複雑・ファジー小説

Re: はきだめのようなもの ( No.8 )
日時: 2017/09/10 20:38
名前: 凛太 (ID: aruie.9C)

マリオネット

 桐一さんは、私の口約束の許婚だった。幼少のみぎり、互いの祖父が成した、たわいもない決め事だ。恐らくは冗談も含んでいたのだろう。その当人達が亡くなった今では、その真意は土に還ってしまった。
 2つ上の桐一さんは、寡黙で清涼とした容姿を持つ人だった。特に、濡れ羽色の瞳が印象的だったように思う。私はその双眸が、ひどく怖かった。ふとそちらに意識を遣れば、深い闇にとらわれてしまう気がしたのだ。だから大人になった今でも、面と向かって話すのは苦手だった。

「誉さん、仕事はどう」

 桐一さんと会うのは、決まって第3週の日曜日だった。人気のないコーヒーショップで、向かい合わせに座る。儀礼的な問いかけは、彼が面接官だと錯覚してしまうには充分すぎるほどだった。

「順調、かな。今は運動会の準備で大忙しだけど」
「幼稚園の先生は、常に大変だね」

 抑揚の篭っていない声で、彼は言った。私は曖昧な笑みを浮かべては、そうねと相槌を打つ。彼は、お喋りな女性は好みではない。だから私は、求められたもの以上のことを口にしたりはしない。髪型や、服装だってそうだ。私の髪が長いのも、早く起きて丁寧に髪を巻かなければならないのも、趣味ではないワンピースを着なければならないのも、彼に起因していた。整然と並んだ規律を、僅かでも踏み越えてしまったならば、彼は静かに顔を歪めるのだろう。そこに少量の侮蔑を含んでいるであろうことは、想像に難くない。

「ああ、そうだ。誉さん、結婚しよう」

 彼は眼前のパンケーキを切り分けながら、そう告げた。淡々とした声だった。

「ええ、喜んで」

 彼は、私を一瞥しただけだった。だから私も、なんの感慨もなさそうに、努めて冷静にコーヒーを飲んだ。彼のことはよくわからない。ただ、計画が崩れることを厭う人だった。取り立てて暴力に走るだとか、喚き散らすだとか、そういったことはしない。ただ、責めるような目で私を据えるのだ。
 過去に一度だけ、大学生の頃だったか、別の人と付き合ったことがある。許婚なんて、名ばかりだと言い聞かせて。けれども結局のところ、罪悪感に潰れて別れてしまった。愛だとか、恋だとかそういうものではない。ただ逃れられない何かが、私達の間に絶えず存在していた。

「誉さん」

 名前を呼ばれて、顔を上げる。

「幸せにするよ」
「ありがとう」

 周囲から見れば、幸せな2人なのだろう。もう逃げられない、と思った。いいや、最初から、逃げるつもりなどなかったのだ。はじめて祖父から彼を紹介された日、差し出された手をとってから。彼が望む私でいる限り、彼は私を必要としてくれる。ずっと抗い続けるより、罪に沈んでしまうより、その双眸に囚われてしまう方が、きっと楽だ。

「死が2人を分かつ時まで」

 彼が、薄く笑った。





 きっと、誰よりも不変に焦がれていたのだ。



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オチがないです。