複雑・ファジー小説
- Re: はきだめのようなもの ( No.2 )
- 日時: 2016/05/07 00:18
- 名前: 凛太 ◆ZR4vcGLyhI (ID: aruie.9C)
当主は病に臥せていた。流行り病とも違う、不思議な病だ。眠りの病ともいうべきか、ふと目を離すと死んだように当主は眠るのだ。最初こそは一日で目が覚めたが、時が経つにつれて起きる感覚が長くなっていった。一日から三日、三日から一週間、一週間から一カ月。このような調子だから、最早死んでいるのか生きているのか皆目見当もつかない。当主が幾度目かの深き眠りについた時、館の者は皆部屋を出払い暇をもらった。結局残ったのは、当主とその家族、そして数人の使用人のみとなった。肝心の当主は何十という四季を巡り、そのどれもを寝台で過ごしたが、一向に目の覚めぬままに次の春を迎えようとしている。当主の好きな、花が綻ぶ春の季節だ。
「お早うございます」
夫人はいつものごとく、寝台に横たわる当主に挨拶を告げていた。当主の顔は若々しく精悍で、それでいてどこか儚い。金の睫に閉ざされた、翡翠の瞳を見ることは、生涯叶わないのだろうか。僅かな寝息が、彼の生命の輝きであり証しでもある。夫人の手はほっそりとしており美しく、それでいて上品な年輪が刻まれていた。夫人は当主の頬を遊ぶように撫でた。
「今年も春が来ました」
夫人の手が額で止まる。当主はやはり、規則正しく胸の辺りを上下させていた。
窓から舞い込んできた風にふかれ、眩いまどろむような当主の金の髪がゆれた。
当主の時は、止まっていた。老いることもなく、死ぬこともなく、変化もない。全ては数十年前、不安に瞼を瞬かせた後、倒れこむように、ゆっくりと寝台に背を預けたあの日から。たゆたうような季節を当主と過ごした夫人は、あの若き日々の面影はあるものの、そこにあるのは白磁のような滑らかな肌ではなかった。全て、あの時のことは幻ではだったのではないか。夫人は何かの拍子に、そう思うことがある。あの当主に嫁いだ日から、今までのことが。それでも、病に囚われた当主の姿を視界に捉えるたびに、ああやはり現実なのだと安堵する。
通いの医者は、なおも月に一度は館に訪れてくれる。もう治らないのだとわかっていながら、夫人を慰めるために、あるいは当主の姿を焼きつけるために。
夫人と当主の間に子はいなかった。そして、当主の両親も死んでしまった。夫人がここに居残る理由など、何一つないのだ。実家に戻って行ったって、世間は許してくれるだろう。悲劇の夫人と名を授けられ、静かに余生を過ごしてもいいのではないか。現に夫人の兄からは度々実家に戻れという旨の手紙が届けられた。けれど夫人はその慈愛を含んだ眼差しで、断った。全ては、当主のために。いつか、目覚めるその日を信じて疑わずに。
陽だまりのこぼれる部屋に、もう一人現れたのはやわらかな午後のことだった。
「あら、お医者様」
「御機嫌はいかがですか、夫人」
体格のいい、粗暴な印象を受ける男だ。彼こそが医者であり、夫人とともに眠る当主を見守り続けたその人でもある。医者は夫人の用意したいすに腰掛け、そして当主の顔を窺った。前回に訪れた時と、なんら変わりのない。それが、ある意味では当然でもあったのだ。
「話は考えてくれましたか」
医者は真摯な瞳で問う。夫人はそれを受け、そしてやはり僅かにほほ笑んだ後首をふるのだ。
「ありがとうございます。けれど……」
その先を聞くのは躊躇うように、医者は目を細めた。夫人もその先を紡ごうとはしない。お互いに、わかっていたのだ。流れる空気は優しさをはらみ、しかし焦がれるような熱情をうっすらと纏う。
「ええ、ええ。わかっていましたから」
「本当に、ごめんなさい」
「いやはや、貴女は驚くくらい一途だ」
そして医者はふと、視線を窓に移した。鮮やかな庭園が見える。
「彼がこうなってしまったのも、この時期でしたね」
「もう少し詳しく言えば、あの庭園の花が咲く前でしょう」
「そうでしたっけ」
「そうですよ」
夫人がころころと笑う。その笑い方だけは、彼の人と同じように老いを感じさせないものだった。まるで、花が綻ぶような。医者は白髪のまじった頭髪をかきながら、喉の奥から笑い声をあげる。
「私ならば貴女を幸せにできるというのは、私の思い上がりだったのでしょうね」
夫人は目を丸くした。瑠璃色の瞳に、陰りがさす。
「そんなことはないわ、全ては私の我がままなのです」
「いいや、そんなことはない。貴女が真に幸福に包まれるのは、彼が目を覚ました時でしょう」
医者は不器用にも笑顔をつくる。夫人は今一度、当主の寝顔を見た。はっとするほどの安らかな寝顔は、鮮やかにもあの時を思い起こさせる。夫人が、夫人と当主が、たっぷりの陽光に包まれた日々を。
しかし、今となってはそれも遠いものなのだ。かつて、花のような笑顔だと賞賛を送り、夫人の頬に口づけをおとした当主は。そして、やわらかく顔を綻ばせた夫人の姿は、在りし日の思い出にすぎない。
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書いてて一番好きな短編です。
大好きなweb小説があって、それに強く影響を受けて書いたもの。
透明感のある文章って、難しいなあ。