複雑・ファジー小説
- Re: はきだめのようなもの ( No.19 )
- 日時: 2019/06/16 10:35
- 名前: 凛太 (ID: aruie.9C)
心臓の音が耳朶を打つ。イェルダはいたく動揺していた。
乗客も疎らな中、列車は雨の中を進んでゆく。黒々と垂れ込めた雲を眺め、イェルダは震えが止まらなかった。
金の砂塵
イェルダという娘は、とおく異国の地のたもとに生み落とされた。世にも珍しい、深い琥珀のまなこを持つ民。イェルダは、その血の連なりにあった。
人攫いが目を付けたのは、ただ、それだけが理由だったのだ。若く、至上の眸を持つ娘は、ある日を境に売り飛ばされた。稀代の芸術家の渾身の一作や、世から世へと主を渡り歩いた真紅の指輪。ありとあらゆる什宝を蒐集した、老齢の豪商の元へと。
それからの日々は、世事など疎いイェルダにとって、酷薄なものだった。食餌など、欠片ほどしか与えられず、僅かにでも主の気に障れば、拳を振るわれた。
だから、イェルダは館に火をつけたのだ。彼女はさいわいに恵まれた。膨大な砂漠の中から、まばゆい一粒の好機を見つけたのだった。そうして、イェルダは裸足で駆け抜けた。道中で金をくすね、あるいは泥水を啜り。生にしがみ付いて、イェルダは逃げ延びたのだ。
とにかく、遠くへ行かねばならぬ。琥珀のまなこが厭わしくて仕方がない。このままでは、ふたたび同じ目に遭わされるのだから。
ゆえに、イェルダは隣国を目指した。彼処の国は、奴隷制が廃止されていると聞く。なんとしてでも、たどり着くのだ。
かくして、擦り切れた衣のままに、イェルダは夜行列車に飛び乗ったというわけだった。
無骨な列車の椅子に深く腰掛け、イェルダはぼうと外を眺めていた。時刻は夜半を回る頃だろう。豪商の館から、随分遠くまで来たものだ。窓硝子に映る彼女の面は、あどけなくも鬱屈としたものをたたえていた。
うつら、と舟を漕ぐ。イェルダは疲弊していた。瞼は重く、肢体は鉛のようだ。コンパートメントで仕切られているため、周囲に人はいない。イェルダが、たやすくも意識を手放そうとした、その時。
「そこのお嬢さん」
ふいに声をかけられて、イェルダの肩が大きく跳ねた。恐る恐る、廊下の方へ視線を向ける。そこには、帽子を目深に被った青年が佇んでいた。かなりの上背があり、手狭なコンパートメントの中では、窮屈な印象を与えた。
「ご一緒しても?」
そう問われて、イェルダが被りを振ることなど、到底できそうになかった。何故なら、青年は言葉を返す前に、向かいの席に座ったからだ。
青年の古めかしい外套は、雨に濡れていた。彼は悪戯めいたように肩を竦める。
「外は大雨だし、参ったね。それで、お嬢さんは何処までいくんだ? こんな夜更けに、一人きりで?」
青年は気さくに話しかける。その口角は、軽薄そうにつり上がっていた。
「……祖母のところへ、お見舞いに行く途中なんです。父さんや母さんは仕事が忙しいから、あたし1人で」
「へえ」
イェルダは必死に嘘を並べ立てる。怪しまれてはいけない。ここまでしてきたことが、全て泡と帰してしまう。
青年は納得したように顎を指で撫で、次に大仰に脚を組んだ。彼の仕草はどこか悠然さを帯びていた。憔悴したイェルダのかたわらにあっては、殊更。
「しかし、一人旅は寂しいだろう。俺で良ければ、君の話し相手になりたいのだけれど」
「……ありがとう、えっと」
「テオドール。テオでいい」
「ありがとう、テオ」
小さな声で、イェルダが礼を述べる。彼女は困惑していた。厄介なことになった。眼前のテオドールという男は、妙に計り知れぬところがある。僅かにでも尻尾を見せれば、一瞬にして全てを見抜かれてしまうのだろう。
「テオは、何処へ行くんですか?」
「実は、まだ決めてないんだ。でも、いろんなところへ行ってみたいな。人で溢れた大都市や、片田舎の牧歌的な村もいい。ああ、でも」
半ば、独白のようなものだった。テオドールは声を弾ませて、言葉を手繰り寄せた。
「隣国へ物見遊山、でもいいかもね」
イェルダの頭が、さあと冷えてゆく。まさか、気づかれたのだろうか。けれども、何故?
