複雑・ファジー小説

Re: 夏のための戯曲 ( No.5 )
日時: 2016/07/09 14:50
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)

 目が覚めたら、保健室のベッドにいた。視界に入る水色のタオルケットと、染みがぽつぽつとある天井と、つんと刺すアルコールの匂いで気付く。
 慌てて飛び起きると、途端に全身がずきんと痛んで、反射的に目を瞑ってしまい、開こうとしたらまた、切れるような痛みに襲われた。満身創痍。さっきまでのことを、少しずつ思い出していく。僕は、英語の課題を間違えて、桜庭に殴られて、意識を失った。

 「起きた? 田無くん」

 養護教諭の中島先生が、珍しく心配そうな顔で僕を見ている。
 僕はよく保健室に来るから、先生からしてみると、僕の印象は、「少しサボり癖がある生徒」なんだろう。微熱や頭痛を感じて保健室に行く度に、また来たの? と言って体温計を渡す先生は、内心迷惑がっていそうで、僕は学校の保健室にさえ居場所がなかった。
 そんな先生が、本気で心配そうな目を僕に向けている。

 「中庭の方で倒れてたから、って桜庭くんがここまで運んできてくれたけど、どうしたの、その怪我。ケンカでもした?」
 「してないです」

 どうやら僕は桜庭のせいで意識を失った後、桜庭によってここまで連れてこられたらしい。そんなことするくらいなら、最初から殴らないで欲しいものである。
 中島先生は、まだ陰りのある目で僕を見ている。そして、本当に唐突に、

 「いじめられてるんじゃないの?」

 と言った。
 まさか、先生はその相手が、桜庭だとは思っていないだろう。桜庭は優等生だ。顔もよければ頭もいい、運動もできる、そして中庭で倒れていた僕をここまで運んでくれるほど、優しい。桜庭本人が望んで得たそのポジションを、僕が崩せるとは思えない。

 「違います、転んだだけです」
 「転んだ傷じゃないよね、それ」

 すべてお見通しなのよ、と中島先生は言った。
 僕はというと、この16年程度の人生で、いちばんの危機を感じていた。

 もし、桜庭にいじめられていることがバレてしまったら? 今までは、考えたこともなかった。桜庭は、みんなのいる教室では絶対に僕を叩いたり殴ったりしないし、顔にもアザは作らない。とても卑怯だけど、うまくやってくれているのだ。だから僕が自己申告しない限り、バレない。
 僕は桜庭が大嫌いだ。しかし、僕の存在が桜庭を不幸にした。だから、これは仕方の無いことだ、と自分では割り切っている。僕の父親が、僕の母親との間に、僕を作らなければ、桜庭はちゃんと家族に恵まれて幸せに育ったはずだ。全部僕が悪い。ちゃんとわかってるから、お願いだから、僕と桜庭の事を放っておいてくれ、と何度も頭の中で願う。それを察したのか、はたまた諦めたのか、若い養護教諭は「そ、ならいいんだけどね」と、自分の持ち場へと帰っていった。ほっとして胸をなでおろす。
 僕は、大学へは行けないから、卒業したら多分、このあたりの企業に就職する。桜庭も多分同じだと思う。遠野は大学へ行くだろうな。金持ちそうだから、きっと、東京の方とかに。飛澤さんはわからないけど、僕の想像上では、駅の近くの、パティシエ育成の専門学校なんかに入りそうである。
 将来のことを考えると、少しだけ心が軽くなる気がした。もう僕は桜庭と会わなくていいし、桜庭も僕と会わなくてもいい。ていうか、僕があの高校入試の日、お腹が痛くなっていなければ、今頃この高校には居なかったのだ。絶対に入れる、もっと上でもいいのではないか、と教師に言われたのに、なんであの時、と今更になってやりきれない感情が湧いてきて、結局気分も落ち込んで、僕は、また教室に入れずに、五時間目が終わるのを白いシーツの中で待っていた。

