複雑・ファジー小説

Re: はきだめのようなもの ( No.4 )
日時: 2016/06/02 11:57
名前: 凛太 ◆GmgU93SCyE (ID: aruie.9C)

つがいの星
1

「俺、あと少しでいなくなるから」

遠くから、トランペットの音が聞こえた。それはとても歪でありながら、初夏の陽気のもとへ、一直線に伸びている。野球部が走り込みをする掛け声と、廊下から聞こえる女子のかしましい喋り声が混ざり合い、溶けていくようだった。

「バカ千夏、ここの問題間違ってる」

なんでもない風に、いや実際にはなんでもなかったのかもしれない。壮太くんは、緩慢な手つきでわたしのノートを指差した。そこには力の抜けた文字が、うようよとひしめき合っている。わたしは間違いに気づくと、慌てて消しゴムを握った。余りに強く力をかけすぎたのか、ノートは乾いた音を立てて、少しだけしわになってしまった。

「え、壮太くん、いなくなるって、どういうこと?」

わたしは、ノートに目線を落としたまま、口を閉ざさずにはいられなかった。 壮太くんは何も言わない。まるで、このしじまを楽しんでいるみたいにして。

「転校するの?」

私の頼りない言葉が、教室に四散して弾けた。私たちだけでは、この教室は広すぎたみたいだ。

「転校はしないよ」
「じゃあなんで」
「ばーか、嘘だよ」

壮太くんはそう言って、狐みたいに目を細め、口元をゆるやかに上げた。彼は、まるで作り物みたいなひとだ。決して華やかな顔立ちではない。けれどもよく眺めれば整っていて、凛とした清涼感があった。何よりも色素の薄い瞳が、彼を人工めいたものにさせていた。もしそれに捉えられてしまったならば、きっと抜け出すことはできないのだろう。

「びっくりしただろう」
「こういう嘘、よくないよ」

若干、強く言いすぎたかな、とおもう。壮太くんは、心外だと言いたげに眉をひそめた。そのあと、何かを思いついたようにして、瞳にきらめきが宿った。

「バカ千夏、もしかして悲しくなった?」
「そりゃ、そうだよ。幼馴染だから」
「そっか、そうだよな」

そうしてわずかな沈黙の後、彼は絞り出すようにして言を発した。

「ごめんな」

校庭の方から、歓声が湧き上がった。きっと、サッカー部に違いない。ふと窓の方に目をやると、雲ひとつない青空の向こうに、飛行機が飛んでいくのが見えた。

「千夏は、志望校どこ」
「……教えない。うんと頭のいいところだから、馬鹿にされそう」
「そっか」

そう言って彼は、手元のスマートフォンに目線を落とした。

「壮太くんは、どこいくの?」
「どこだろう」
「まだ、決めてないの」
「うん、まあ、そんな感じだ」

曖昧にぼかされた答えに、わたしはすっかり拍子抜けした。時折、彼はとても達観した表情を見せるものだから、きっと未来なんてとっくのとうに決めてしまっているものなのだと思っていたのだ。いつだって、彼は、壮太くんはそうだった。クラスメイトとは、何かが違っていた。例えばみんながどこか熱に浮かされる文化祭の時だって、彼一人だけが何も変わらない。それはきっとノリが悪いとかそういうのではなくて、落ち着いてるとか、どっしり構えているとか、そういう表現が似合うのだ。ただ、常に少しの不安めいたものが帯びていた。

「きっと千夏は、大人になっても変わらない気がする」

ぽつり、とつぶやかれた言葉が、やけに私の胸の中に響いた。何故だか、焦燥に駆られてしまう自分がいる。壮太くんは、ようやく顔を上げると、私の顔を正面から見据えた。

「きっとどこかの大学に行って、友達と遊んで、就職して、誰かと結婚して、子供が生まれて、それでも千夏は、呑気に笑ってる」
「それって結構良い未来だね」
「そうだろう、だから」

風がさあっと私たちの間を駆け抜けていった。壮太くんは一度だけ、ゆっくりと瞬きをしてみせた。

「千夏は、絶対に幸せになれるよ」

そう言って、壮太くんは静かに笑った。


***
中編です。続きます。