複雑・ファジー小説

Re: はきだめのようなもの ( No.6 )
日時: 2017/09/06 17:23
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

 泣くという行為を、始めて知った。それは身が千々れてしまうような、喉の奥から熱いものがこみ上げてくるような、可笑しな感覚だった。ぽろぽろと止めどなく流れる大玉の雫は、行く当てもなく、頬を伝い果ては地に零れ落ちる。視界は霞で遮られ、世界が揺らいでいく。

「もう会えない」

 念を押すように告げられた声は、悲哀の情を含んでいた。ああ、もしかしたらという僅かばかりの希望が胸に灯り、けれど次の瞬間にはそれすら消し去った。

「会えないんだ」

 僕の指を取った小さな手は、仄かな熱量を持っている。それを砕いてしまうのは、造作ないことだ。彼女の理知的な両の目も、涙に濡れているのだろうか。嗚咽に遮られ、声を発することすらできなくなってしまったようだ。

「私は」

 雄雄しく、そして可憐さすら併せ持つ声だった。いつも僕を諭し、教え、導いてくれた声。

「私は、嫁ぐことになった」

 心の臓に、矢でも深く刺さったような気がした。じわりと胸に痛みが広がって、身体中を得たいのしれないものが走り抜ける。彼女の手が緩やかに、僕の頭を撫でた。

「相手はここより遠方の国に住んでいるらしい」

 相槌だって打つことができなかった。だから代わりに、頭を大きく揺らして頷いて見せる。

「だから、すまない」

 謝るなんて、そんな。

 その言葉が、僕等の関係ごと不安定にさせてしまう。かつて共に過ごした、煌めきの時すらも、忘却の彼方に流れてしまうのではないか。陽炎のように揺らめく過去は恋い焦がれたもので、されど再び掴み取ることは夢のまた夢だ。

「いつか、共に羽ばたこうと約束したというのにな」

 彼女が自嘲的に言った。そのいつかは、とうとう訪れることはなかった。僕は身を震わせる。そうして、彼女に悲しみを伝えるために。衝撃で地がゆれ、何処かで何かが崩れた音がした。

「私は、お前が心配なんだ」

 目が見えなくたって、彼女の姿はすぐに思い浮かべることができた。光と見まごう髪を持った、美しい少女。風のように軽やかに、水のように清らかに、それでいて炎のような激しさを身に宿した少女の眼差しは、僕に注がれているのだろう。そのことがたまらなく嬉しく、そして悲しくもあった。

「私が居なくなった後のお前を思うと、いてもたってもいられなくなる」

 それは僕とて同じだ。彼女の居ない日々なんて耐えられそうになかった。

「けれど、私は行かねばならない」

 手が、離れた。別離の時が近いらしい。今日だって、彼女はほんの少しの合間を縫って来てくれたのだろう。心優しい彼女のことだから。

「今まで、ありがとう」

 瞼のあたりで、温かいものに触れた。それが口づけだったと気づくのは、数秒先のことだ。

「そして、さようなら」

 瞬間、咆哮にも似た叫びが、腹の底から湧き上がった。空間を震わせたそれに、彼女はどんな表情をしたのだろうか。見当もつかない。それでも、脳裏に輝くのは驚きの混じった彼女の笑顔だった。これは、確かに恋だったのだろう。世界で一番醜い僕は、やはり世界で一番美しい少女に恋をした。それだけの、話だ。





世界の片隅にある小国には、深い森がある。そしてその森の奥には洞窟があり、洞窟の奥には怪物がすんでいた。かつてはお転婆姫と噂された少女は、慈しむようにしてその怪物の話を孫に聞かせるのだ。結局のところ、怪物の真偽は定かではない。けれど、怪物の話は今も語り継がれている。

***
このショートショートを書いたのは、4年前くらい。
書くことから遠ざかっていた時期が長いからでしょうか。
昔の自分の書いた表現に、時折はっとします。

昔に戻りたいなあ!なんて思っちゃったり