 全身が傷だらけで、痛くて、僕はまだ力を入れる度にじんじんする左足を引きずって、廊下を歩く。桜庭は、誰にも習っていないくせに、人を怪我させるのがうまい。見た目にほとんど代わりはないのに、体は酷く傷んで、そんな僕を見る周りの目が気になって仕方ない。僕はいじめられてなんかいない、そう何回も何回も心の中で唱えながら、歩く。
 六時間目。教室のドアを引けずに、トイレの個室で震えが止まらない自分の体を抱いて、うずくまった。とてもぐるぐるして、具合が悪くて吐きそうなのに、もはや吐き出す物もない。先生、僕は本当に、鬱病をファッションと勘違いしている若者なんでしょうか。
 僕は、ちっとも生きている心地がしない。ここに両足を付いているという感覚もない。ひょっとして、僕は、もう死んでいるんじゃないか。そう思った瞬間、錆び付いてクモの巣が張ってあるトイレの窓を思いっきり開け放っていた。こんな小さな窓からは、空は飛べない。トイレのドアの鍵を開ける。走り出す。目指すは屋上、僕は、一度空を飛んでみたかったのだ。もうチャイムが鳴ったのか、廊下には誰もいない。いや、誰もいないように見えているだけなのかもしれない。どっちでもいいや、僕は、とても晴れやかな気分だった。屋上への階段を駆け上がる頃には、桜庭に殴られた痛みも、苦しみも悲しみも全部消えて、ついに自由になった、と嬉しくて、叫んでしまいそうになる。もう何も考えなくていいんだ、もう何の心配もするもんか。柵を超える。そこでやっと、脚がガタガタと震え始めた。
 高い。下が霞んで見える。おもちゃのブロックみたいな車が行き交う道路が、遠い。少しだけ冷静な僕が、「こんな所から飛び降りたら、痛い思いをするぞ」と言う。一方でかなり脳天気な僕が、「なんだよ、空飛びたかったんだろ」と急かす。強めの風が煽る。うるさい、とすべてを振り払おうとして、柵から一歩踏み出した時、後ろから強く腕を掴まれた。

 「まって、田無くん!」

 懐かしい、古い記憶をそのまま再生しているかのような声が聞こえた。僕の腕を掴んでいる飛澤さんは、涙に濡れた瞳をいっぱいに見開いて、お願い、やめて、と繰り返している。短くなった髪が夏風にひらひら揺れている。
 はっと我に帰った。僕は、何をしようとしていたのだろうか。下を向くと、地上4階の屋上から見下ろす校庭が広がっていて、怖くなって飛澤さんの腕を握る手を強める。怖い。死にたくない。助けてくれ、と言おうとしても声にならなくて、意味の無い言葉を吐き出すことしか出来なかった。すると彼女は「大丈夫だよ」と柔らかく微笑んで、僕の腕を強く握る。僕はそれに、酷く安心してしまって、落ち着いて、よく考えたらこの柵を越えた足場は結構面積があることに気づいて、越えた時と同じように、楽に戻ることに成功した。
 安心からか、勝手に涙が溢れてくる。僕はそんな自分が恥ずかしくて、誤魔化そうとして笑顔を浮かべるけど、飛澤さんはすごく心配そうな目をして、僕の背中を擦るのをやめない。凄く怖かったけど、飛澤さんのおかげで助かった。ありがとう、と告げると、私のことなんか良いから、もうあんなことしないで、と、なんだか彼女は少し怒っているようだった。
 適当な蛇口を使って、携帯している薬を飲むと、感情は完全に安定してくる。飛澤さんは居なくなって、僕は屋上で時間を潰す、六時間目。少し眠って目が覚めたら、さっきのことはすべて夢に思えてきた。全部夢だったのだろう。教科書を持って、家に着く頃には忘れているような、しょうもない夢だったのだろう。

Re: 夏のための戯曲 ( No.6 )
日時: 2016/07/14 20:55
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)

 家に帰ってから、僕はまた、ソファーで昼寝をしてしまったらしい。目覚めたとき、窓の隙間からはオレンジ色の夕日が差し込んできていた。夕方なのに暗いままの部屋、壁際に落ちるひときわ黒い影と、夏の匂い。向こうの空はうっすらと紫色の雲をまとい、もうすぐこの街にも夜が来る。