急いた思考を巡らせたのは、ほんのまたたきほどのことだった。
「他所の国に行ってみたいんだ。仕事柄、あまり国境を跨ぐことはなかったからね」
あまりに自然な息遣いで、テオドールがそう告げるものだから、イェルダは密かに胸を撫で下ろした。
良かった。まだ、悟られていないのだ。
けれどもこの調子では、イェルダの心臓がもたない。彼女は矢継ぎ早に、次の一手を投じてみせた。
「どんなお仕事をされているんですか?」
「退屈な仕事さ。ずうっと、一つところにいて。同じやつの顔を眺めてさ」
テオドールはうんざりしたように、ため息を一つついた。その様子は幼子めいていて、思わずイェルダはくすりと唇を綻ばせてしまう。
「それで、長いいとまを取って、観光へ?」
「……うん、そうだね」
帽子を深く被ったテオドールの、陰を落とした口元が、仄暗く嬉しそうに緩んだのを、イェルダは見逃さなかった。ぞわりと背筋が粟立つ。
テオドールは身を僅かに乗り出した。薄く開かれた唇から、生々しい舌がちらつく。
「さあ、今度は君が話す番だ。さもなくば、不公平というものだろ」
テオドールの目元までは見ることは叶わぬ。だけれども、きちりと視線が交錯した気がした。
「なあ、イェルダ?」
自らの名を聞いた時、イェルダは息を呑んだ。紗の幕のように覆われた、長い前髪の向こう。彼女の双眸は、ゆっくりと、確かに見開かれていた。
テオドールはくつくつと喉を鳴らし、帽子に手をかけた。さらけ出されたのは、うつくしい糖蜜の髪にまぎれた、褐色の角だった。
魔術師だ。イェルダは直観した。人を模した、異形のもの。だけれども、どうして魔術師が。
「愚かなイェルダ。君は、疑うことを知らないのか? 非力な小娘が、いかにしてあの館を一人きりで抜け出せる?」
「……あなたは、だれ?」
イェルダの唇がわななく。
テオドールは邪気のない、虚ろの笑みを浮かべた。彼のよく熟れた真紅の瞳が、ゆるやかに細まる。イェルダは、その色をよく知っていた。
「手酷いな。俺たちは、主を違えることなくまつろう、同胞だったというのに」
主。あの、豪商のことか。だとしたら、テオドールは。
イェルダは必死に記憶の糸を手繰る。
真紅の、瞳。そうだ。イェルダがあの忌まわしい館に連れてこられてから、ずっと。繰り返し、この目におさめてきたではないか。
醜い豪商の指には、いつだって真紅の宝石が飾られていた。それを視界の端に捉えるたびに、イェルダは見張られているような、気味悪い感覚に足を竦められたのだ。
「ひとめまみえた時から、一等哀れに思っていた。だから、手を貸した。いい加減、あの主には辟易していたから」
テオドールは、イェルダの手をそうっと取った。 体温は、全く感じられなかった。手を引っ込めようと力を込める。だけれども、ぴくりとも動かぬ。
「イェルダ。君があの豪商にナイフを突き立て、館に火を付け、殺したその瞬間から」
世から世へと主を渡り歩いた真紅の指輪。本当だとしたら、目の前の男は。
「君が、俺の主になったんだ」
不意に、イェルダの口から、乾いた笑い声が漏れた。テオドールは笑んだまま、かすかに首を傾げる。
「……だとしたら。本当に、そうだというのなら」
溜め込んだ澱を、時間を掛けて吐き出すように。イェルダは切望した。
「あたしの、逃亡に、手を貸して下さい」
「……うん」
テオドールが何かを促すように頷いた。彼は、待ち望んでいるのだ。そのことにイェルダははっと気づき、目を瞑る。そうして、言葉を続けた。
「あたしの命を守って。あたしを殺そうとするものを、この両目を狙うものを。全部、全部殺して」
感情の波が、堰を切る。閉ざされたイェルダの瞼から、つうと雫が垂れ落ちた。
イェルダは、そのまなこを除けば、凡庸な娘だ。豪商の館に来るまで、虫だって殺せぬ、臆病者だった。だけれども、彼女は。豪商の、そして彼の館で働く人の命を、根こそぎ燃やし尽くした。
「新たな我が主。その命、確かに」
いつのまにか、イェルダの人差し指には、あの指輪が嵌められていた。
イェルダは、砂塵の中から黄金を手にした。されども、彼女は知っている。いつか、テオドールは己れを殺すのだ。逃げ延びねば。そのために、彼を利用する。
イェルダが彼を睨め付ける。
テオドールは、丁寧に三度瞳をまたたかせた。そして、ただ愛おしそうに、彼女の指を撫でたのであった。
***
半年ぶりくらいに、多分何かを書きました。
Twitterやらなろうやら、アカウントを作っては消して。
そろそろ、どこかへ羽を休めたいです。