07/10 00:04
名前: 亜咲 りん ◆zy018wsphU (ID: hd6VT0IS)
参照: 友人から、眼鏡、病院、ひまわりをテーマにした話を書けと言われて笑

 
 ぱさ、と乾いた音がして、思わず目が醒めた。
 まだぼやけている視界に、開かれた窓と、揺れるカーテンが目に入る。どうやら窓を閉め忘れたまま寝ていたらしい、と反省し、私は簡素な椅子から重い身体を持ち上げた。

 カラカラ、と音を立てて閉まる小さな窓。
 この病室で彼女の様子を見るたびに、この閉塞感溢れる病室には、窓が必要なことがひしひしと伝わってくる。外の世界の様子がわかるのは、この窓の外の景色だけ。それはなんと寂しいことだろうか。

 ふぅ、とため息をつき、ベッドで死んだように眠る彼女を見る。青白い肌、痩せた頬、色素の抜けた髪。私よりも年老いた、たった1人の娘。あの頃の、ひまわりのように明るかった彼女はどこへ行ってしまったのだろう__

 胸が締め付けられるような思いとともにふと彼女の痩せた手元を見ると、なにかがきらり、と輝いた。
 思わず近寄って持ち上げてみると、それは淡い青色の眼鏡だった。
 誰だろう。今日は私しか彼女に会いに来ていないはず……
 はっ、としたときにはもう遅く、私はこの眼鏡をここに置いた人物の記憶が次々と浮かんでは消えていく。

 明るい茶色の髪をしたあの子。きっと、彼女の好きだった人だろう。



 高1の春。彼女はやっと、遅い初恋を私に告げた。
 相手は、同じクラスの爽やかな人気者。1度授業参観のときに彼と一緒にいる彼女を見たけど、2人の周りだけ雰囲気が柔らかく、ああ、これはきっと両想いなんだろうな、と思った。
 しかしある日雨の中、彼女は涙を流しながら家に帰ってきた。
 どうしたの、と聞くと、彼女は震える声でこう答えた。

「彼女がいたの」

 再び泣き始めた彼女を見ていたら、私の感情もお腹の中でぐるぐるとまわり、気付いたら雨が止むまでずっと二人で泣いていた。

「私、諦める。次の恋を探す」

 次の日、大分吹っ切れた様子の彼女は、いつも通りのひまわりのように明るい笑顔で家を出て行った。まだ泣いた跡は残っていたが、その姿には妙に清々しさを感じ、私も笑顔で手を振ることができた。
 大丈夫。あの子なら乗り越えて行ける。
 すっかり安心し、私も仕事に出かけた。
 その日彼女は、家に帰らなかった。いや、帰れなかった。

 連絡を受けて近くの病院に行くと、彼女は緊急手術を受けた後だった。
 交通事故だった。信号無視で交差点に突っ込んできた車にはねられたらしい。幸いにして、死に至る怪我は負わなかったが、彼女は脳の一部が損傷して後遺症が少し残り、さらに、くまなく撮ったレントゲン写真からは、闇が見つかってしまった。医者は私に、治すことは難しい、と静かに言った。

 私は彼女をそのまま入院させ、高校には休学届を出した。そして、彼女は外に出ることができなくなった。
 恋は人に、良くも悪くも活力を与えるという。そのチャンスさえも奪われた彼女は、毎日、まるで抜け殻のようだった。与えられた食事を淡々と食べ、消化していく、色の無い日々。

 彼はあれから1度もここに来ていない。そのはずだった。


「……お母さん」

 彼女の声に、私は現実世界に引き戻される。
 慌てて背中に手をそえると、頼りない身体が一生懸命震え、彼女はゆっくりとおきあがった。

「おはよう。今日はお寝坊さんね……」
「うん。……それ」
「眼鏡よ。……かけてみる?」
「……うん」

 弱々しく微笑み、どこか不思議そうに、彼女は眼鏡を受け取ってつけた。
 淡い青の眼鏡は、彼女の小さな顔にぴったりとはまっていて、まるで……

「……誰かと、約束をしてた気がする」

 ぽつり、と彼女がつぶやく。
 遠い遠い日の記憶を探るように、澄んだ瞳を窓の外に向けて、微笑む。

「お前に似合う眼鏡を買ってやるって、言われた気がするんだ」

 私はぴくり、と震えた。彼女は元々目が悪く、前まで使っていた眼鏡は事故で壊れ、今は常に裸眼だ。
 彼は、きっと、覚悟を決めて、約束を果たしにやってきたのだろう。自分が彼女を裏切った次の日に彼女が事故にあったから、罪の意識もあったのかもしれない。でも、この、ただの、でも大切な眼鏡を彼女に渡すために、ひっそりと彼は訪れたのだろう。

「そう言ったの、誰だったかなぁ」

 彼女はそう明るくつぶやいて、私の方を向いた。空虚な笑みが鈍く光っていた。
 残念なことに、彼女の記憶からは、彼の記憶は消えている。それが後遺症だった。でも、他に抜けている記憶は見当たらない。
 もしかしたら彼女は、自分からあの車に飛び込んだのかもしれない。
 辛い記憶を忘れて、美しい記憶だけで生きていくために。

「……誰でも良いじゃない」
「うん、そうだね」

 開く唇が、悲しみで震える。彼の想いはもう、彼女には届かないのか。
 すると、彼女は眼鏡を少し顔から浮かせ、首を傾げながら呟いた。

「そういえばなんでこれ、こんな色なんだろうね?」
「それは、あなたの名前だからじゃない?」

 ぽとっ、と彼女の手から眼鏡が滑り落ちた。
 どうしたんだろう、と思って彼女の顔を見ると、彼女の頬がまるで林檎のようになっていた。

「……おんなじこと、言わないで」

 誰か、というのは、やっぱりわからないのだろう。恥ずかしそうに呟きながらも、彼女の瞳は揺れていた。
 
 思わず視界が揺らぎ、熱いものが流れる。

 これで、最後ではないのだと、誰かが語りかけてきた気がした。
 


         ……end.