 さっき、自殺未遂じみたことをしてしまったなあ、と思い返しては、泣きたい気持ちになってくる。飛澤さんが手を握ってくれなかったら、僕は今頃ぺしゃんこになっていた。部屋の電気も付けずに、寝っ転がって天井を見る。どうせ明日もこんな人生なら、ぺしゃんこになってしまった方が、僕は幸せだったのではないだろうか。
 夏は、何も食べたくなくなる。夕食替わりに、冷蔵庫に入っていたアイスを食べて、やっと居間の電気とテレビをつけた。午後7時のバラエティ番組に出ている芸能人たちは、みんな楽しそうに笑っている。
 思いっきり体を伸ばすと、少しの間だけ、自分は自由になったかのような錯覚をする。いつでもどこでも肩身の狭い思いをしている僕は、こんな時でないと、伸びすらできないんだなと、自分で自分に笑いそうになった時、テーブルに置いたままだったスマホが光った。
 桜庭から連絡だろうかと思って、手に取る。今日の昼休み、僕が気を失ってしまって、桜庭に保健室まで運ばせたから、その件に関して怒っているのだろう。それか、また金が足りないからよこせと言ってくるかもしれない。桜庭の決めたことに従わないと、僕はすべてを失ってしまう。これからまた学校まで戻ってこい、と言われたとしても、僕はそれに従わなければいけない。見えない鎖でいつだって、繋がれている。
 しかし、そんな予想とは反して、連絡をしてきたのは遠野だった。「これから会える?」の後に、可愛らしいうさぎのスタンプが添えられている。桜庭は間違ってもこんな文を送り付けてこないから、すぐにわかった。
 これから会える、か。既読をつけてしまった以上、返事をしなくてはいけないのだが、正直なところ、これから出かける気は無い。もう着替えてしまったし、殴られたところの傷も痛いし、出かけない理由の方が圧倒的に多いのだ。僕は、少しだけ申し訳ない気持ちになりながら、「ごめん、今日は」まで打ち出したところで、他の奴から連絡が来た。脳天気な通知音が、静かな部屋に響く。
 桜庭である。持っていたスマホを、落としそうになった。手が震えはじめて、止まらない。見たくない見たくないと思いながらも、ページを開いてしまう。たった一文、「今から駅前に三万持ってこい」と、無機質な文字が目に飛び込む。僕はそれを見て、なぜだか安堵してしまった。金さえ渡せば、殴られることなんてないのだ。

 ワイシャツに袖を通す。三万円なんて金額、今の僕は持っていない。でも、遠野に借りればいいか、と頭のどこかで思ってしまっていた。もちろん返せる見込みはない。
 遠野に了解と連絡を送ると、「公園にいるから来てよ」と指示される。僕らの付き合いは長いから、公園という単語だけで、その公園の細部まで簡単に思い出すことが出来る。そんな幼なじみの女の子から、僕は強引にでも金を貸してもらわないと、今度こそ本当に、桜庭に殺されるかもしれない。頭の中で、何度もごめんと謝りながら、僕は家を出た。

 公園に遠野は居なくて、僕はベンチに座っている。見慣れた制服姿の女子はたまに見かけるものの、楽しそうに友達と談笑していたり、あるいは家路を急いでいたりする者だけだった。さっきから連絡がつかなくなった遠野に、若干の苛立ちを感じながら、スマホのサイトをぼーっと眺めている。

 「穂高くん、こっちこっち」

 しばらく待った時、遠野の家じゃない方から、スクールバックを持った、制服姿の遠野が駆けてきた。驚いて、言葉が出なくなる。僕は挨拶もそこそこに、彼女から要件を聞いて、そして金を借りるつもりだったが、あまりの不意打ちに少し面食らってしまって、何度か予行演習した言葉も出てこなかった。
 すぐ近くまでやってきた遠野からは、ふわりとシャンプーの匂いがする。

 「バイトの途中だったんだけどね、抜けてきちゃった。穂高くんに、話したいことがあって・・・・・・」

 風に揺れる黒髪は、きっと乾かしたばかりだろう。とりあえずここじゃまずいから、カラオケ行こうよ、と遠野は僕の手を引っ張って歩き出す。僕は、理解が追いつかなくて、ただついていくことしか出来なかった。
 遠野は、公園のすぐ向かいにある、古びたラブホテルから、ひとりで出てきたのだ。