複雑・ファジー小説
- 葡萄 ( No.29 )
- 日時: 2016/09/02 01:15
- 名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: JkVnDcbg)
- 参照: 林檎でもいいんだがな。
嗚呼、今年も咲いた。美しく、麗しく。ピンクの微笑みが花開く。
まだつぼみだったはずの微笑みは満面の笑みとなり、ふいに君は現れる。
「やあ、久しぶり」
そっとたからもののように呟いてみる。花が揺らめき、君の姿も瞬いた。
「じゃあ、唄うよ」
そう短く言って、私は琵琶を手に唄い出す。
花が咲いたら唄いましょう。
他でもない君との約束だ。それは絶対に果たさなければならない。
辛い旅路の途中、私は人知れず、こころの中で泣いていた。
「あなたは淋しいの?」
その固い鎧に覆われた私のこころにすうっ、と入ってきたのが彼女だった。こくり、と私は頷く。
「私もよ。淋しいの」
艶やかな唇が滑らかに動き、私を縛る。真っ白な肌の君は、私が触れるとほんのりと紅く色づいた。
「冷たいんだね」
「私の身体は誰かに抱きしめられるようにできているの。他でもない、貴方に抱いてもらえるように」
「私のために?」
「ええ。それが運命なの」
身体とは対照的に熱い吐息と共に、言葉が紡がれる。ぎゅ、と抱きしめた君の身体は、壊れてしまいそうなほど細かった。
「嗚呼、あたたかい……」
私の腕の中で、君は恍惚とした表情を浮かべる。しかしすぐに私の腕を振りほどき、猫のような金色の瞳で再び私を見つめた。
「冷たいんだね」
「私の身体は誰かにすぐに預けられるようにできていないの」
「なら、どうすればいいんだい?」
真っ赤な唇が、怪しく煌めく。
「花が咲いたら唄って頂戴」
そうしてそのまま私に口づける。甘い蜜の匂いが私の鼻を刺激した。
「花が咲いたら唄いましょう。貴方は私のかたちをした花を探すの」
「それはどこにあるのかな?」
「探せば遠く、かと思えばすぐ傍にあるものよ」
彼女の黒い髪が耳元に当たって弾けた。彼女の白く細い腕が、蛇のように私の背中に絡み付いてくる。金の瞳がただただ私を見ていた。
「それは……いつ?」
「忘却の彼方の中に」
そう言って、君は私のもとを離れて、なにかを持ってきた。
「葡萄はおすき?」
「ああ」
「そう」
熟れた葡萄が目の前に差し出され、私はごくりと喉を鳴らす。触れてはいけぬとわかっていながら、私はそれに手を伸ばした。
「おいしい?」
「……おいしい」
「それはよかったわ」
甘やかな風味が口の中に広がる。彼女が口づけを落としたのだ。1粒1粒葡萄を手に取る度に、君の林檎のような唇に奪い取られていった。
嗚呼、今年も朽ちた。美しく、厳かに。何もなくなってしまった枝が、風にゆさゆさと揺れる。
それでもなお、強かな蜜がこぼれ落ち、ふいに君は現れた。
「やあ、お別れだね」
そっとたからもののように呟いてみる。葉が揺れ、君の姿も揺らめいた。
「じゃあ、さようなら」
花が朽ちたら死にましょう。
あとには葡萄だけが残つてゐた。